二章
二章 彼女たちの行方
その日、ルカとアリサは婚約した。
何もないけれど、お互いに家族の前で口付けだけを交わした。それが、婚約の誓いをすることだったから。嫁入りに際する風習はない。労働力の足りない村々では、男女は平等であるのは、常だ。
成人の日より約二年の月日が流れて、彼らは十七歳になっていた。十七歳は丁度、適齢期で親しい間柄の男女が結ばれるこの様は、二人の村においては、ごく普通の、平々凡々とした過程を歩んでいるといってよい。
順風満帆とまでいかなくても、取るに足らぬ一介の民の人生とはいっても、平和な道程を進んでいることに挟む異議はないだろう。
習い通りの手順で契りを結び、そして、残るは、この後に控えるのは村の中央にある、うらぶれた小さな教会で、村一同が会する中、正式に村長と駐在魔術師の立会いのもと、結婚式を行うだけだ。
結婚式へと進む毎日、二人は毎晩のように、語り合った。明日のことから、明後日のこと、明々後日のこと、そしてずっとずっと後のこと、延々と日々を繰り返し、終ぞ、墓に入るその日までを。
「エルダ、来てくれないのかな?」
明日に式を控えた夜のこと。薪を節約するために灯のない部屋で新郎新婦は明日のことについて話していた。正確には、式にエルダが来てくれるか、どうかの話。
「無理じゃないかな。巫女だもの」
「そっか、残念だなぁ」
しおらしく、アリサはうつむいた。
余りに暗い夜は、アリサの顔をしかっりとルカに見せてはくれない。けれども、ルカにはアリサがどんな表情をしているのか、手に取るように分かった。
ルカは慰めるようにいう。
「祝福してくれるよ、王都に手紙出したんだから、返事そのうちくるよ」
「うん」
エルダはこのとき、もう村にいなかった。
村の成人式の日、駐在魔術師からエルダは「次期の巫女」だと宣言された。
それは、何にも変え難く、喜ばしいことであるべきだった。
何にもない村から神託を受ける巫女を輩出することは、どの村々でも悲願であり、家族にとっても巫女を産んだ家はそれを誇りにできるうえに、神職の家族として、その身の一生においての安泰が約束されたも同然なのだ。
エルダの両親は、他の村の衆と手を取り合って、踊り、狂気乱舞して喜びを表した。
けれど、エルダはとても悲しい顔をして、その宣言の終わったあとに、恐る恐る、ルカとアリサ見た。「いっしょにいよう」との約束がたった三日でご破算になるとは、三人の内、誰も予想できないことだったからだ。
しかし、エルダはいつものように駄々をこねなかった。
成人になったからではない。彼女に逆らう術はなかったし、そもそも、これは哀しむべきことなどではなく、光栄に思うべき事柄なのだから。
そして、また、ルカとアリサもそれを止めることも止めさせることもできなかった。成人したばかりで、貧乏暮らしの何の権力もない人間が、神職に任じられた人間にとやかくなぞいえようはずもない。引き止めたところで、誰が得をしようというのか。三人一緒にいるためだけに、村人を敵に回し、エルダの両親の喜びに泥を投げつけることなど、損ばかりが目立つ、それこそ、わがままの至りだ。
これは家族に一生の安寧を与え、エルダ自身もまた、巫女という肩書きによって王都で貴族並に暮せることを約束されたわけで、普通に考えて、それは幸せなことなのだと、自らにいい聞かせた。
だから、ルカとアリサは泣き顔を笑顔で隠して、数日後、王都から来た馬車と使節に向けて、彼女を歓喜と快哉で持って、送り出した。
それでも、最後まで、エルダの面持ちから悲哀の感情が消え去ることはなかった。
そして、二年間、音沙汰すら来なかった。
手紙も幾度、出したか覚えてはいない。一度も返事が来た試しはない。
「忙しいんだよね」
自分を納得させるように、アリサはいった。
自分たちの出発を幼馴染のエルダにも祝福して欲しい。それは、心の奥底から来る真摯な願い。ルカもアリサもその願いに大差なんてなかった。
だから、ルカも自分を納得させ、自分がアリサの言葉を肯定することで、さらに、彼女と一緒に納得の渦に浴するために、彼女の言葉を繰返す。ただ、疑問形ではなく、断定するのは忘れない。
