縮地と価値情報とライブと
しばらくは、命さんと二人きりだった。
会社では、今いる部屋が命さんの部屋の近くなので、たまに話す機会もあるし、昼食に誘ってもらうこともある。
だから、今更緊張することもないはずだが、ドレスアップした命さんと向かいあうのはやはり勝手が違う。
なにより胸元が眩しい。
目線に気を付けながら、要さんの改名式の様子を聞いたが、半ばうわの空だ。
式がこの建物から少し離れたビルの最上階で行われている、くらいしか記憶に残らない。
「改名の式自体は、本当は昨日の予定だったのよ。でも、先週急に母に予定が入って今日にずらすことになって。
それで、君への案内も急な変更が入ってしまって……」
命さんは、最近はすっかり打ち解けた話し方をするようになっている。
「すみません。僕が勘違いしたばかりに行き違いになって」
「いいのよ。私の采配ミスだわ」
少しうなだれるようにしたところで、手のひらをこちらに向けて僕の言葉を制した。
フェアリーが耳打ちしたようだ。
「式が終わったそうです。私は先に行きますね」
命さんが席を立つと、僕はぐったりと背もたれに身体を預けた。
お皿を下げにきた笠野さんがそんな様子を見て、くすくす笑う。
気安い雰囲気を感じて、尋ねてみた。
「さっきの独さんたちのあれって、何だったんでしょうね?」
「あれは、『縮地』の一つかもしれません。私が知っているものとは違いますが」
「縮地?」
「昔に習った師匠の真似事なのですが、私のをご披露しましょう」
そう言って笠野さんは、お皿を持ってすっと奥に戻っていく。
お皿を置いて再び姿を現した笠野さんは、こちらに品よく一礼した次の瞬間、目の前に迫っていた。
「これが私の縮地です」
姿勢を整え、グレイのスーツの襟や裾を気にしながら笠野さんが言う。
わずかに息が乱れている。
「どうですか、お二人のと私のとは違うでしょう?」
「あ、はい」
笠野さんの動きは、緩急が大きくて意表をつかれたが、途中の動きは辛うじて見えた。
そして、全力疾走の影響が息や服に出ている。
「奥様やお嬢様の動きは、私にも見えませんでした」
笠野さんは首を横に振った。
そして頭を下げる。
「そろそろ、お時間です。会場へご案内します」
「お願いします」
僕は笠野さんにエスコートされて部屋を出た。
有久保家の謎は深まるばかりだが、一つはっきりしたことがある。
笠野さんはやはり武術の達人だ。
そんな人に護衛され、心強いことこの上ない。
僕が案内されたのは客席の最前列、舞台に向かって左よりの席だった。
左隣は空席で、右隣には渋茶色のスーツの若々しい中年男性だった。
フチなし眼鏡をかけ、品よく座っている。
笠野さんが紹介してくれた。
「こちらは横浜科学未来大学教授の冬越明様です」
「どうも、あなたが水谷さんの息子さんでしたか」
握手を求められた。力強い手だ。
そして、またも母の知り合いである。
笠野さんは少し離れたステージ脇の隅にいき、腰をかがめて控えた。
紹介された以上、黙っているのも気まずい。
「あの、冬越先生は、冬越総合物流の?」
「ええ、兄が社長をやっています」
「大きくて立派な会社ですよね」
「まあ、有久保家や佐山家と長年懇意にさせてもらっていたおかげで大きくなっただけです」
その冬越にプロジェクトを持ち込んだ側としてはとてもそうは思えないのだが、冬越教授にはどうやら思うところがあるらしい。
話題を変えよう。
弟の話を思い出してみる。
「冬越先生のご専門は確か、価値情報論ですよね?」
「そうそう。よくご存知で。本をお読みになりました?」
嬉しそうに聞いてくる。
「あ、いえ。すみません。お名前だけなんです。教えていただけますか?」
この話題は弾みそうだ。
「そうですね。簡単に言いますと、お金の話です。君はお金をどういうものだと思いますか?」
「交換手段ですか?」
「何の?」
「ものとか労働とか……」
「しかし値段がつかないものもある」
「ああ、価値がないものとか価値が高すぎるものとか……」
「そう、価値です。そう考えると、お金とは価値を伝えたり蓄積するための概念的な存在といえる」
「概念的存在?」
