四章
四章 村にて
ルカは、杜の入り口に立っていた。
人が来るのが見える。
長いマントを翻す、駐在魔道師と数名の村人。
手には農具を持っている。
何だか、物々しい雰囲気があった。何かあったのか。
「いたぞ!」
一人が叫んだ。
「何てことだ」
駐在魔道師が額を押さえた。
「やつは、杜から生還した。この意味が分かるか」
村人達は互いに見詰め合う。そして、頷き合う。
「彼は、悪魔に魅入られた」
「ああ、神よ」
駐在魔道師の一言に、今度は、村人たちが額を押さえた。
そして、彼らは、鍬や鋤を構えなおす。ルカを見た。ルカも見た。
「捕らえろ」
駐在魔道師が指揮棒を振るように、右手を翳した。
村人達は一斉に駆け出す。ルカは状況がよくわからなかったが、彼らの敵意は確かに受け取った。
黒の杖を構えた。
使い方なんか、分からない。悪魔イイェデールに訊いておくべきだった。けれど、後の祭りだ。どうしたらいい?
村の屈強な男たちはどんどん、距離を詰めてくる。
「ええい。ままよ!」
ルカは叫ぶようにいい、杖を強く握り締めた。
瞬間、吹き飛んだ。村人たちが、突風に煽られたように尻餅をつく。
「なんだ、それは!」
駐在魔道師は、ルカを睨む。ルカは答えない。
「それが、悪魔のわざか!」
叫ぶと、彼は、腰のサッシュに挿している魔法杖を抜いた。交戦する気満々だ。
「ふふ、あははは」
ルカは笑った。
「悪魔憑きだ!」
誰かがいった。
「あのときの恨み、晴らさせてもらいますよ」
ルカは駐在魔道師ににじりよる。やや、彼は怯み、後退った。
「何をいう! あれは職務だ!」
「そんなの関係ありません、そして、死んでください」
さっきと同じ要領で、ルカは杖に念じた。
同様に突風が巻き起こった。しかし、駐在魔道師は飛ばされなかった。踏みとどまったのではない、魔法障壁で受け流したのだ。
「素人が、調子に乗るなよ」
駐在魔道師は奥歯を噛む。そして、彼は杖を袈裟切りに振った。
すると、杖の描いた軌跡から白い筋が飛び出す。それは、ぎりぎり視認できる速度でルカに迫った。躱わせなかった。
筋は、ルカの背中を切って、後方へ飛び去る。肩口に切り傷ができ、刺すような痛みがする。
思わず、前に突き出していた杖を下にさげてしまう。
それを待っていましたとばかりに、駐在魔道師は号令を出す。
「捕らえろ!」
けれど、村人は微動だにしない。完全に臆していた。
ルカはにやりと頬で笑った。
再び、杖を挙げて、念じる。
「ふっとべ!」
が、今回も駐在魔道師は耐えた。彼の魔法障壁は強靭だった。
「俄者が粋がるなよ……」
今度は、彼がやにさがる番だった。彼はいう。
「やつは、風しかうてん! 死なん! 捕らえろ!」
駐在魔道師の風の刃のほうが、よっぽど、ルカの風圧よりも強力に映ったせいもあったろう。村人たちは起き上がり、次々にルカに迫った。
こんなはずではなかった。
悪魔の力なんて、こんなものだったのか。
ルカは村人たちを何度も吹き飛ばしたが、風圧で人を殺すことはかなわない。地面でしたたかに、背や頭を打った者は、再起しなかったが、多くは、何度も迫ってきた。撃てば、撃つほど、手が風圧を撃つことしかないことが露呈され、村人の顔から怯えは払拭されていった。
さらに、加えて、駐在魔道師の放つ、風のナイフも幾筋も放たれ、ルカはジリ貧になっていく。
そして、ついに、風のナイフがルカの両腿と両腕を傷つけ、彼はくずおれた。そこに、村人が次々に飛び込み、押さえつけられ、捕縛された。
悔し泪が出た。
