出会い
6月19日水曜日、平日。
本来は出社する日だったが休暇をもらい、朝からクローゼットサービスに行き盛装させてもらった。
担当は、前回と同じく桜川さんと前野さんだった。
今回もまたコーディネートの狙いを丁寧に聞かされたが、やはりよくわからない。
そして、いつかの食事会のときのようにハイヤーでパーティー会場に向かう。
お大尽な話だが、全て有久保家の差し回しである。
というのも。
今日は、要さんのお誕生会兼お披露目パーティーの日。
そう「有久保要さん」が「佐山要さん」になる日である。
僕はそのパーティーに身内として招待されていた。
ハイヤーが着いた会場は、川崎に最近出来たドーム状の建物だった。
大きな建物で、入り口がいくつもある。
一般向けのイベントではないのでほとんどの入り口は閉鎖されているが、それが逆にどこから入っていいか迷わせる。
薄曇りながらじんわりと蒸し暑く、少し歩くだけで汗が出てきた。
エリスがいれば、迷うことはなかったのに。
僕は、ハイヤーのなかでエリスの電源を切ったのを後悔した。
招待状に「入場時にはフェアリーをお切りください」とあったからだが、早すぎだった。
エリスを起こそうとしたところで、一つの入り口に数人が入っていくのが見えた。
行ってみると確かに入り口だ。
しかし、「特別」の文字が見当たらない。
招待状には「特別受付においでください」とあった。
しかしまた外に出てこの建物の周りを歩くのも面倒だ。
招待状を見せたら「特別受付」とやらに案内してもらえるだろう、と入ってみたらそのまま中に通されてしまった。
入ってみると、ドーム内には小さな商店が立ち並んでいた。
涼しい風がゆるやかに吹いている。
爽やかな空間だ。
遠景には雪を頂いた山々が見えており、どうやら高原の町という設定らしい。
汗もすぐに引っ込む。
この施設は昨年末に「全天候型の屋外イベント施設」として紹介されていた。
真夏でも熱中症の心配なく、真冬でも凍えることなく、雨や風が強い日でも気にすることなく、「野外ライブ」や「屋外競技」が楽しめるというのが売り文句だ。
天井や外周に空や周囲の景色を映し出す照明と空調が、様々な場所の様々な時間帯を再現するという。
今、ドームの天井は青空に色とりどりの花火が打ち上げられる幻想的な映像が映し出されている。
ニュースでは、商店などの建物は組み立て式で収納や展開が数時間で出来ると紹介されていたが、とても仮設とは思えないしっかりした作りだ。
景色も青空も、そして有り得ないはずの花火もリアルで美しい。
つい見とれて立ち尽くすほどだ。
中央には広場があった。
ステージが組まれており、バンドが陽気なジャズを演奏している。
まだ昼前だったが、ステージ前に並べられたテーブルでは数組のグループが焼き菓子と紅茶と演奏を楽しんでいた。
一組は子供だけのグループだ。
おそらくは要さんの同級生たちだろう。
広場の脇の屋台でクレープを配りはじめた。
僕はクレープとコーヒーを受け取って、端の方のテーブルに座った。
一口かじるとチョコクリームの淡い甘みと苦み、そしてバナナのねっとりとした甘みが口に広がる。
ふっとため息が口をついて出た。
こうして人々が何かをしているのを眺めながら食事をしているのは心が和む。
その張り詰めていた何かがほぐれ、ゆったりとした心持ちになっていく。
どうやら僕は疲れていたらしい。
ようやくここまでたどり着いたという安堵がどこかにある。
実際、このひと月ほどは、慌ただしく気持ちが休まらない日々が続いていた。
そう。
大変だったのだ。
何が大変だったかといえば、まずは転職だ。
手続き自体は会社同士で済んでしまっていて特にすることもなかったし、職場への距離もほとんど変わらなくて引っ越しも必要なかった。
さらに言えば、通勤の方向が逆になったおかげで空いている電車に乗れるようになり楽になった。
仕事についても、まだ入ったばかりなので、配属先の検討のための各部門の見学や講習が主であり特段の業務もない。
そこまでは良い。
なにも大変ではない。
問題は、母だ。
短期で職を変わることに、「そんな堪え性のないことで」と激怒されてしまった。
自分のわがままや仕事が嫌になって逃げ出したわけではない、と説明したがなかなか信じてもらえない。
結局、理解してもらえるまで半月かかった。
最終的に母が納得したのは、どうやら弟の助言のおかげらしい。
弟にはまた借りを作ってしまったわけだ。
兄としては情けない限りだ。
