七章
七章 神の軍勢
一番目の花嫁、エラのいった通り、ルカはただ闇雲に天界を闊歩した。
少し、歩けばエラの小屋は消えてしまった。見えなくなったのではない、小屋を出て、丘を下って、いざ、後ろ髪を引かれて、振り向いたら、そこには丘そのものがなかったのだ。丘は、平坦な大地にシフトしていた。
もう二度とエラさんに会えないことが、ほんの少しだけ、悲しかった。
悪魔の杜も、ここも、周囲の景色がどこも似たり寄ったりという点では一緒。しかしながら、明確に相違点がある。
悪魔の杜は仮に、その空間を誰かが意図的に、入れ替えても、空間そのものが予め捻じ曲がっていても、あの鬱蒼たる木々のせいで、気付きようがない、ということ。せせこましく茂った木々そのものが、空間を歪曲させているに等しいともいえる。一方、天界はといえば、悪意の篭った思惟を感じる。恣意的な思惟だ。
誰かが空間をいじくっている。
それに、いじっていることがはっきり分かる。
わざとやっているとしか思えない。
そして、いじくっているとすれば、そのいじくり手は、神か、神の尖兵か、この場合、神の尖兵は天使だろう。
不愉快だ。
臓腑が煮える。
悪魔の杜を進んでいたときと一緒だ。
ただ、ひたすら、歩くというのは、暇だ。
だから、色々な思考をめぐらしてしまう。
ここで、ひとつ問題だ。
そもそも、どうして、神は全ての霧を晴らすことができなかったのか。あらためて、深く考えてみると、おかしい話だ。吟味の余地がある。
濃霧で太陽を月を、星を隠したのは、悪魔ではなかったのか。
霧は悪魔の悪意の具現ではなかったか。
思考は廻る。そして、あの日、アリサがいなくなって、黒の杖でもって、挑みかかり、そのくせ、負けて、その敗北から目覚めた夜、神隠しという単語が頭に浮かんだことをルカは思い出す。
神隠しというのも、あの神の結婚式で、見て、みずから潜った神の国への階段、通称ゲートはエルダによれば、巫女の力ではないらしい。
そのことも考え合わせよう。
すると、どうだ?
神隠しというネーミングはいいえて妙に思える。
もしかしたら、半世紀前の太陽と月と星の雲隠れならぬ、霧隠れは、実際のところ、神の自作自演なのではないか。
その線の方が、被疑者悪魔よりよっぽど信用できる。
神はアリサを奪ったが、悪魔はルカに協力してくれたこともこのアイデアを支援する。
ルカにとって、どっちが正義か、いうまでもないことだ。
そして、ルカはもうひとつ、杜と天界の相違点を見つけた。
天界は疲れない。
エラはいっていた、不老不死だと。
天界へやってきた人間は、四苦八苦から解放されるとでもいうのだろうか。
いや、と思いなおす。
多分、違う。
エラはそうかもしれないが、自分は違う。
なぜ、違うのか、といわれれば、センスとしかいえない。
が、確かめられる可能性はある。
いい方に問題があるやもしれないが、ルカが天界で自由なのは悪魔の庇護、加護と呼ぶべきだろう。ふつう、悪魔に加担した人間が天界で自由を謳歌できようか? そんなはずはない。ためしに、ずっと、腰に差していた黒の杖を草の上においてみた。
途端、プレッシャーがやってきた。
背中に巨石を担がされているような気分になった。
硬い何かがぎりぎりと皮膚を突き破りそうに押してくる。
喉が詰まる。気道が圧迫されている。
そして、空気そのものが重苦しい。水を飲み続けているようだ。このままでは、溺死するかもしれない。
神の思惟に違いないと思った。
すぐさま、空間を入れ替えられては、かなわないので、黒の杖を回収する。
杖が手元に戻って、安心した。
全身にのしかかる圧力は一気に霧散して消え去った。
黒の杖と出会ってから、まだ一月も経っていない。
何度か、別離もした。
最初は役立たずだと思った。
駐在魔道師にすら、勝てなかったのだから。
けれど、今はこんな頼もしい相棒はいない。
なんで、最初役立たずで使い物にならなかったのかは分からないけれども。
神も殺せる気がする。
だって、神の思惑も退けることができる杖なのだから。神の抗せられない道理はないはずだった。
考えながら歩くと、どれくらい歩いたのか分からない。
そもそも、景色が変わらないし、空間はねじれているので、把握のしようもない。
ルカは上空をみやった。
いい加減、思考するネタもつきそうだったのだ。
空には鳥が何匹か飛んでいた。
大きな鳥だ。
