眠り姫は君を夢見る/恋愛(絵・茜葉梨(おはなし)さま)
広い屋敷の中、女のヒステリックな叫びが響き渡った。
「この子はもう一週間も眠りっぱなしなんですよ! 今すぐなんとかしてちょうだい!」
夫人の無茶苦茶な注文に、急遽呼びつけられた医師は困惑の表情を浮かべた。
彼らが見守るベッドには青白い顔をした乙女が横たわっていた。夫人の言い分が正しければ、少女――シェリー――はかれこれ一週間近く飲まず食わずの状態が続いていることになる。
シェリーは多少顔色が悪いものの、健康状態に大きな問題があるようには見えなかった。
「このような状態になったことに、何か心当たりは? どんな些細なことでも構いません」
「ないわ」
断言して、夫人は大きなため息を吐いた。
「明後日には伯爵がお見えになるっていうのに……」
「伯爵、ですか?」
「そうよ。婚約を交わすために、わざわざ遠方から来て下さるの。それなのにこの子ったら……」
夫人のぼやきを聞いて医師の目の色が変わった。
「そのご婚約はいつごろお決まりに?」
「ずっと前からよ。でも、そうね……正式に決まったのは十日くらい前かしら」
「なるほど。ならばあるいは……。
では奥様。申し訳ございませんが、一度席を外していただけますか?」
医師に促されるまま、夫人は部屋を出た。
シェリーが社交界に出てから困ることがないようにマナーは徹底的に教え込んだし、嗜みとしてヴァイオリンの稽古も付けた。おかげで申し分ない結婚相手も見つかり、彼女の人生の安泰は約束されたも同然だ。
少なくとも、母である夫人はそう信じて疑わなかった。
もしこのままシェリーが目を覚まさなければ、婚約の話がお流れになることもあり得ない話ではない。
そうなってしまえば今まで積み上げてきたもの全てが台無しだ。焦燥に駆られた夫人は、町にいる医者と名の付く者を片っ端から呼び集めた。
夫人のあがきは成果を得ないまま、伯爵来訪の日を迎えようとしている。
キリキリと痛む胃を押さえながら娘の部屋の前で医師の報告を待つ。それはどんな時間よりも苦痛だった。
「つまりですね。お嬢様は婚約のことを負担に思ってらっしゃるわけです」
医師が説明する横で、眠りから目覚めたばかりのシェリーは再び眠りに落ちてしまうのではないかと思うほど深く項垂れていた。
懇切丁寧に説明する医師の話を、夫人は苛ついた様子で聞いている。
「わたくしは娘が将来不自由しないように、最適な方を見定めて婚約の話をお願いしてるのよ? それの何が不満なの」
「いえ、ですから……」
胸ポケットからハンカチを取り出し、医師は額に浮いた汗を拭った。時おりシェリーの様子を窺うように視線を動かしながら困り果てた表情で説明を続けた。
「お嬢様は眠っている間、ずっと同じ夢を見ていたそうです」
「……そんな馬鹿な話!」
「本当よ、お母様」
夫人の強い否定の言葉を遮るようにシェリーが口を挟んだ。
「エリオットと一緒にいた頃の夢を見ていたの」
彼女が語ったのは、幼少期の思い出だった。エリオットは裕福な家の子供ではなかったけれど、一緒に川で水浴びをしたり、花畑で花の冠を作ったり色々な遊びを教えてくれた。
その思い出を追体験する夢を見ていたのだという。
「お前ったら、まだあんな子のことを覚えていたの? 言ったはずですよ。お前にはもっと相応しい人がいるんだから、早く忘れなさい」
夫人に叱られて、シェリーは一度上げた顔をまた伏せてしまった。
「奥様、そうやって高圧的になさりますとお嬢様の心に負担が掛かります。それが眠り病の原因になるのですよ」
「ふざけたことを言わないで!」
ヒステリックな夫人の声は部屋に響き、場の空気を張り詰めたものに変えた。
怯えたシェリーは祈りを捧げる時のように両手の指を組み合わせてうつむいている。
「たしかに、お嬢様はご婚約なさるのにちょうど良いお年頃です。ですが……――」
「とにかく。伯爵がお見えになる前に目が覚めて良かったわ」
医師の言葉を遮って、夫人が立ち上がった。暗に用が済んだから帰れと告げているのだ。
夫人の意図を汲み取った医師は、少女に同情のまなざしを投げて席を立った。
「では、お大事になさってください」
医師が去った後、母親と二人きりで部屋に残されたシェリーは横目で夫人の様子を窺った。自分の部屋であるはずなのに、とてつもなく居心地の悪い空間になっている。
下手に母親を刺激するまいと、シェリーは身体を強張らせて息を殺した。
「不満があるなら言ってごらんなさい」
「……いいえ、不満なんてないわ」
追究するような母親の言葉をやんわりと否定する。
「私のことはもう心配しないでいいから」
シェリーが告げると、夫人は訝るように二度振り返り、シェリーの部屋を出て行った。
ようやく一人きりになることができたが、シェリーの表情は曇ったままだった。