「忙しいんだよ」
「うん。巫女だもんね」
アリサはルカの胸に顔を埋める。
ルカはそんな彼女の脇の下から手をいれて、彼女を抱きとめる。
すぐに、すすり泣く声がした。
自分も泣き出しそうになるのをルカは必死で堪えた。それが、今、男である自分がすべきことだと思ったから、泣いてはいけない、泣いてはいけないと心の中で自分に喝を入れ続けた。目尻に理不尽に染み出す水気をアリサが泣き止むまで、胆力を総動員して、防ぎ続けた。
朝。村長の迎えが二人、門扉に立っていた。
結婚式に先立って、花婿花嫁を会場へと迎えるために。
本来は、四五人の迎えの使者が来る。村に新たな子宝を根付かせるための夫婦になる儀式、村をあげての結婚式。ゆえに、もっと盛大に執り行うのが常だ。
けれども、二人の結婚式は、時期が悪かった。
丁度、秋分のお祭りと重なった。
ぴったり重なったわけではなく、数日のズレである。しかし、多くの村人は秋分のお祭りに向けた準備にかまけていた。所詮、他人の結婚なぞ他人事でしかない。
そして、付け足すなら、この日程はアリサが望んだものではなかった。
ルカも望まなかった。
秋分には託宣がある。
エルダが来れないことが確約される。そんなの御免だった。
だけれど、アリサの祖母は頑固一徹で派手が嫌いだから、と、わざと忙しく、人がかまえない時期を二人に強いた。
年長者には逆らえなかった。掟なのだから。
ルカは傍らのアリサを見る。昨晩、泣き腫らして、アリサの目は舞台に臨む花嫁に相応しくないほどに、筋の走った赤目になっている。目の下には青黒いクマ。それを見て、迎えの一人が苦笑し、もう一人は訝る顔でしげしげとルカを見た。
それの意味するところを、汲み取ってか、アリサは否定の為にいう。
「違いますよ。友達が来れないから……」
語尾はしりすぼみになった。
エルダが来れないことを思うと、ぶり返してしまうのだろう。
それでも、迎えは納得したようで、「残念でしたね」といい、踵を返し、二人を先導し始めた。
村の広場への道は、二人とも知っている。だけれど、これもシキタリだった。
迎えの半歩ほど後を二人は無言のまま歩む。
沈鬱な空気が支配する。ハレの舞台に臨むとは思えない雰囲気とオーラ。
事情を知らない人が見たならば、これから葬儀へ向う一行に見えるかもしれない。
たとえ、アリサが白い質素なドレスを纏っているのを目に映らせたとしても。
村の広場は、秋分の祭りと、二人の結婚式との準備が渾然一体となって、進められている。二人の姿を見つけた村長と駐在魔道師が二人の元へやってきた。
「いよいよですね」
白く長い蓄えた顎鬚を村長はさすった。
「はい」
力なく、ルカは答えた。
「よく、眠れ……なかったようですね」
アリサを一目見て、駐在魔道師はいった。
「昼には始められる。私の家に来るといい」
村長は、いって、二人をいざなった。
彼の家は伊達に村長という役職にあるわけではない、とのことを具現している。貴族だけに許された瓦屋根を特例で葺いていることからもそれは分かるし、広場を挟んで対岸にある村人の家と比べると、ふた回りは大きく、村唯一の二階建て住居だ。
二人は二階のゲストルームに通された。すぐに、村長は消え、駐在魔道師だけが残った。
ルカは客間の隅にあるベッドに腰を据えた。上等なものらしく、軋む音がしない。アリサもそれにならった。
「軽い食事でも」
駐在魔道師は、村長のメイドに指示する。
拙さの残るメイドはすぐさま、取って返した。
「私はこれでお暇するが、式には戻ります。何分、神託の方の準備もありましてね」
言い訳がましくいってから、彼も部屋を辞した。
また、二人だけ残された。
しばらくして、メイドが干した飯粒を木製茶碗でもってきたが、二人は式の開始まで手をつけなかった。
数十人の村人が一同に会した。
新郎新婦をぐるりと取り囲み、テーブルには食事が並んでいる。
食卓から沸き立つ香は、成人式の日を思い出した。
今年も、神託と同時に成人式がある。食材が被っているのかもしれない。
そう思うと、準備させてしまった村人たちに罪悪感を感じた。