精緻な距離は分からないから、その大きさのほどを正確には知りようがないけれども、日頃の経験からの目検討でいくと、人間くらいはあるかもしれない。
そして、その巨鳥は足がよっつ。加えて、飛び交う内の一匹は、獲物だろうか何かをぶら下げている。
天界で捕食の光景を始めて見た。
鳥たちは、かなり空高くを飛んでいて、シルエットしか分からない。こうして、見ると、太陽の姿はないが、光源は上方なのだな、と感じる。彼らの下部が影で黒いのは、その所為だ。
鳥はすぐにルカの視界から消えた。
結構な速度で飛ぶものらしい。
これまで、天界の生物も植物もルカが知っているものばかりだった。知らないものも、怪物や化物の類は見当たらない。むしろ、悪魔の杜で慣れた所為も多少考慮すべきかもしれないが。
そんな中、足よっつの怪鳥は異質だった。
異質な空間の展開でも異質に見えた。
悪魔の杜の中枢部が場違いに綺麗だった時と、同じような感覚がルカを襲う。
天界には、リルムハも群生していた。
悪魔の杜の近くに生える、アリサが摘んで来た、あの香草。
三家合同成人祝いの香。二年前の香。
たった二年前の。
人によって、人生の客観的長短に差はある。勿論、主観ならば、もっと食い違う。
ルカは思う。
長い悪夢を見ている気分だなぁと。
ルカは視線を戻そうとした。
しかし、止めた。空の怪鳥が、急降下してきたから。
身構えた。
黒の杖を突き出す。
怪鳥の狙いは間違いなくルカとわかる。なぜなら、わき目もふらず、一直線にやってくるからだ。獲物と認定されたか。
ルカと怪鳥の距離はあっという間に詰まる。
段々、怪鳥の姿が明確になっていく。
そして、ルカははっきりしてくる姿を見て、気付いた。
空を飛び交っていたのは、怪鳥ではないことに。
四本あったのは、足ではく、二本の腕と二本の脚。
翼は翼に違いないが、向ってくるのは人間の姿をしている。人間の女に羽の生えた、天使だ。
ようやく、見つけられたらしい。
エラの小屋で食事に現を抜かしていたが、そもそも、ここは神の領域なのだ。エラも無断進入だと看破していたではないか。
天使が気付かぬはずはない。
いままで、無事だった方が不自然だ。
戦わねばなるまい。
アウェイでどこまでいけるか。
黒の杖は進化する。きっと、今回も乗り越えられる。
天使は迫りながら、腕を突き出した。
指先から青い稲妻が現れ、スパークする。電撃は、前に伸びて槍状に形成され、天使はそのまま、ルカに突っ込んでくる。串刺しにする気だろう。
あれだけの速度で途中から、軌道変更は難しいと踏んだルカは杖を構えたまま、天使へ視界を固定し、走った。本来、草地は走りづらいが、天界の草木は存在がないかのように彼を拘束しないから、楽だ。存分に疾走できる。
天使は速度を緩めもせず、地上スレスレまで来た。
地面にぶつかるかと思った瞬間、天使は華麗に上体を持ち上げ、ターンする。自然の法則を無視したかのよう。
今度は、地面と平行になってルカを襲う。速度は依然維持されている。黒の杖に念を込める時間はなかった。
ルカは衝突しそうになるギリギリでしゃがんで、その突撃を掻い潜った。
神が嵐に吹かれたように、髪がざわめく。周囲の草も煽られたように震えた。小さな竜巻に出くわしたみたいだった。仮に青い電撃の槍に貫かれなくても、突撃を掠ってしまったなら、致命傷を負うことになるのは一目瞭然。
ルカはいそいで、天使を視界に捉え直す。一瞬のミスが命取りだ。これまでは、何とかエルダや駐在魔道師の慈悲でどうにかなったが、今回は別だ。本格的な戦闘だ。あえて、いうなら、サシなのが救いだ。天使がふたり、襲ってきたなら、勝ち目はなさそうだ。
さっきまで、神をも殺せそうだと豪語した自信が瓦解しそうになる。
瞳で捉え直した天使は再度、ターンしていた。
また、ルカを串刺しにしようとするのかと、おもいきや、天使は今度は中空で浮かんだまま、突撃してこない。
無表情にルカを睥睨している。
そして、口を開いた。
「しょっぱいね」
人を小ばかにしたような、いい方がルカの神経を逆撫でした。
「黙れ」
ルカは睨み返す。
「残念。私は人間の言葉を聴く耳を持たない」
傲岸不遜な物言いだ。
ルカの杖を握った掌に汗の球が浮かぶ。
一瞬たりとも油断できない。
しかし、そんなルカに天使は手をぷらんぷらんさせて、「まあまあ、落ち着きな」とのたまう。落ち着いてなどいれない。