村の広場の近くには、大きな倉庫がある。村の共有財産を入れておくために、平時は使われるが、今は、ルカとルカの父母の牢獄として代用された。光採りの窓は高く、小さく、格子がはまっている。搬入口は、大きな閂と鉄製の南京錠の二段構えで、外からしか開けられない。出られる余地など皆無だった。
そして、悪魔の杖も、駐在魔道師に接収され、この場にない。
ただ、ルカに出来ることは、これから待っている村の処刑に備えて、首を洗うことくらいだ。
ルカの隣で胡坐をかきながら、父は彼に訊いた。
「どうして、杜へいった?」
「――」
「いいたくないなら、いわなくていい。ただ、俺はお前が悪魔憑きだとは思わない」
「あなたっ!」
父の背越しに、母が難詰するようにいった。
「まあ、母さん。しょうがない」
「何がしょうがないの?」
母はいう。もっともだ。息子の愚行で、死ぬのだ。
しかし、父はただ、頭を横に何度か振っただけだった。
「出ろ」
戸が開いた。
そして、真ん中に陣取った村長がいった。
ルカは力なく、立とうとした。
が、駐在魔道師が制止した。
「ルカ。お前はいい。悪魔憑きには、もっと陰惨な舞台が必要だ。巫女さまも悪魔に憑かれたお前を見たいそうだ」
「――」
ルカは下を向く。
父が肩を叩いた。
「アリサだろう?」
ルカは小さく頷いた。
「父さんも、母さんがそうなったら、お前と同じ過ちをしたかもしれない」
「あなた……」
「母さん、行こう」
渋る母の手首をルカの父は掴んだ。
そして、倉庫の出口まで進んだところで、父は振り返った。
「父さんはお前を信じている」
父の最期の遺言だった。
それっきり、二人はしょっぴかれ、扉は再び、閉じた。
扉はギィィと不快に啼いた。
エルダが悪魔憑きの話を耳にしたのは一週間前だ。
巫女様の郷里に、云々と御託を並べる神官補を無下にあしらって、彼女は報告書だけを目にした。エルダも、ルカ同様、字は読めなかったが、仕事上、どうしても、祈祷文を読める必要から習得したものだ。今では、公文書も難なく読める。人間、やればできるものだと、自分で思った。
エルダは、巫女になってから、日々舞い込む貴族や王都の市民の依頼をこなしてきた。巫女の最大の務めは、神との交信だが、巷に溢れる怪奇を退けるのも、仕事のうちだ。
彼女は、無我夢中だった。
何もわからず、王都に来るのも、初めてで、田舎娘と揶揄されぬようにとの気概もあった。
しかし、最大の理由は、村のことを忘れるためだった。
過去と決別するためだった。
何かにかまけていれば、きっと忘却できる。そう思った。
けれども、現実はそうではなかった。
過ぎ去りし日は、心の中で美化されて、より深く鮮明になっていく。
また、彼女が里を忘れられない理由の一つに、王都の人々の心無い陰口があった。彼女の村のまわりには、悪魔の杜がある。あまり、よい出身地とはいえなかった。
わざとらしい聞えるように囁く声を何度聞いただろう。
郷愁はつのった。
帰りたいと思った。
そして、狙いすましたように、今回の悪魔憑きの話だ。願ったり、叶ったりだった。
巫女自ら、浄化に出向くといえば、誰も文句はいうまい。
だから、最初は、喜んだ。
しかしながら、その悪魔憑きの人間の名を聞いて、彼女は耳を疑った。
ルカだったからだ。
彼は意地悪だが、優しい男のはずだった。
そして、残念なことに、彼がそうなった心当たりも彼女にはあった。
神託のことだ。
アリサが百八番目の花嫁として選ばれたことだ。彼女もエルダ同様に、王都にいる。
エルダは少しだけ迷った。
過ちを悔いて、アリサを解き放ち、狂ってしまったルカを元に戻すのか。
