昔話
1983年6月19日。
日曜日のその日、北九州市小倉南区にあった佐竹家では、涼子さんの15歳の誕生日パーティーが開かれていた。
友人を四人招き、その日のために買ってもらったドレス(お誕生日服というのだそうだ)を着た涼子さんは、お誕生日ケーキを出すのを待ってもらって玄関のほうを気にしていた。
涼子さんは5歳上の従兄弟の佐竹修一さんを待っていたのだ。
そこに電話が鳴った。
当時のことなので、家にある電話は一つ。
居間にあった黒電話の一番近くにいた涼子さんが出た。
母が言うには、数言やり取りした涼子さんは、すとんとその場に座り込んだという。
当時13歳の母は、目を見開いて無言で涙を流す姉に驚き、その手から受話器を奪った。
「一体何なんですか?」と強い口調で尋ねて聞かされたのは、修一さんが亡くなったという知らせだった。
修一さんが運転する車は、逆走してきた暴走車に弾かれて水路に落ちた。
ご両親も同乗していたが、3人とも亡くなったそうだ。
パーティーは中止になった。
涼子さんは服も着替えず布団をかぶって引きこもってしまった。
翌日も涼子さんは布団から出ず返事もしなかったという。
中学校は忌引きで休んだ。
その晩のことだ。
姉の様子を気にしながら眠りに落ちた母は、夢の中でその涼子さんにあった。
「それが、冠座の迷宮だったのよ」
と、菅生さんからお茶を受け取りながら母がいう。
「姉さんがいうには、そこは絶望のなかで15歳の誕生日を迎えた少女の心を取り込んで試す装置で、七つの迷宮を突破しなければ眠ったまま死ぬことになるというのね」
「装置って?」
菅生さんの解説が入る。
「私のようなものたちが集合して作り上げる特殊な空間です。冠座の迷宮は一人の少女の強烈な願いに呼応したものたちが長い時間をかけて作ったという話です」
今の言い方は引っかかる。
「あの。それは、菅生さんとは違う空間AIが他にもいくつもいるということでしょうか?」
「ええ、まあ。でも、詳細はお教え出来ません。文明保護基準というルールがありまして、そうしたことも禁止事項に該当しますので」
なるほど。
涼子さんや僕たちとこれだけ関わっていながらも、その辺はしっかりしているのか。
話を戻そう。
涼子さんは一日かけて、見事、迷宮を突破したのだという。
「どんな迷宮で、どうやって突破を?」
「それは教えてもらえなかったわ。ただ、姉さんは頭も良いし、理学部に通っていた修一さんに憧れて勉強熱心だったから、迷宮突破くらいわけないわよ」
変なところで自分の姉に対する信頼が厚い。
「それで、母さんはどうしてそこに?」
「手伝いに呼ばれたの」
「手伝い?」
「オプションというのかね。突破したものは神々との戦いに参加することが出来るというのよ。で、手伝いを一人呼んでいいというので、私が呼ばれたというわけ」
母をアリアドネという15歳の少女に引き合わされた。
アリアドネは、オリンポスの神々に戦いを挑んでほしいと言った。
今まで何度も挑んだがすべてに惨敗してきており、何が何でも勝ちたいらしい。
そしてアリアドネの夫であるディオニュソス神から、力を授かった。
「勝てばその力を持って帰れるというのね。でも、負けると眠ったまま死ぬことになるっていうのよ。私、姉さんに激怒したわ」
ところが、涼子さんは自信満々で、力を持って帰るつもりだった。
「力を見せられた瞬間に、説明を受けたような力ではないことに気がついたというのね。で、うまく応用すれば青銅器時代の神くらい敵ではないというわけ」
オリンポスの神話が出来たころには鉄器時代が始まっていたかも知れないという気がするし、そもそも鉄器時代だろうが青銅器時代だろうが神の強さに関係があるのかという気もするが、そこに突っ込むのは野暮だろう。
実際に、水の力を得た涼子さんは、少し試行錯誤してコツをつかむと、電撃を放って大木を倒したという。
「水の力の正体は、強力な電磁気で流体を操って流れを操作する力だと言ってたわ。だから電磁気自体も操ることが出来るって」
そして、母が貰った風の力の正体は、空気をはじめとする様々な物質の振動を操る力だった。
少し練習すると、衝撃波を放って木々を打ち倒すことが出来たそうだ。