「血気盛んなのはいいけど、お姉さん感心しないなぁ」
なんて、軽い天使だろう。
自称がお姉さんとは――。
「私はね、反逆ゲームにしようって提案したのだけれどね」
「何をいっている?」
「あれ? エラから説明受けてないの?」
「は?」
「あちゃぁ。やっぱり、エラも人間ってことかぁ、残念だなぁ」
「何がだ!」
「急遽ルール変更でねぇ。最初は、きみが反逆者で、それを防衛しようってノリだったんだよね」
「待て。ゲームって何だ」
天使は面倒そうに、頭を掻いた。掻くごとに、ハイロゥが揺れた。
「でもさぁ、却下されて、私、ちょっと悲しいんだよね」
わざとらしく、天使は悲しそうにした。
「だから! ゲームって何だ!」
「駒だよ。きみも」
「駒……」
エラは自分をプレイヤーだといっていた。しかし、ゲームマスターは別にいるともいっていた。
「ぼくらで遊んでいたのか……」
「まさかぁ。立派な神のお仕事だよ」
ふざけた天使だ。
殺してやる。
ルカは、黒の杖を振った。
思いっきり、心に渦巻く、恨み辛みの邪念を叩き込んだ。
「ムダ……っ」
最初こそ、天使は余裕綽々としていたが、すぐに、その顔は驚愕に彩られ、彼女は身構えた。
黒の杖の先端から黒い腕が生えた。
その腕は六本指の手を伴っていた。見る間に腕は巨大化しつつ、伸張する。
腕は一瞬で天使のところまで伸びて、天使を鷲づかみにした。
逃げる間もなく、握り締められて、天使は苦悶の表情になった。
「うっく」
口からは呻き声。
「死ね」
暗く、底冷えのする声でそう、ルカは小さく告げた。
黒い腕は万力のように、天使を締め上げ、粉砕機のように天使を砕いた。
砕かれた天使は蛍火のような粒に変わって、空気中に溶けた。
最後には塵ひとつ残っていない。
きいいいん。
風切り音だ。別の天使がやってきたか。
ルカは上空を見遣る。
数人、もしかすると数十人規模の天使が視界に入った。さっき滅ぼした天使同様、手には雷撃の矛をつくって、吶喊してくる。
「芸がないなぁ」
ルカは小さく呟いた。
「あ、エルダ。久しぶり」
あんな酷い事をしたのに、アリサはあまり気にしていないようだった。
門を潜ってから、どの程度時間が経ったのか、分からないが、久しぶりとの感覚はなんとなく分かった。エルダの主観時間だと、数ヶ月は経っているような気させしたからだ。
アリサは本を読んでいた。
彼女はその本を閉じて、エルダを迎えた。
「ねぇ、ルカも来ているんでしょ?」
別に責めるような意思は汲み取れないが、エルダは喉に小骨が引っ掛かったような感触に襲われて、それを退けるのに、時間を要した。アリサは気にする風もなく、エルダの回答を書庫の肘掛椅子に座ったまま、待っている。
「何もいわないの?」
「だって、何も分からないもの」
「あの時、欺瞞って」
「うん。そんな気がしたんだよ」
「何に対して、いったの?」
「全部だよ」
アリサは後れ毛を弄んだ。
「ねぇ、で、ルカは?」
やっぱり、それが気掛かりらしい。
「来たよ……でも、なんでルカに拘るの?」
無意識に刺々しくなってしまい、エルダはいってから、後悔した。
「……誓ったじゃない?」
「それだけ?」
「うん」
「私とルカをどっちか選べっていったら、どっちを取る?」
ずるい質問にも思えた。
「両方」
即答だった。
「それはなし」
「それこそ、なし」
勝てそうになかった。
だから、エルダは引き下がった。
初めから勝ち目のない勝負だったのだ。
勝ち目のない勝負なのに、勝てる気がして小ずるい手を労して、この様だ。
目も当てられないとはまさに、これだ。
醜いものには目を向けたくない。
自分で自分の顔を見るには、鏡が必要なのがこんなに嬉しいと感じたことは今までなかった。
「ねぇ、これから、どうするの?」
「ルカを待つよ」
「それでいいの? 他には?」
「村に帰りたいかな」
「あ……」
アリサは村の惨状を知らない。
ルカが家族を失った事を知らない。
「止めたほうがいいよ」
「何で?」
「ここで、安寧に暮らしなよ」
「うぅん。それもいいけど、退屈でない?」
「退屈……」
「だって、考えてみてよ。私たちの村って周囲に悪魔さんがいたんだよ。結構、スリリングだよね? って今更思っちゃって」
はははとアリサは笑った。
今更、気付くなんて遅い。