「要は約束事ですよ。約束が通用しなくなればお金にはなんの意味もない。
この約束を保証しているのは国です。だから、国が破綻すれば紙切れとなる」
「あ、紙袋いっぱいの紙幣でパンを一つ買う話を聞いたことがあります」
そう言うと、教授は身を乗り出してきた。
「そう。それは売ってくれるだけまだ良い。別の貨幣が登場したとたん、元の貨幣になんの意味もなくなる、なんてこともよくあります。
価値とは、いろいろなもの、多くは労働や労働の成果ですが、そうしたものの社会における必要性の評価、と言えます。
これを数値化し、持ち運びしやすい物質に仮託したのが貨幣、つまりお金です。
そして今や、貨幣という物質を離れ、お金は純粋に数値情報として光の速さで移動し交換され集計されています。
ですから、お金とは価値の数値化であり情報化である、と捉えることができます」
「それが価値情報論?」
「いや、これは出発点です。
技術の進歩によって伝達のスピードや蓄積の方法が大きく変化してきたことに、私は注目しました。
通貨が生まれたことで交易のしきいが低くなり、お金さえあれば、誰でも気軽に遠い土地の品物が買えるようになります
それは、交通手段の整備や電信や電話の登場のたびに高速化し、銀行や証券制度の整備などで活用が高度化される。
これが何を引き起こすか?」
「暮らしの変化、ですか?」
「そう。もっと大きく捉えると、それは経済圏の拡大であり、社会の有り様の変化です。
産業が起こり、都市が出来、新しい社会構造が生まれる」
「社会の変化……」
「そうです。お金の移動速度と活用の制度が進化することで、中世が近世にかわり、近代になり、ついには現代へと変わる。
お金の速さが社会の形を規定すると言ってもいい。その時々の人々の思惑すら置き去りにしてね」
「じゃあ、戦争とかも?」
「その通り。拡大する経済圏と経済圏は衝突し、争いを産み、時として戦争となる。
そして今や価値情報の伝達速度と活用の処理速度は全世界を一つの経済圏にしてしまうのに十分となりました。
形はいろいろですが、戦争もすでに起きてますよね」
「たしかに」
僕はここ数年のいろいろなニュースを思い浮かべた。
「経済というと、独占や不況の問題もありますが?」
「その二つは本質的には同じものです。
価値情報とは、価値を伝える情報。つまり、移動し交換されて初めて意味がある。
一部の人間に独占されて移動も交換もされなくなれば存在しないのと同じです。
誰も価値を提供しないし、できない。そして買わないし、買えない。
だから必然的に不況となる」
「動かないお金はないのと同じ……。つまり、消えるということですか?」
「一時的にね。大事なのは交換回数です。交換されなければ価値はゼロです。しかも価値の対象である実体を伴う必要がある。
単位時間あたりの実体を伴う交換頻度が多ければ多いほど、価値の合計額が増える仕組みですから。
だから、一部の人や組織が、お金をため込んで独占したり実体を伴わない交換を続けたりすることは、社会にとって害悪です。
例えば、近い将来のためでなく、いつ来るかわからない将来の不安のために床下に蓄財する人ばかりになれば、不況は必然です。
また、実体を伴うことのない交換で偽りの合計額だけが増え続けるのも、それはバブルでありいずれ社会を破壊してしまう。
一方で今日のためにお金を使わずにはいられない人たちにお金を渡せば、確実に交換され移動し、価値は増幅します。
こう考えると、人々にいざという時が来ても何とかなるという安心感を醸成し、新しいことへの挑戦を促すような福祉政策こそが、
実は不況知らずの秘策になる。
もちろん、モラルハザードを招かないための工夫は必要ですがね」
そして、片目をつぶった。
「今のこの国の好調はね。君のお母さんのおかげなんです。
有久保家を通じて、政府に私のこの理屈を届けてくださり、それがウタヒメシステムの設計に活かされました。
まあ、少々ややこしい制度になってますが、それはモラルハザード対策を考慮した結果です」
思わぬつながりだ。
「そんな、うちの母がですか?先生のようなすごい方との橋渡し役を?」