それとも、好機と踏んで、付け入るか。
答えは直に出た。
チャンスをふいにするなんて、もったいない。我慢もし過ぎた。今なら神だって許すだろう。
だって、アリサを選ぶことに同意したのだから。
「私なら、助けれるよ……」
エルダは一人ごちた。無意識に、頬が緩んでいた。
我ながら、バカだなぁと思った。愚劣でどうしようもない気さえした。こんな人間が、巫女なんて担がれて、世も末だなと思う。
なら、神はなんの意図を持って、自分を選んだのか。そこはよくわからない。しかし、感謝はする。私に、機会を与えてくれたことに。
「セライ?」
エルダはお付を呼んだ。日頃、エルダの身の回りの世話を一手に担っている人物だ。やや、白髪の目立つ老人だが、頑健で、力仕事も難なくこなす。何処かの、村のおのぼりなのだろうが、エルダもよく、彼の素性はしらない。興味もない。
「シナラへ行く。御者と馬、籠を」
「はい」
「至急ね」
「用件は、どう伝えましょう?」
「神殿には、悪魔憑きの件といっておいて」
「わかりました」
セライはうらうらしく頭を垂れて、辞した。
気になった。
凄く。
だから、ルカは木製の扉の隙間から、外を見た。
夜も近いにも関わらず、広場は明るかった。それもそのはず、広間には大きな火が焚かれているのだから。
何の為の火か。
彼の両親を炙るための火だ。
悪魔に加担した者の一族郎党は、火刑に処す。村レベルの掟ではなく、この国の、ひいては、この世界の法だ。誰が定めたのか、ルカは知らない。神かもしれない。
しかし、制定したのは神だったとしても、実行するのは人だ。
豚を焼くのと同じように、彼の良心を火にくべるのは、村の人間なのだ。
昨日まで、顔を突き合わせていた人間なのだ。
同じ土地に住み、同じ大地を耕してきた人間なのだ。
なのに――。
ルカは目を背けたかった。
けれど、背けられなかった。見なくてはいけないと思った。
この眼に深く焼き付けて、地獄のハテまで持っていこうと思った。
良心は磔にされて、業火の中にあった。
肉の焼ける臭いがする。一緒だ。人肉も、獣肉と同じ臭いだ。
母が熱に悲鳴を上げた。
耳が痛い。耳が痛い。痛い、痛い。
しかし、父は固く口を引き結んでいる。
村人が囃す。
「叫ばないのか?」
酷いと思った。酷いという言葉が陳腐にすら感じる。もっと、もっと、この状況をいいあらわせる言葉はないのか。
「悪魔の臭いがしますなぁ」
駐在魔道師がいった。
そんな臭気なんてない。
するのは、家族で成人祝いをした、あの日の豚の子と同じ臭いだ。
思い出してしまった。
大鍋を運ぶ母を、アリサとの結婚を心待ちにした様子だった父を。
「なんでだよ……」
呻いた。
連帯責任。なら、非は自分にある。悪いのは自分だ。ぼくだ。
でも、そんなに悪いのか。
むしろ、お前達のほうがよっぽど、悪魔的じゃないか。
カーニバルじゃない。
見世物じゃない。
父さんを母さんを、そんな目で見るな。
豚は焼けば、食う。
食うために、人に焼き豚にされる。
でも、人間は何の為に焼く?
罪の浄化?
だけど、両親は何もしていないじゃないか。
楽しむため?
物見。見物。娯楽。
王都では、首切りの死刑が、公開処刑なのは、娯楽の意味があるという。
これもそうなのか。
「食えよ」
焼いたなら、食えよ。
食わないなら、焼くなよ。
お前らの笑みの為の苦しみってなんだよ。
バカじゃないか。
おかしいじゃないか。
狂ってる。
そうだ――。
狂ってるんだ。
世界は、天地創造の時から狂ってたんだ。そして、この狂気の苦界を作ったのは、誰だ?