戦いが始まってみると、涼子さんの言う通りになった。
二人ともそれぞれに力を活かして空を飛び、力を工夫して火球や竜巻、氷で作った矢の雨などを相手に浴びせ、自分を分厚い空気や水の壁で守ることで、難なく勝利を重ねた。
母は、ヘカテー、デメテル、復讐の三女神、タナトス、ヘスティア、アフロディーテを圧倒。
涼子さんも、ヘルメス、ペルセポネ、アレス、アテナ、アルテミス、アポロン、ハデス、ポセイドン、ヘパイストス、ヘラをあっさり撃破。
その間にディオニュソスがギガンテス、ゼウス、クロノスを倒し、ディオニュソス陣営は悲願の初勝利をアリアドネに捧げたという。
アリアドネが悲願を遂げたことで、迷宮は消滅したそうだ。
「目が覚めたら水曜日の夕方でね。夢中になって戦っていたら二日も寝てたみたい。両親にはずいぶん心配されたわ」
一方の涼子さんは、目を覚ましてもしばらくは両親とも口を利かず、学校にも行かなかった。
妹である母には、目をらんらんと光らせながら「それどころじゃない」と言ったという。
実は母たちの両親(考えてみると僕の祖父母だ。産まれる前に亡くなったので実感がないが)のほうでも、それどころではなかった。
母たちの父の実家(つまり僕の曾祖父の家か)が長男一家が全滅したことで大騒ぎとなり、結局一家そろってその実家に引っ越すことになったからだ。
そうしたなかで夏休みが来て、涼子さんと母は親戚から「どうせ転校するなら」ということで私学である明仙学園の中等部の編入試験を勧められた。
二人は無事合格し、転校した。
「新学期からは姉さんも、普通に学校に行って普通に生活してたわ」
そして、少し声のトーンを落として続けた。
「でもそれは、後になって知ったのだけど、復讐が終わっていたからだったの」
復讐って、まさか。
「あの暴走車の?」
暴走車は事故後逃走し、二日後に遠賀川上流部の堤防脇に乗り捨てられているのが見つかった。
しかし、車は盗難車で事故を起こしたドライバーはひと月経ってもわからないままだった。
「姉さんはこの世界でも力を自在に使えるよう練習をしつつ、目撃者を探したらしいわ。そして、この人を見つけて、事故の一部始終を知ったのよ」
母は親指で菅生さんを指差した。
「ええ。菅生の滝においでになった涼子様が私をお見つけになりまして。それで、事故当時の映像をお見せしました。ご覧になりますか?」
菅生さんが水鏡を取り出し、一般道を猛スピードで逆走する白いボロボロのセダンを映し出す。
「いえ、いいです。仕舞ってください」
ひっこめてもらった。
事故映像なんぞ見たいと思わない。
というか、菅生さんの「菅生」は菅生の滝から来ていたのか。
暴走車を運転していた少年と助手席に乗っていた少女は、8月のある日、焼死体で発見された。
しかし、黒焦げで周囲に身元につながる物品もなかったため、しばらく誰なのかわからなかったらしい。
10月になってようやく身元確認の出来た警察が、知っていることはないかと聞き込みに来たのだそうだ。
「姉さんがあの迷宮で戦う選択をして私を手伝いに呼んだのは、復讐するための力を持ち帰るためだった」
母は首を横に振って、苦々しげに言う。
もちろん、警察が涼子さんを捕まえることはなかった。
夜の闇にまぎれて空を飛びながら電撃や火球を放つ女子中学生である。
目撃者も、もし目撃者がいたとしてもその話を信じる人も、いないだろう。
「でも、これで終わっていればまだ良かったわ」
母は苦しそうに言う。
涼子さんは家族に「修一さんの無念を晴らすためにも大学にいく」と宣言していた。
まだ女性の大学進学がそれほど多くはなかった時代だ。
そんな時代に、その思いがあったからこそ、当時進学校として知られていた明仙学園に転校し成績を着実に上げてきていた。
だがそこに、正月がやって来た。
それまでの年のお正月。
母たち姉妹は、着飾って実家にお年始に行き、そのまま修一さんたちと初詣に行って、その後はゲームをして過ごしていた。
前の年には修一さんが初めて、バイトで得たお金から、二人にお年玉をくれたのだという。
「たしか千円だったけど、姉さんはすごく喜んでね。日記帳の表紙の裏にポチ袋ごとしまっていたわ」
でも、そうした日々はもう決して訪れない。