「ありがとう。でも、君のお母さんこそ、すごい人なんですよ。
私は、君のお母さんの高校の後輩で、君のお母さんには高校の生徒会で随分とお世話になりました。
本当に生徒思い学校思いの素晴らしい生徒会長だった。
人々に向き合う姿勢について、私もいろいろと教えられたものです。当時の私は酷く高慢な考えの持ち主でしたから。
価値情報論を思いついたのも、君のお母さんが先輩からもらったという渋沢栄一の本を、譲り受けて読んだのがきっかけなんです。
まあ、言ってしまえば、受け売りなんですよ」
冬越さんは、いたずらっぽく笑った。
僕は、母を思い浮かべた。
いつも地味な服で、ダイニングのテーブルで書き物をしていて、なにかのたびに口うるさく怒る母の姿だ。
冬越さんの主張する素晴らしさにはちっとも思い当たらない、というのが正直なところだった。
お披露目の式は、麗さんの挨拶からはじまった。
次に、佐山家の当主、佐山仁太郎という、白いひげをたくわえた和装の堂々たるご老人が登壇する。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます。
この度、私の孫娘の忘れ形見である要が、佐山を受け継ぐ決意をしてくれました。
誠に有難く、そして小さな身に重荷を押し付けるようで申し訳ない、とも思っております。
今後の私は、要が幸せな人生を掴めるよう、全力を尽す所存です。
そのせいで皆様にはご迷惑をおかけする場面もあるかと存じますが、悪しからずご了解のほど、お願い申し上げます」
要さんは仁太郎氏の曾孫にあたるらしい。
いよいよ要さんの出番となる。
落ち着いた桜色のワンピースをまとった要さんは、下手側から若干緊張した面持ちながらしっかりした足取りで登場した。
途中で、ステージの奥に二度会釈をした。
そこには白い服を着た二人の若い女性が立っていて、要さんに笑顔で手を振っていた。
いつの間にそんなところに、誰だろう。
と思った瞬間、二人はふっと消えた。
驚いて周りを見たが、隣の冬越さんを含め、誰も全く驚いた様子がない。
というより、舞台上に二人がいたことにすら気がついた人がいなかったようだ。
僕は幻を見たのだろうか?
「本日より私は、佐山要となりました。おじいさまが受け継ぎ、皆様とともに歩んできました佐山家を、さらに発展させ、
皆様や地域のためになりますよう、頑張って参りたいと思います。
拙いことばかりかと思いますが、皆様のご支援、ご協力を賜りましたら幸いです」
要さんは立派に宣言し、麗さんの「どうか皆様には暖かくお見守りをいただけますようお願いいたします」の言葉で頭を下げた。
盛大な拍手をうけたところで独さんと佐山仁太郎氏が登壇し、要さんと並んだ。
「本日は皆様、私の大切な姪、要の人生の節目をお祝い頂きありがとうございます。有久保は、佐山の方々とともに皆様や社会のため、
引き続き尽力していく所存でございます。姪ともども、お力添えいただけますようお願いします」
再び盛大な拍手がわく。
仁太郎氏と要さんが上手側に退くと、それを手を振って見送った独さんがマイクに向き直った。
「本日はわが娘より、皆様に余興の用意がございます。娘の命です」
紹介をうけて命さんが、下手側から三体のアイシリーズを従えて登場した。
三体は、ジャグリング、傘回し、リフティングを危なげなく行いながら整然と移動し、会場がどよめく。
「命でございます。こちらは、あのアイシーの後継で、弊社筥松ホールディングスが吉武共電工業と共同開発しておりますアイリスです。
そして本日は、特別ゲストをお呼びしております。どうぞ!」
奥のカーテンが開いて、ドラムセットが出てきた。
アイリスがドラムを叩き、左右からギターとベースを演奏するアイリスが登場する。
転調が入り、現在花崎菜々が主演して大ヒット中のアニメ『群青色の時代より』のオープニング、『蒼の終わる日』がはじまった。
上手側から、この歌で一躍有名になった姫木ナミダが現れ、歓声が上がる。
冒頭のシャウトが響くと、小道具を置いた三体のアイリスたちもダンサーとして加わった。
こうして祝典の場は、一気にライブ会場となった。