答えるまでもない……。
黒の杖はどこだ。どこにある。
今なら、もっと色々出来る気がする。叫ぶ母と耐え忍ぶ父を見て、狂う村人たちを滅せられる気分だ。指がわななく。
欲しい――。
馬車を飛ばした。駅伝もフル活用した。
シナラ村は王都から随分離れている。魔法通信で、ルカの身柄の安全は確保しておいたが、彼の両親のことは、村の掟を盾にした村長によって、阻まれた。
しかし、彼の両親の行く末はどうでもいいことだった。死のうが、生きようが、知ったことではない。むしろ……。
「エルダさま」
「何?」
「その……神託の……」
セライはいい難そうだ。エルダはあまりに口ごもりがちなので、いらつく。
「早くいえ」
「すいません。私のような卑賤の者がいうべきではありませんでした」
何をいいたかったのか?
「意味がわからない。お前、神殿付きは長いよね?」
「はい」
「余計な詮索はしないこと、いい?」
「わかりました」
エルダより何倍も生きているはずの老人はしょげ返って、顔を落とした。
「それより、早馬がよかったかなぁ」
「はぁ」
「何? その目、田舎娘を舐めないで、馬くらい扱える」
「では、どうして?」
「気分よ。これは凱旋なの。勝利者は私よ」
高笑いが出そうになる。必至で堪えて、素面を維持した。
「そんなに、里が懐かしいのでしたら、どうして、手紙に返事をださなかったのです? あの村には駐在もいるのですから、魔法通信だって……」
エルダは睨んだ。セライはねめつけられて、黙る。
「運命は端緒に不幸を覚えても、それが永続的とは限らない。そういうこと」
セライは不思議そうに小首を傾げた。
「泣くような出来事も、流し続けた泪は運河となって、魚を育み、人の喉を潤す」
「高説は分かりませぬ」
「そして、運河は時に人を溺れさせて、殺す。また、それはチャンスでもあるのよ。世界の論理は上手く出来ているものよ? 溺死仕掛かった人間が、かつての救助人を救い出すこともね? ふふ」
「見えました」
御者がいった。
エルダは、窓から顔を半分だけ出した。しかし、何も見えない。
それもそのはず、今は夜だ。馬車は、前方に取り付けた巨大なガス灯で道を照らしているが、とても遠方までは明るませられない。相当、御者は目がいいようだ。梟目だろうか。
「見えないぞ」
エルダはぶうたれた。
「あそこですよ、丘があります」
御者は右手を手綱から外して、指さすが、丘どころか、地平線も分からない漆黒の中、何が何だか、さっぱりである。
「分からないぞ!」
「慣れですよ」
御者は小さく笑った。
「慣れか……」
何だか、心に刺さる言葉だった。その刺さり来る理由は判然としなかったが。
馬は進んだ。
御者が「見えた」といってからどれほど経ったか、それなりの時間が経過したろうか。やっと、エルダの目にも村の姿が映った。夜目のせいではない。
村は真っ赤だったのだ。
始めて見る光景だった。
村の家々が燃えているわけではない。
冬に向けて、貴重なはずの薪をもったいないと思うこともなく、村を取り囲むように、松明が焚かれているのだ。
初見だったが、エルダにはすぐにそれらが何か了解できた。
悪魔祓いか。
ご苦労なことだ、と思った。
常の日々を悪魔の杜と背を付き合わせているくせに、思い出したような儀礼をして、何になるのだろう。そんな、ちんこまいことで、悪魔がどうにかなるものか。愚かだと思った。
巫女の立場になって、開けた世界を見ただけに、閉鎖的な村の様子が思い出され、尚更、彼らを愚鈍に感じた。
それでも、もし、自分が神に選ばれなかったなら、参加したのだろうか。