が、それよりも、最後の川遊びの記憶が強く思い出され、その感覚をぬりつぶした。
いやな、芳香だと思った。
一方、司会役の村長はノリノリで、酒に呑まれて、村人たちのテンションもぐんぐんあがっていく。
そんな様子も、他人事。それも、遠く、彼岸の様子を眺めている気さえする。近場なのに、靄がかかっているように眼球に映りこむ。
徐々に、たけなわになって行くのと裏腹に、日は翳りだす。
きっと、宴は夜になっても続く。
「早く、終わらないかな」
ルカだけに聞える小声でアリサがいう。
ルカは、頷いた。本当に、そうだ。
祝福して欲しい人がいないのに、こんなのは、茶番だ。そう思う。
だけど、その茶番にどうして参加しているのだろう。式と宴が終りを迎えるその瞬間まで、未練がましく、エルダを待つためだろうか?
そんな中、駐在魔道師が二人のところへやってきた。
式には戻ると村長の家で、いった彼だったが、夕刻になって、やっとこさの登場だった。
彼がいなかったせいで、魔道師前の誓いは式の工程から削除されていたが、今更、やり直せる雰囲気でもない。
皆、宴会に興じているのだから。水を差すだけだろう。
「ちょっと、いいですか?」
駐在魔道師は、手招きしつつ、ルカとアリサにいった。
「はい?」
席を外してもいいだろう。どうせ、誰も気付かない。
二人は新郎新婦用のクロスの掛かった長机から立った。
そして、宴会を尻目に、広場から離れ、村長宅の裏へ向った。
ちょっと、離れただけで喧騒は俄然、弱くなった。話すには、ここがいい。
駐在魔道師は、二人を対面において、こほんとわざとらしい咳払いをひとつして、どこかうやうやしい態度で、口を開く。
「今期は神託が早く出ました」
何の話をするのかと思えば、不在だったことへの謝罪ではないらしい。
遅れた理由は、これなのだろう。
「そんなこと、あるんですか?」
「たまに、あるんですよ」
聞いたことのない話だった。
しかし、そのことを、なぜ、今、二人にいうのかが解せない。
「たとえば、そう、神の花嫁候補が、人間の花嫁にならんとしているときなどに」
かれがいうところ、それは、今、この状況に他ならない。
アリサはルカの嫁になろうとしている。
「えっと……?」
いやな想像が沸き立つ。考えたくないが、彼が意味するところは――。
「百八番目の花嫁です」
すでに、ルカが理解しているのをわかってか、駐在魔道師は断じる風で、いう。
頭のいいアリサだ。ルカが分かっているのなら、既に分かっている。
ルカはアリサをみやった。
彼女は地面を見ていた。
「なんで、今、いうんですか?」
刺々しくルカは難詰するように、吐き出した。負の感情も一緒に。
「まだ、完全に嫁いだ訳ではないでしょう」
誰が、を省いた会話。誰が百八番目の花嫁なのかを省略した会話。でも、三者は全部わかっている。理解している。
「ふざけるな!」
ルカは叫んだ。
奪われてたまるか。
エルダだって、巫女になった。それは、神に仕えること。
神はエルダだけではなく、アリサも奪う。
そんなこと、許容できるはずがない。
「事実ですから」
冷淡に魔道師はつげる。
その顔に、ルカは人間味を感じなかった。彼だって、職務だろう。しかし、だからといって、許せるかといわれたら、否だ。断じて、肯わない。
「明日には、迎えがきます。式も中止しないと」
「ふざけるな!」
ルカはアリサの手を引いた。逃げてやる。そう思った。
「逃げてはいけません」
駐在魔道師は、右手を掲げた。
彼に背をむけ、まさに走ろうとしていたルカの体に電撃が走り、耐えられず、アリサの手を離してしまう。
前のめりに、倒れこんだ、すぐさま、ルカにアリサは寄り添った。しきりに、「ねぇねぇ!」と体をさする。けれども、体はかじかんで、動かない。
でも、口は自由だった。
転がって、駐在魔道師を眼前に捕らえて、いう。
「何人、奪えばいいんだ!」
「小さな犠牲です。新しい女を捜すといいでしょう」
ルカには魔道師が悪鬼に見えた。
エルダを連れて行った連中と一緒だ。神が何だ。
そして、エルダに巫女の資格ありと宣言したのも、こいつだ。悪魔の手先だ!