過去、何度、アリサの危機管理のなさに、ルカとエルダがやきもきしたか。
「遅いよ……」
色々な意味の篭った遅いだった。
最初から敗北していたことに気付くのも遅かった。
世の中、後悔ばかりだ。
「うん。遅いね、ルカ。早く来ないかな」
アリサは「遅い」をエルダとは全然違う意味に解釈した。
エルダには出来ない思考展開だった。
溜息しかでない。
心の中でも、口腔でも、もやもやばかりだ。
「最初、どう思った?」
「何のこと?」
「その、神託があったとき」
いい難そうに、エルダはアリサに訊いた。
「バカヤローって思ったけど、それはそれで仕方ないって思ったよ」
「誓いは?」
「誓いは誓いだけど、それは出来たらの話だよ」
「意外と薄情なんだ」
エルダは口の端が緩みそうになるのを堪えた。ここで、緩ませては、今までと一緒だ。何も変わっていないゲスだ。
「んぅん。約束は大切だけど。エルダも儀式のときいったじゃない? この世界のためになるんだって。私ね、エルダとルカどっちかを選べっていわれても選べない。あなたは、世界が暗黒に染まっても最愛の人といっしょにいたいですか、それとも最愛の人を捨てて、世界を救済しますか? って二択があるとするよ?」
「うん」
「その答えも、私は選べない。別に世界を愛してるなんていわない。だけど、私たちを育んでくれたでしょう。私たちの狭く、小さく、とるに足らない人生を歩んだ大地も、ほんの何百分の一かだけど、切っても切り離せない全世界の一部」
「うん」
「で、エルダもルカも私の一部でしょう? だから、私に最愛なんて言葉はいらないんだよ」
「バカみたいだね、私」
エルダは俯いた。
「何で?」
「気にしないで」
「気になるよ」
アリサは可愛らしく、頬を膨らませた。
「ケリ、つけてくるよ」
「え?」
「全部っていったよね」
「?」
アリサは首を傾げた。
エルダは気にせず、続ける。
「欺瞞」
「うん?」
「欺瞞していたのは、私だったんだ。私はアリサに愛される資格がないんだ」
「そ、そんなことないよ!」
アリサは慌てた。見るからに狼狽していて、声も大きい。
「だって、だって、だって」
エルダは泪ぐむ。泣くな、泣くなと自分にいい聞かせても意味がなかった。
泪は止め処なく溢れ出た。
アリサは椅子から立って、エルダの手を取った。
「アリサを選んだのは私なんだもん!」
「え?」
アリサは目をぱちくりさせた。二重瞼と大き目の瞳が泪で濡れてぐちゃぐちゃのエルダの視界に大写しになる。
「本当はね……」
エルダはしゃくりあげた。
次の言葉が中々出てこない。
いうことは決まっているのに、喉が発生してくれない。
えっぐえっぐと背筋が震える。
アリサはそんなエルダの背中を擦った。
「大丈夫」
優しく、撫でる。
「うううう」
「泪、拭いて」
アリサはハンケチをエルダの目の下にあてがった。
エルダはそれを握り締めて、強く、目を擦った。
しばらく、しじまが二人の間を支配した。
幾分か経って、落ち着きを取り戻したエルダは、小声で語る。
「本当はね――」
「うん」
「決まってないんだ」
「花嫁?」
アリサは察しがいい。辛い説明をする時間が減るのは幸いだった。
「うん、そう」
「巫女は?」
「それは、神が決める……」
「うん。それで?」
「歴代の巫女は、自分で選ぶの、花嫁」
「だから、私だったんだ。そうだよね、見知らぬ人を貶められないよね。エルダは優しいね」
「何で! 何でそうなるの!」
怒鳴ってしまった。
「違うの?」
「――アリサがなくなればいいって思ったんだ……」
「え? いってくれればよかったのに、そしたら、ルカと話して、婚約解消してから、ちゃんと――」
「だから、違う!」
何で、こんなに鈍いのだろう。
わざとやっているとしか思えないレベル。でも、アリサはマジなんだ。
だから、辛い。
「違う?」
分かっていないようだ。
エルダは諦めた。
ちゃんと、いうべきことはいった。
最後に残ったのは、謝罪だ。
「ごめん……ごめん……ごめんなさい」
「うん」
「じゃあね、やっぱり、ケリつけなきゃ」
「えっと……」
「大丈夫。戻ってくるから」
嘘だった。
アリサのところへ戻る資格はない。
そして、ルカを愛するといえる資格もない。
天使から聞いた話が本当なら、まだ、やり様はあるはずだ。
エルダは赤い目を数回擦ってから、アリサを強引に椅子に掛け直させ、書庫を去った。