ルカの両親を火にくべる業深きに、加担したろうか。
よくわからない。
自分には、少なくとも、二年前の未通女然とした偏狭な常識はないから、彼らの思考様式も形式も回路も、それらを慮るのは、遠い昔日の思い出を掘り起こすという意味以外に、何の有意もなさそうだ。
村のチンケな木のゲートには一人だけ、衛視が立っていた。
彼は、「なんだ」とつっけんどんにいう。
エルダは、馬車から降りた。すると、男の態度は大きく転換し、腰が低くなった。
「巫女様ではないですか」
男は見覚えのある男だった。
村唯一の鍛冶屋の倅だ。そんなに、面識はないが、何かにつけ、村娘に夜這いをしかけ、疎まれていた記憶だけがある。少なくとも、エルダに丁寧に話掛けて来たことも、こんな低姿勢っぷりも記憶にはない。何度か、尻をまさぐられた思い出はある。
不快だった。
揉み手する手が、化物の触手に見えた。
やにさがった顔が、既製品の福笑いにしか映らなかった。
言葉を交わしたくもない。
だから、顎で指示した。
鍛冶屋の息子は、慌てて、ゲートを開けた。
村の出入り口の門扉は狭い。馬車は入れない。降りなくてはいけない。
「セライ、お前も降りて」
「あ、はい」
「御者、お前はどうする?」
「どうしましょう?」
御者は、悩むように眉を寄せた。
さすれば、待っていましたとばかりに、鍛冶屋の倅が、食らいつく。そんなに、媚を売りたいか? 醜い。利己的は悪くない。けれども、もっと、理性的に、誰の目にも分かり難く展開できないのは、クズだ。エルダは侮蔑の目線で、彼を見る。しかし、倅は気付く風もない。
「家を貸しますよ」
「エルダさま、よろしいですか?」
御者が諾否を求めた。
「好きにするといいよ」
エルダはおざなりに答えた。
何日、閉じ込められているのか、分からなくなった。
悪魔の杜でも日付は分からなくなった。でも、今回は何か違う。
あのときは、前に進む為の時間だった。しかし、今は、ただ、籠の中の鳥。いや、屠場の豚か。
巫女様は何時来るのだろうか。
巫女とは、エルダのことだろうか。
王都には何人か巫女がいるそうだ。
一瞬だけ、エルダだといいなと思った。けれども、その思いを掻き消した。アリサへの裏切りのような気がしたから。
悪魔はいっていた。秋分から、少し経ってから、神の結婚式は執り行われると。まだ、アリサは地上にいるのだろうか。なら、いま、ぼくの思いは届くだろうか。
下らない妄想だと思う。
人肌というのは、ないと感じられない。思いだって、そうかもしれないじゃないか。
ルカは目の前のアリサが面を伏せていても、表情が分かる。けれども、今、このとき、王都で、アリサがどのような顔つきでいるのか、さっぱりわからない。アリサという人間の髪の一本もないのに、彼女のことを想像なんて出来ない。
出来ても、やっぱり、それは幻影だと思う。実体のない。ルカが作り出した幻。
離れて、まだ一月も経っていないなずなのに、最愛の人なのに、その顔がもう、おぼろげになってしまった。ルカは自分の薄情さを呪った。頭を倉庫の石壁で強く打ち付けた。
死のう。
死ねばいい。
死んで、天界で合間見えよう。
「無理か……」
自分は地獄だ。
煉獄の炎で焼かれるのだ。
両親のように。
そして、その苦しみは一瞬ではなく、永劫なのだ。五劫が擦り切れても、焼かれ続けるのだ。なんて、自業自得だ。バカだ。大バカだ。
また、壁に額を打ちつけようとした。
思いっきり振りかぶった。
そしたら、誰かが、両耳の辺りを掴んだ。ルカの頭突きは不発に終わった。
「久しぶりだね」
掴んだ人物がいう。ルカは振り向いた。