「悪魔!」
声を振り絞った。
「心外です。私は神の従僕です」
こともなげに、いう。本当にそう思っているゆえの、自信も見て取れる。
あたらしい女? 違う。アリサはアリサで、それ以外の何者でもない。
ルカは立とうとした。けれども、力が入らなかった。何度やっても、筋肉は命令を聞かない。
「返せ!」
だから、せめて、口で抵抗した。むなしいけれど、せずにはおれない。
「黙っていてください」
もう一度、駐在魔道師が右手をかざす。
「やめて!」
アリサは、魔法の行使を阻止せんと、駐在魔道師に飛びつく。
彼は、左手で軽くアリサをいなした。
彼女は簡単に跳ね除けられた。
そして、地に打ち付けられ、それっきり、ぴくりともしない。強く、頭をうったのかもしれない。
怒りは臨界点を超えてしまいそうだった。
でも、手も足もでない。口しか自由にできない。ただただ、切なく、歯痒く、むなしい。これでは、虚栄を張っているようにしか見えない。
泪がでた。
アリサの前ではなかないと誓ったのに。彼女が昏倒しているなら、ノーカウントだろうか? いや、失格だ。彼女の夫として。
悔しさに噛締めた唇からは血が染み出す。
鉄の味がする。非生物の代表のような、冷たい金属の味。いやな、味。
「じゃあ、おやすみなさい」
魔道師がゆっくりとした口上で、優しく、寝入る子にいうように、そう告げると、ルカの抗いなど一抹の意味もなく、一瞬にして、彼は気を失うように眠ってしまった。
悔しさもまどろみに呑まれて消えていった。
目を醒ました場所は自宅だった。毎日、寝起きするマットレスのない木が剥き出しのベッド。
どれくらい、寝ていたのだろうか?
窓から見る景色はすっかり漆黒に染まっている。灯一つない。うっすら、空は群青の色を帯び、大地は赤と緑の色を含んでいるように、地平線だけがほんのりと識別できた。
時間なんて分からない。
機械時計なんてない。そんなもの、日々鍛えられた体内時計で十分だ。日頃の雑事にも仕事にも必要性のないものだ。贅沢品に過ぎない。しかし、今はだけは機械時計が欲しかった。正確な時刻が知りたい。できれば、万年暦がついているものがいい。そう思った。
そして、すぐさま、布団を吹き飛ばすように足元へ蹴り上げ、起きて、居間へ向う。
居間にあるテーブルに彼の父の姿があった。
父は沈痛な面持ちで頭を抱えている。物音に気付き、息子の方を向く。
「アリサは?」
父は答えず、固く口元を引き結んだままに、ただ、首を横にかすかに、振った。
それで全部分かった。分かってしまった。
何がどうなったのか。それが、その後どうなって、今に至り、どんな瞬間に自分が目覚めたのか、まで。全て。
けれども、訊かずにはおれない。だって、訊いて確証を得るまでは、それがどんなに確信めいたものであっても、想像の産物、答えによっては、妄想と切って捨てられる可能性だって孕んでいる。
「――式から何日経った?」
「二日だ」
二日も寝ていたのだ。