母親の前では普段通りを演じながら、少女はしばしば思考の海に潜り込んだ。
婚約自体が嫌なわけではない。シェリーにとっては伯爵もエリオットも同じ男性であり、全く見ず知らずの相手と婚約を交わすくらいなら昔からの馴染みの方が居心地もよかろうという程度の認識でいた。
それを母親に真正面から否定されたという揺るがない事実が、シェリーの胸にわだかまりを作っているのだ。
「私は……どうしたらいいの」
広い部屋の片隅で身体を丸めて不安な気持ちを吐露する。
どれだけ待とうとも、彼女の迷いに救いの手を差し伸べる者は現れなかった。
――あのまま眠り続けられたら、どんなにか幸せだったろう。
母を奔走させた眠り病を思い出して嘆息した。
周囲の狼狽は相当なものだったようだが、シェリーにとっては満ち足りた時間だった。
願わくはもう一度。
祈りを捧げるように指を組んだ。
ついに伯爵との約束の日が訪れた。訪れてしまった。そう形容する方が正確なほど暗く沈んだ気持ちでシェリーは目覚めた。
待ち望んだ眠り病が再び彼女を包み込むことはなく、代わりに小鳥のさえずりが覚醒を促す。何事もなければ心地の良い朝なのだろうが、今日は窓辺に立つ気力すら湧かない。
――見ず知らずの人だから心配しているけれど、実際に会ってみたら素敵な人かも。
胸の奥にこびりつく不安を拭い去ろうと努めて明るい思考に切り替える。
それでも息が詰まりそうな感覚が消えることはなかった。
「シェリー」
娘の不安を知らない夫人は、伯爵との対面に相応しいと思われる豪奢なドレスを持ったメイドを引き連れてシェリーの部屋にやって来た。
その光景を前にして、シェリーは自分がどれだけ抵抗しようと無駄なのだと悟った。
支度は着々と進み、せわしなく動き回るメイドたちに言われるまま身を任せているとあっという間に伯爵との対面の時間が訪れた。
伯爵は思っていたよりも気さくで優しそうな人だった。綺麗に整えられた髭は彼の大人としての魅力を引き立てていたし、すらりとした体型も申し分ない。けれど、なぜかシェリーの心は重く沈んだままだった。
「どうなさりました?」
呼び掛けられてようやく、自分が上の空な返事をしていたことに気付く。
「……すみません。少し考え事を」
言い訳をして視線を落とす。
伯爵は気分を損ねた様子もなく、シェリーを庭に連れ出した。
「ここなら誰も見ていません。もっと、身体の力を抜いて」
「……はい」
伯爵に促されて、ようやくシェリーは大きく息を吐いた。
母親がどこかで見張っているのではないかという疑念は晴れず、視線だけは周囲を警戒し続けている。それに気付いた伯爵はシェリーの肩に腕を回した。
「こうすれば私が貴女を口説いているようにしか見えないでしょう」
急に詰められた距離と低く囁かれた言葉に、シェリーは頬がカッと熱くなるのを感じた。
伯爵は赤面する少女の正面に回り込むと、目線を合わせるように姿勢を低くする。
「これから私がお見せするものは、貴女を少しばかり驚かせてしまうかもしれません」
「えっ……?」
突然のことに困惑するシェリーの前で、伯爵は口髭に指を掛けた。べりべりと音がして髭が剥がれていく。次いで眼鏡と帽子を外し、前髪を持ち上げた。すると、癖のある黒髪の下にブロンドの髪が現れた。
伯爵はすぐに帽子と眼鏡を戻し、口髭を元のように貼り付ける。
突然のことに硬直していたシェリーだが、変装を解いた伯爵の姿には見覚えがあった。
夢に見たあの少年の面影が、あったのだ。
「エリオット……?」
「……覚えていてくれたんだね。シェリー」
伯爵はゆるりと微笑み、シェリーを抱き寄せた。
「でも……、どうしてエリオットがここに?」
「しっ、ここではその名前で呼んじゃ駄目だ。君を迎えに来た。今言えるのはそれだけだ。
……僕と一緒に来てくれるかい?」
問いかけに対して、シェリーは満面の笑みで頷いた。
荷馬車の御者台には、エリオットとシェリーが並んで座っていた。後ろの荷台にはエリオットが着ていた伯爵の衣装も詰められている。
「本当に驚いたわ」
流れていく景色を眺めながらシェリーは目をしばたかせた。エリオットが隣にいると、まだ夢の世界にいるような感覚になってしまう。けれど、手の甲をつねってみれば確かな痛みを感じられた。
「迎えに行くって約束しただろ?」
「ええ……。だけど、本当に来てくれるなんて思わなかったもの」
「それとも、僕よりも本物の伯爵と結婚する方が良かった?」
いたずらなエリオットの問いかけに、シェリーは首を大きく横へ振った。
前回の更新からずいぶんと開いてしまいました。
これにて一旦完結とさせていただきます。……が、気が向いたら更新するかもしれません(笑)
企画へのお付き合いありがとうございました。