エルダだった。ただ、一人、カンテラを脇に置いて、ルカを見ていた。
彼女は、悪魔の杜で夢見たときの服装だった。だから、初めてみるはずなのに、既視感がある。
「――エルダ」
エルダは微笑んだ。
そして、人差し指を唇の前に当てた。
「静かにね」
目頭が熱い。押さえられそうもなかった。ルカはエルダに飛びついた。顔を胸に埋めた。両手は彼女の背へと回す。嗚咽があふれ出す。エルダも、ルカを抱きとめた。彼女は、優しく、ルカの頭頂部を撫でた。
「ううう」
エルダの紺色の衣服が泪で、黒く染まる。唾液も飛ぶ。
「うわあああん、エルダぁ」
満足だった。
彼は私の名前を呼んだ。
この瞬間を待っていた。ルカの目がないのをいいことに、エルダはほくそえんだ。笑い声も出そうになって、必死で押し殺すのが大変だ。
彼は、私のものだ。しかし、ルカは顔を離し、信じられないことをいう。
「アリサをアリサを」
聞きたくない。いうな、いうな、いうな、ゆううううううううな。
耳を押さえたい。けれど、ルカを抱きとめる両手も離したくない。
ルカは続ける。
「助けて欲しいんだ」
鼻声が愛らしい。愛くるしい。だからこそ、彼の口が憎い。
「無理よ」
つとめて、冷静にいうように。
「なんで、まだ、結婚式は終わってないはずじゃないの……」
ルカにとっては、あくまで「そう思いたい」であった。しかし、実際、そうである。アリサはまだ、王都の神殿にいる。会ってはいないが、地下の隔離された貴賓室にいるだろう。
「ねぇ、ねぇ!」
ルカは無我夢中で、エルダを揺する。
嘘はつけそうになかった。
必死な、ルカの顔に虚偽を叩きつけられる度量はなかった。でも、口で「そうだよ」ともいえない。だから、首だけを縦に振った。
ルカの顔が華やいだ。後悔した。
「だから、助けて」
今度の助けては、ルカ自身のことだろう。そう思ったから、今回は、声を出した。
「いいよ」
「ありがとう」
ルカはエルダの右手を両手でぎゅっと握った。エルダは、顔を逸らした。彼の顔を直視したくなかったから。
「でも、村にはいられないよ」
「分かってる。王都へ連れて行って」
「わかった……」
エルダは立ち上がって、倉庫の入り口へ向った。扉は大きく開いていた。開閉音に気付かなかったのが不思議だ。
「駐在」
「はい」
「ルカは私が王都へ連れてゆく、いいね?」
「はい……」
渋々といった風で、駐在魔道師は頷いた。
「それで、その、巫女様。あの者が持っていた呪具があるのですが」
「見せて」
駐在魔道師は懐から黒の杖を取り出す。瞬間、エルダは柳眉を顰めた。それを見て取った魔道師は、「やはりですか?」という。エルダは軽く頷いた。
「それも私が預かる。文句ないね?」
「ありません」
「よろしい。すぐに立つ」
「しかし、朝に立たれてもいいのでは?」
「私は長居したくない。御者を呼んできて」
エルダはぞんざいに、指示した。
すぐに、御者と、セライがやってきた。御者は眠る気だったようで、寝ぼけ眼だ。
「ルカ、来て」
ルカはいわれるままに、エルダのもとへ歩く。そして、彼女から黒の杖を奪おうと手を伸ばした。が、その手は強く叩かれた。ぎょっとして、ルカはエルダを見遣る。
「ダメ」
「ダメじゃない! そいつを殺すんだ!」
ルカは敵意剥き出しで、駐在魔道師を見る。いまにも飛び掛らんばかり。
「やめて。やめないと、アリサに一生会えないよ」
卑怯な物言いだった。だが、今のルカには有効だ。彼は読み通り、しょげ返った。
「それでいいよ」
また、エルダはルカの頭をなでた。快感だった。