数時間後に覚醒したわけではなかった。駐在魔道師のいっていた迎えによって、すでにアリサはつれ攫われただろう。彼らは、連れ去ったのではなく、迎えに参上したと言い張るに違いないけれども。
忍苦のままに、ルカは質問を続けた。
全部、理解したはずなのに。最後まで知りたかった。
「アリサは?」
父は再度、首を横に小さく振る。また、忸怩たる感情に飲み込まれ、泣きそうになった。無気力感ばかりが、渦巻いた。
ルカの父はそんな息子のことをすぐに理解したに違いない。息子の頭の天辺を鷲づかみにして、「しょうがないんだ」と呟いた。
「しょうがなくなんか……」
弁駁したい。けれども、出来ない。ルカにはそれを出来る力がない。反論するための要素も、証拠も何ひとつ持ち合わせていない。不甲斐ないにもほどがる。そして、それが身の程だ。
弁えろ、弁えろ、弁えろ、理性が囁く。猛る感情と悟性を理性が宥めすかそうとする。
そして、結局、理性が勝った。
どの道、どうにもならないのだ。
そうだ、それでいい。
それで、いいんだ。
女なんて――。
思考を止めた。これ以上、考えたくない。
夜風に当たろう。そう思った。
そうだ、どうせなら、河まで行ってしまおう。
ルカは家を出ようと玄関の取っ手を握る。
背後から、心配そうに父がいう。
「どこへ、いくんだ?」
「河だよ」
「暗いぞ」
「大丈夫」
「悪魔が出たらどうする」
父はなじるように、いった。
それにルカは自嘲で応じた。
悪魔? 食われても後悔はない。ここで、人生が終わっても別にいい。それに、悪魔は森に棲んでいるんじゃない。人間の中にいるんだ。ぼくは見た。悪魔が皮を被った人間を、もしくは、人間の肉に悪魔の魂を持つものを。
そして、ルカにとって、一番の悪魔は、間違いなく、ふたりの幼馴染を彼のもとから奪った『神』に他ならなかった。
そんな神に比べれば、悪魔なんて可愛いものだ。たとえ、多少、理不尽であっても。
杜に住まう本物の悪魔は、森に赴いた人間や、夜に出歩く人間しか食い物にしないのだ。それに引き換え、なんてことはない日常の中に、唐突に悲劇を持ってくる神の方が何百倍も理不尽な存在に、ルカは感じた。
神を殺せるなら、殺してしまいたいと思った。
手探りならぬ、足探りで、ルカは河を目指した。
吹きすさぶ夜風が冷たい。冬は目前だ。そして、ルカの心は冬だ。うず高く積雪し、心は冷え切っている。冬場の世界は、緑も消えて、モノクロームの世界。
土手から見る水面も、灰色か群青にしか見えなかった。
太陽も明日には顔を出す。
自分の心の霧も明日には晴れるだろうか?
晴れない気がした。
過去、太陽が隠れたとき……。
――神隠し――。
「そうだ、そうだよ」
閃いた。
なぜ、こんなことに誰も気付かなかったのか。
これは陰謀なのだ。
神が人を弄び、玩弄して、ほくそえむための手遊びなのだ。
自分は、神の手の内で踊る人形に過ぎないのだ。自立的に動いているように見えて、そうではない。なぜなら、誰も神を恨んでも、抗う気なんてない。ルカだってそうだった。あやうく、諦めてしまうところだった。
神に反旗を翻すことは可能なのか?