涼子さんは元日の午後、遺影の前に座ってしばらく動かなかったそうだ。
涼子さんの様子は徐々におかしくなった。
ぼんやりしていることが増え、目に見えて成績が下がった。
明仙学園は小中高一貫(高等部は入試で入ってくる外部生が半分くらいいるが)なので中三の涼子さんに受験勉強の必要はないが、心配した両親は母に相談した。
「姉さんの気持ちは私もよくわかったからねえ」
それで、両親の心配を伝えた際に、励ましの言葉をつけくわえた。
「それにね。こんな世の中のせいで苦しんでいる人は他にもたくさんいるじゃない?だから、私たち、頑張らないと。ね?」
それは、ただただ「つらいことの多い世の中だけど一緒に頑張ろう」という励ましのつもりの言葉だった。
「姉さんは、顔をあげて『そうよね。わかったわ、遂美』と言った。その後はいつもの姉さんに戻った、と思ったわ」
でも、それは間違いだった。
「多分、これが始まりだったのよね」
母はそういうと、ため息をついた。
「翌年、私が中三に上がった年の、大型連休明けだったかな、私が《闇の魔法少女》について聞かされたのは」
高等部に上がった涼子さんは、成績もクラストップとなり、スポーツも万能で、ファンが多くなっていた。
ただ、あまり打ち解けず不意にどこかに行ってしまうので、ミステリアスな人という評判で、中等部の母のところに質問にくる人もいたという。
母も涼子さんが家にいないことが多いとは感じていた。
そんなある日のことだ。
「いきなりクラスに高等部の有名人二人が入ってきたわけ。みんな息をのんで、ひれ伏さんばかりだったわ」
佐山迦未子さんと有久保独さんだ。
ちなみに母が現役のころ、中等部と高等部は階が違うだけの一方、男子と女子は建物が別になっていたそうなので、中高は実質、6年制の男子校と女子校といえる状況だったらしい。
だから、この辺のノリも女子校のそれだ。
「お二人はまず、人が亡くなった現場の多くに闇の魔法少女と名乗る存在が現れていると教えてくれた。そしていきなり、姉は普通の人間なのかと尋ねてきたわ」
母も、人が死ぬ事件が近頃増えているとは感じていたらしい。
ただ、もともと当時の北部九州は治安があまり良くなかったので、気にしていなかった。
「お二人は年明けのクラスマッチのバレーボールで、ネット越しに姉さんのアタックをブロックしたときに、普通じゃないと感じたらしいのね」
それ以降、涼子さんをマークしていたそうだ。
「そして、お二人はご自身も普通の人間ではないと、打ち明けてくれたわ」
やはりだ。
迦未子さんも独さんも、普通ではなかった。
「姉も私も普通ではないですと伝えたら、姉さんをそれとなく見張って、何かあったら夜中でもこの番号に電話して欲しいと、紙を渡されたわ」
それは佐山家の警備室の電話で、24時間体制で人が詰めているから、ということだった。
スマホや携帯電話どころかポケベルすら普及していなかった時代のはなしだ。
「驚いたのは、人が多い休み時間の教室での出来事だったのに、誰にも話が聞こえてなくて、近くにいた友人たちにはわからない言葉でやり取りしていたと言われたことね」
紙を渡されたことも見られていなかったらしい。
後に母は、それが迦未子さんの能力だと教えられた。
「何日か後、夜中に姉さんの部屋をのぞいたら姿がなくてね。私は着替えて窓から空を飛び、一番近い公衆電話からその番号にかけたのよ」
出た男性に要件を伝え、電話を切ってしばらく待つと、その公衆電話に迦未子さんから直に電話がかかってきた。
県道沿いの数年前に潰れた飲食店の駐車場が暴走族のたまり場になっているが、そこで炎が上がっているという内容だった。
母は空を飛んで数分でその場に駆けつけたが、すでに遅かった。
十数台の改造バイクや改造車が、そして数十の人間が、それぞれに、炎に包まれていた。
そして、黒いドレス姿の少女が、時折起こる爆発を気にする様子もなく制服姿の少女三人を追いつめている。
母にはそのドレスに見覚えがあった。
「色とサイズは違ったけど、デザインはあのお誕生日服と同じだった」
そしてもちろん、それを着用していたのは。
「姉さんだった。マスクをしていたけどすぐわかったわ」