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不安  作者: 壇希
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実家

これは、とある居酒屋で知り合った、飲み友達の髙木さんの話だ。

出会って何度か酒の席を共にするうちに話のネタも尽き、何の気なく家族の話を振った際に話してくれたものである。こんな話、人様に話すようなことじゃないけれども、と前置きをしていたが、それでも話してくれたのは、酒の力以上に、内に秘めた「不安」を誰かに晒したかったのだろうと思う。




事の発端は、妹からの電話だったという。


「里香から電話が来たんだよ。夜中に。実家が大変だって」


里香とは髙木さんの妹のことだそうだ。


「なんでも、親父がリストラにあったらしくてさ、家のローンもまだ二千万近く残ってるっていうのに。それで親父とおふくろが精神的に参っちゃったみたいで」


里香さんはまだ大学生だそうで、なかなか再就職が決まらない焦りから、だんだんと壊れていく父を見兼ねて兄に相談を持ち掛けてきたのだそうだ。


髙木さんは、就職のため上京してからはほとんど実家には帰っておらず、特にここ数年は、仕事が忙しくなったこともあり一度も帰省していないらしい。

幸いにも、髙木さんは大手の文具メーカーに勤めており、ポジションも持っている人物だ。決して裕福な生活を送っているわけではないが、実家の一大事とあれば、援助をすることだってできる。


「里香には、すぐに帰るって伝えたよ。今週末にもってね。里香は今すぐにでも帰ってきてほしいみたいなことを言ってたんだけどさ。仕事の都合上厳しくてね」


数日後、約束通り髙木さんは帰省した。久しぶりの帰路だが、帰省の理由が理由だけに、気分はずしんと沈んでいたという。


東京から新幹線で二時間程北上し、降り立った懐かしい田舎の景色は、記憶の中のそれと比べ、見紛うほどに酷く錆び付き色褪せていた。


「だけど、実家の有様はそれ以上でね」


髙木さんの生家は、その門柱から、壁から、軒から、家全体がギラギラと汚くテカっていたという。まるで、使い古された油の膜を一枚被ったような、一体何をどうしたらこんな状況になるのか、髙木さんは実家の前で息を飲んだという。


「なんていうか、家の中にも外にも希望が欠片もないって有様でね」


そういうと、髙木さんはため息をついた。あまり思い出したくない情景なのだろう。


髙木さんは意を決し玄関扉を開けた。ドアノブにも油膜がこびり付いており、手に赤茶色い染みが付いた。


出迎えてくれたのは母だった。


「何故だか知らないけど、母親の目もギラついてるんだよ。瞼とか、目の周りを囲うように脂ぎってるんだよ」


少しやつれた母は、脂ぎった目を見開いて、息子の久しぶりの帰省を喜んでいるようだった。


「廊下なんかも、燃えた後みたいに黒ずんでてさ。ギシギシ音を立てるんだよ。隅っこには埃だか苔だかわからないようなものまで溜ってるし。おふくろは潔癖症だったから、こんなの許せなかった筈なのに」


今にも抜け落ちそうな廊下を抜けると、リビングに行き着いた。食卓には父親が座っていたという。


「親父の顔は脂ぎってなかったよ。それどころか、血の気もないって感じに真っ青だった」


父親は、一心不乱に何かを書いているようだった。書き上げた書類が、テーブルの上や床に散乱している。それは履歴書だった。一枚書き上げる度に、また駄目だ、と呟き書き上げた履歴書を床に捨てていた。相当強くペンを握っているのか、爪の間からは血が滲み出ていた。


「今日は泊っていくんでしょ?まぁ大変、御馳走作らないと」


母の甲高い声が響いた。その声に父がビクついていた。上目遣いで母の動向を伺う父の目からは、生気のようなものは感じられなかった。


「御馳走ができるまで、お部屋で待ってて頂戴ね」


髙木さんは、半ば茫然自失といった状態で二階にあるかつての自室へと向かった。そういえば妹の姿がない。妹も通学のため実家を離れているが、今は実家のことが心配で戻ってきている筈なのに。


自室の扉を開けると、咽返るような臭気が髙木さんを襲った。肉の腐ったような発酵したような強烈な臭い。髙木さんは堪らず部屋の庭に面した窓を開け、外に身を乗り出した。


「……里香がいたよ。庭に物置があるんだけどさ、その中から首だけ外に突き出して」


こちらを見てニコニコと笑っていたという。


「口の周りや歯が油でギトギトになっててさ。そのギトギトの歯を剥き出しにしてニィって笑うんだよ。俺はもう見つめることしか出来なかったよ」


五秒ほど見つめ合った後、妹は唐突に首を物置の中に引っ込め、扉をぴしゃりと閉ざした。


リビングのほうから乱暴な物音が聞こえた。髙木さんが慌てて確認に向かうと、そこにはフライパンを手にした両親が、何かを袋叩きにしている光景があった。


「ネズミが出た、ネズミが出た」

「ネズミが出た、ネズミが出た」


両親は口々にそう叫び、黒いそれをフライパンで叩きのめしていた。しかし、それはどう見ても我が家の飼い猫だった。フライパンが振り下ろされる度に、ぺしゃんこに潰れた頭部の首元で、首輪の鈴がちりんと物悲しい音を立てていた。


髙木さんは、ここで限界を迎えたという。




「……。それで、そのあと実家の様子は?」


「……」


髙木さんは答えなかった。その代わりに、ほとんど減っていなかったグラスの焼酎を一気に呷った。


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