次はお金。
五月末にあのユースギルドのお金が口座に振り込まれた。
二百万円だった。
国からのお金なので税金を引かれることもなくて、2の後ろに綺麗にゼロが6つ並ぶ。
その程度の額は大したことないと思う人もいるだろうが、僕にとっては大金だ、
今までの預金や給料とは桁が違う。
ちょっと戸惑ってしまった。
とりあえずエリスに投資信託を2つ選ばせてお金の半分を投入し、残りは定期預金にすることで目の前から見えなくした。
しかし、これが今後も入ってくるわけだ。
今月末の振り込み金額は四百万円で、エリスの予測では来月分は五百万円になる可能性が高い。
日々、お金があればと思うことが多いが、実際に手にしてみると扱いに困る。
どう使うのが最適だろうか。
例えば、今回定期預金に回した額があればクローゼットサービスの一番高いコースを年間契約できてしまう。
しかし、そういう使い方は自分らしくない。
何より安易な浪費に慣れることが怖い。
このところの僕は、そんなことをグルグルと考えてしまっていた。
そして最後に、街を歩くのが少し怖くなった。
転職後にあった第四回、第五回のユースギルドの会合は、引き続き許斐さんの独壇場だった。
調達の方法や行政手続きの話、計画の細部の検討が着々と進められ、今月末の会合の時間にはオンラインで冬越に事業の提案を行うことが決まった。
僕などはもうほとんど、許斐さんの質問にAIよりはましな程度の回答を返すだけの役目だ。
問題なのは、その会議の場への行き来だった。
周囲になんとなく人が多くて、変な緊張感がある。
そして、ここ数日はそれを普段の生活でも感じるようになってきている。
この、安心感がないという感覚は思い過ごしではないらしい。
先日は自室近くの商店街で、坂崎さんがガラの悪い男の腕をねじ上げている場面に出くわした。
坂崎さんは「近く散歩してただけだ」としか言わないので、あとで命さんに電話したら
「変な噂が出回っているようですので時々見回ってもらっています。お話の件は別件でして、たまたま出くわしたのでついでに掃除したと報告を受けています」
ということだった。
どうやら、あの沖野さんたちのグループように、情報を聞きつけた人たちがいるらしい。
命さんの「次は命を狙われるかもしれませんよ」という言葉が頭をよぎる。
命さんは、「今のところ問題ないと思いますが、引っ越しも視野に入れておいてください」とも言っていた。
早速エリスがセキュリティに強い賃貸物件を探してくれたが、賃料はどれも今の3倍以上はする。
これについては、一旦保留とした。
とまあ、こうしたいろいろで、気持ちが休まらない日々なのである。
ちなみにお金については、母も弟も反応が薄かった。
考えてみると、母は大金持ちの友人たちと青春時代を過ごしてきており、しかも苦しい時期にも援助を断ったというから、それが母のお金についての態度なのだろう。
弟と僕は、そうした母の態度を知らず知らずのうちに身につけてきたのかもしれない。
「水谷津都さんですね?」
若い男性の声がした。
丁寧な呼びかけに振り向くと、ダークネイビーのスーツをまとった背の高い男が軽く腰を曲げて挨拶をしてきた。
胸元には水色の刺繍の入ったハンカチーフをのぞかせている。
よく見えないが桔梗の花だろうか。
「私、有久保家の執事をしております宮田と申します。よろしくお見知りおきください」
「あ、はい。どうもご丁寧に。水谷です」
慌てて立ち上がる僕に、宮田さんは右のほうを指し示す。
「あちらでお嬢様がお待ちです。よろしければご案内いたします」
「え、すみません。お願いします」
僕がコーヒーカップとクレープの皿をどうしようかと見回したところに、別の男性がそっと歩み寄ってそれを受け取る。
「こちら、お引き取りします」
「ありがとうございます」
この男性も色はからし色だが同じ型のスーツを着ていて、胸には同じ刺繍のハンカチーフをつけている。
「今の方も?」
男性のほうを振り返りながら、並んで歩く宮田さんに尋ねる。
「はい。当家の人間です」
「ハンカチーフが同じでした」
「これは有久保家のお印です」
「家紋?」
「いえ。これは、有久保家の使用人が長年受け継いできているデザインです」
宮田さんが口元を抑えて少し笑う。
「なるほど、使用人には家紋は使えないんですね」
「ええ。しかし、よくお気づきになられましたね」
「いえ、ちょっと気になっただけで」
「お嬢様方が気に入られるはずです。我々もしっかりしませんと」
