終章
終章 愛と憎しみの狭間で
理性では、分かってはいる。目に焼きついた光景を、エルダがあげる血飛沫を、アリサの網膜はしっかりと覚えている。それでも、視神経を通ったところで、人格はそれを拒否した。
ルカは俯いた。
胃が腹の中で捻じれていくのをルカは感じる。きっと、アリサは泣くだろう。そう、思った。けれど、アリサは泣かなかった。
泣いていたかもしれない。
でも、神をなくした世界に最早光は一筋すらなく、アリサの表情を見ることはかなわない。
たとえ、闇の中、漆黒の只中にあっても、アリサのことは想像と現実に歪なんかなくて、ルカの目とルカの心に映るアリサはいつも一緒で、同じのはずで、だから、ルカが泣いていると感じたら、アリサは泣いているはずで、笑っていると思ったら、笑っているはずなのに、このときルカはアリサのことが分からなかった。
泣いているか判然としないアリサは、無機質な声で答える。
「生きていこう」
彼女の声音は何の感情も含有していない。だけれど、ルカはそこに確かな決意を見た。
だから、ルカは杖を投げ捨てた。
投げ捨てられた杖は地に落ちた。音はしなかった。
砂浜の砂がショックを和らげた所為だった。
二人がいるのは海辺だった。
いまさらながらに、潮騒が聞え、磯の香が鼻腔に届く。大地の、地上の生臭さが身に滲みるのを覚える。
世界が晴れ上がった気がした。
それでも、世界は暗黒の中で、晴れ上がりを感じても、それは気持ちの問題だ。結局のところ、何も見えないけれど、インビジブルになっても、世界在り様は何も変わってはいないはずだ。見えないだけだ。見えないだけなのだ。
見えないものは、感じればいい。
神は死んだ。それでも、何も変わらない。匠が死んでも、その被造物はなくならない。
神の創造した大地は、いつまでも、五劫が擦り切れるまで、回り続けるに違いない。
海は確かに、二人の近くにあって、波を立て、いつもの通りにうねっている。
もう、杖の在り処は分からなくなった。
漆黒の杖は、闇に溶けて、その姿をなくしてしまった。だけれど、杖はそこにある。海と同じく、二人の傍らで、二人を見続けている。
「生きていこうね、エルダの分も」
もう一度、アリサはいった。
ルカは感じた。
同じ世界を、彼女に覚えた。
だから、抱き締めた。
狂おしいくらいに抱き締めた。
久しぶりの抱擁。
ルカの両手はアリサの両脇を通り、彼女を包んだ。
アリサは今もここにいる。だから、生きていく。誓った。
まだ、あの日の誓いは反故になってはいないはず。
何も生きていないからといって、一緒じゃないなんて、いわせない。
ルカの熱い思いに、答えて、アリサも抱き締め返す。
爪の先が背に食い込んでしまうくらいに。それで、全部が全部、始まって終わったかのように。
ルカはいった。アリサに。そして、この闇の中に。
「生きていこう」
と。
アリサはルカの胸の中で、わずかに頭を揺らした。
世界創造の日より変わらない海は、二人に潮風を投げかけ続けた。二人がその抱擁に飽きてしまうまで、いや、二人が白骨になってしまうその時まで――。
読了感謝。
昔に書いたものなので読みにくいかと存じます。多少修正しました。