おそらく、不可能だ。相手は創造主だ。しかし、彼と同等ではなくても、近しい存在なら、どうだ? たとえば、悪魔。彼らは反逆の罪で堕天の咎を受けたのだ。
彼らは神に対抗できる自負を持っていたに違いない。
いても立ってもいられない。
ルカは道を引き返した。向う先は我が家ではない、アリサの家だ。
彼女の部屋には、彼女が成人の祝いの日、いっていた悪魔について書かれた書物があるはずだ。読解はできずとも、スキミングくらいならできるはずだ。アリサと婚約する少し前から、彼女にちょっとだけ字を習ったことが、さいわいだ。
ルカは飛び込むようにアリサの家の戸を開けた。
アリサの祖母が驚いて、ルカを見た。
しかし、彼女の家族は何もいわなかった。巫女の家族は厚遇を受けても、花嫁の家族にそんな措置はない。ただ、子を孫を喪失するだけ。その違いの意味するところが、今のルカには、はっきりとわかる。巫女は神の手足、だから、神は王家に厚遇させるようにしている。間違いない。
アリサの部屋に入ると、ルカは書斎机の上のランプに火を入れた。
灯で仄かに明るんだ部屋の壁際、数十冊の本が詰まっている書架がある。
目で背表紙の文字を追った。
『悪魔の杜にて』
これだ。
くだんの本は黒い装丁に銀文字でタイトルが掘ってある重厚な書物だった。
ランプの明かりに照らして、読む。
――諸君は、何故、悪魔が悪魔たるか、知っているだろうか? 人を食うからではない。それでは、狼や虎と何が違う? 彼らはそのような低俗な存在ではない。人よりも賢く、神代の時代に、神の僕として世界を創造し、異端の神を倒したものたちだ。
では、本題に戻ろう。悪魔が悪魔である理由、それは、悪魔は人に心の暗がりを韜晦させ、五濁悪世を具現するような、自らが屠所之羊たることすら忘却し、力を与えるからだ――
悪魔は力を与える……。
分からない語彙が多い。しかし、大体は分かる。大筋は。
――かつて、彼らは天使であった。彼らは慢心した。異端の神を屠ることに成功した勇士であるおのれ等が、自分の飼い主である神に抗せない理由はないと彼らは踏んだのだ。私は昔から疑問だった。
神に戦いを挑んだ彼らがそうして、隠遁の時間を地上で過ごしているのか? もしかすると、彼らは隠れて暮らしているではなく、神への新たな牙と矛を磨いているのではないか? 彼らは雌伏しているのではないか? そして、彼らは人間を待っているのではないか?
人を食らうというのは彼らはその力を人に見せ付けていて、その恐怖すら乗り越え、人間の身にして、悪魔と結託せんとする人材を探しているのではないか?
銅はそれでは武器として有用ではない。スズと混ざり、青銅となることで、悪金である鉄を勝る。鉄は硬いが、鋳鉄は延性に劣り、直に錆る。この世界が神の鋳造したものであるのなら、その世界を打ち砕くに足るのは、砲金である青銅ではないだろうか? 私はそのように考えた次第だ。
だから、私は悪魔の住まう杜へと向うことにした。
私は悪魔たちと対話したかったのだ。
そして、わたしがこうして生存し、この本をしたためた理由は読者諸君にも分かるだろう。私は食われなかった。ただ、悪魔の知恵を得たのだ――
悪魔は人と結託したがっている?
そして、著者は生きて帰ってきた。
悪魔たちに神の存在と、その意味と、その陰謀を問うだけでも有効なようにルカは思った。
――彼らは私に訊いた。
「お前は、力を欲するか?」と。私は首を横に振った。私は冒険家で学者だ。世界の支配者であることや、神への冒涜に加担する気はなかった。
悪魔は私の反応に「欲すると肯ったなら、お前を食らっただろう」と言った。
なぜかと私は訊いた。彼ら曰く、「お前には盈々一水、愛の過剰燃焼から発するものがない」と。何故、悪魔が愛を語るのか、私には分からなかった。彼らが天使であったころの名残だろうか? 好悪は表裏一体なり、とでもいいたかったのだろうか。それとも、愛こそ、厭悪の原動力であると? だから、私は訊いた。
「愛の為に戦うのは天使なのではないか?」
悪魔は哂った。そして、いった。
「愛こそ、万物の力の根だ」と。――
神は人を弄ぶ。神といまだ、神の膝元にいる天使には愛はない。
悪魔は愛に戦う。なんて、コペルニクス的転回か。
ルカは笑った。今すぐ悪魔に会おうと思った。
ただ、準備は必要に思われた。悪魔の杜は深い。何日か分の食料と寝具として、せめて麻の上掛けくらいは持っていこう。あとは、野生動物を避けるための火付け道具。