その言葉が、すこしため息をつく感じだったので、聞いてみた。
「なにかあったのですか?」
「受付の者が、水谷さんをご案内もせずにお通ししまして。私が命お嬢様に叱られました」
「あ、それは……」
「いや、参りました。きっと特別受付においでになると思っておりましたから」
「それは、大変ご迷惑をおかけしました」
これは平謝りするしかない。
確かに、招待状には「特別受付においでください」とあった。
全ては会場に着く前にエリスの電源を切った僕が悪い。
「いえいえ。常に抜かりなく気を配ることが我々の仕事です。余計なことを申しました。申し訳ございません。お忘れください」
斜向エレベーターの前で、宮田さんが深々と頭を下げた。
エレベーターが下りてきて、車椅子の男性が降りた。
僕たちは入れ替わりで乗って、四階へと上がる。
斜向エレベーターが上昇するにつれて、ゆっくりと見える景色が変わっていく。
ステージの周りに報道関係者らしきカメラが並びはじめているのが見える。
会場はだいぶ賑やかになってきていた。
四階に着くと、金色のプレートに貴賓室の文字が浮き出ている扉の前に案内された。
宮田さんが軽くノックをすると扉が内側に開く。
グレイのスーツを着た女性が扉を開けてくれていた。
「では、私はこれで」
「ありがとうございました」
頭を下げる宮田さんにお辞儀を返して部屋に入る。
「笠野です。有久保家の護衛をしております。よろしくお願いいたします」
女性が挨拶をする。
若く小柄だが、きりっとした顔立ちで隙がない印象だ。
「あ、はい。よろしくお願いします。水谷です。護衛といいますと坂崎さんの?」
「坂崎は、私の上司です」
「やはり」
坂崎さんの部下か。
あの人が貴賓室を任せるのだから、相当に強いのだろう。
「坂崎は、現在奥様やお嬢様方について出ておりますので、私がこちらを担当いたします」
「皆さんはどちらに?」
「改名の手続きを兼ねた近親者の方のみの式典がありまして。つい先ほどですが、そちらに向かわれました」
「あ、それは」
もしかして?
「水谷様にもご出席頂く予定にしておりましたが、時間がおしておりまして。申し訳ないのですが、こちらでお待ち頂くことになっております」
やっぱりか。
僕が入り口を間違えたせいで、予定が狂ったらしい。
先ほどということは、ギリギリまで待ってくれていたのだろうか。
「私のせいですね。すみません」
「いえいえ。当方の段取りのミスでございます。お気になさらないでください」
笠野さんは嫌味のない笑顔をつくって、会場を渡す大きな窓のそばの席に案内してくれた。
部屋には僕と笠野さんのほかには、ほっそりとした小豆色のカジュアルスーツ姿の銀縁メガネの中年女性だけだ。
「こちらのお好きな席におかけください。お食事の用意もございますが、いかがしましょうか」
「サンドイッチみたいなものはありますか?」
「ホットサンドイッチがございます」
「では、カフェラテと一緒にお願いします」
「かしこまりました」
笠野さんが、奥に引っ込むと中年女性が手を振ってきた。
会釈を返すと、女性は近づいてきた。
「もしかしたら、水谷津都くん?」
「あ、はい。水谷です。はじめまして」
立ち上がって挨拶をする。
予想はできたことだが、この会場は一方的に僕を知っているひとが多い。
「そっかぁ。こんなに大きくなったのね。私はあなたのお母さまと明仙学園で同級だった、池浦瑞玖です」
母の同級生?
それも口ぶりからして、これは赤ん坊のころの僕を知っているタイプの知り合いだ。
逃げ出したくなる。
が、次の言葉でその気持ちが吹き飛んだ。
「知ってるかな。私、池のミミズクって名前でマンガ書いてるのよ」
なんだって!
「……。ということは、穂村ソラは」
「そう。私のデビュー作。嬉しいな。知ってくれているのね」
なんだこれ。
頭が回らない。
大ファンの作品の作者が目の前にいて、しかも母の同級生だという。
「……ねえ、大丈夫?」
僕は完全に動きが止まっていたらしい。
心配そうに、大先生がこちらを見ている。
「あ、はい。すみません。あの、これ……」
僕はカバンを開けて、ビニール袋に包んだ一冊の本を引っ張りだした。
先日古書店でようやく手に入れた『熾天使少女穂村ソラ』の第一巻の初版本だ。
今日会えるかもしれないと思って、必死になって探した。
「サインください。ファンなんです」
「まあ!」
池のミミズク先生は、目を見開いて手をパンと叩き、楽しそうに笑った。