椎名町の会議室
椎名町の改札を抜けた。
西武池袋線の線路沿いに歩いて五分ほどのところに、約束のビルはある。
僕は走った。
スーツ姿で走るのはちょっと恥ずかしいが、遅刻している以上走るのが、僕の主義だ。
「津都様、走ったところで一分も縮まりませんよ。労力の無駄です」
右耳にピンポイントボイスで、フェアリーのエリスが的確なアドバイスをしてくれるが、無視する。
よく晴れている。エリスの情報ではこの先一週間雨が降らないらしい。
全く東京というのは変なところだ。
故郷の福岡では今年は四月に入ってから三日おきに雨が降っていると母が昨日も言っていたし、それが日本の一般的な春だと思うのだけれど、なぜか関東南部だけ低気圧がよけていく。
乾いた道の上を、奇異の目で見る人々をかわして走り、ほどなく外装こそ新しいが作りは古そうなビルの前に立った。
エリスの見せてくれた参考画像通りの建物だ。
入口のガラスドアが自動で開く。
「会議室チェックイン完了しました。三階、三〇二号室です」
エリスがビルのシステムとの交信結果を報告する。
「わかった」
右の観葉植物の並びの陰に階段を見つけて駆け上がる。
「津都様、エレベーターがございます」
「いいの」
勢いにまかせて三階まで一気に駆け上がると、三〇二号室は目の前だった。
息を整えて、ノックしようと右手を挙げた瞬間に、ドアが内側に開いた。
「やあ、遅刻さんの到着だ」
妙に明るい声で歓迎してくれたのは、黒髪短髪の割と体格のいい男だった。
「す、すみません。遅くなりました」
「いいよ。入って。君を待っていたんだ」
男は横によけてくれる。
白い壁に囲まれ、長机がコの字にあり、パイプいすがそこに六つセットされた部屋には、ドアの男の他に男が一人と女が二人いた。
三人とも立ち上がってこちらを興味深そうに見ている。
「挨拶ですよ」
状況を察して、エリスが耳元でささやく。
「えっと、初めまして。FmN339n082の水谷津都です。よろしくお願いします」
「おー、お前がフムンかあ。俺はNnZ421a151の小竹由人だ。よろしくな」
イスに足を取られながらもう一人のほうの男が手を伸ばしてきた。とりあえず、握手する。 四月というのにもう淡い黄色の半袖シャツを着ている。栗色に染めた髪の毛をきれいに分けていて、真面目キャラなのかアクティブなキャラなのかつかみづらい。
と、いうより。
「フムンですか?」
「ハンドルネームって呼びづらいからなあ。俺は、ほら、ヌーズで通してるよ」
ハンドルネームは、システム登録時にランダムにアルファベット四文字と数値六桁を使ってシステム側が勝手に決定してしまうので、確かに覚えづらいし呼びづらい。
しかも、毎年誕生日に数値部分だけ更新される。
自分でも時々間違えるからエリスのようなフェアリーがいないと困る。
だからといって愛称を勝手につけられるのは好きじゃない。
「僕はCgP413s932の長崎統太だ。こいつ、さっきから僕をシグプスと呼びたがるんだ。困るよな」
ドアを開けてくれた体格のいい男が、僕の困惑に同意してきた。
「ですね。名前で呼んでください」
「そうか?いいと思うんだが」
ヌーズ小竹さんは少し不満げだ。
「えーと、いいかな?」
少し低い澄んだ声でショートボブの黒髪の女性が割り込んできた。
「あ、どうぞ」
僕は女性二人のほうに向きなおった。
「私はBgL982i458の許斐藍です。そしてこちらが」
「AeU333y512の千川未奈萌です。よろしくお願いします」
小柄で黒髪を胸の両側まで垂らしている女性がちょこんと頭を下げる。
「よろしくね」
ショートボブの許斐さんも、こちらは元気よく、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
俺もつられて頭を下げた。
ふと、耳のそばを風が通って、部屋の隅の大きな葉の観葉植物を揺らす。
目をやると窓から午後の陽光が差し込んでいる。が、ガラスの向こうには隣のビルの壁しか見えない。
「スーツなんですね」
千川さんが小さく笑いながら指摘する。
「すみません。打ち合わせがあったもので」
「営業ですか。大変ですね」
「まあ、そんなところです」
「水谷さん、顔は絵に描いたような技術系って感じなのに」
そうだろうか。刈り上げた黒髪に縁なしメガネだから?
それとも筋肉も脂肪もない体が頼りない感じだということだろうか。
いや、彼女の中で技術系は営業をしないものなのか?
「さて、挨拶も済んだところで席につこうじゃないか。早速会議だ」
長崎さんがよく通る声で促して、それぞれが席につこうとした。
「その前に、水谷さん。フェアリーを使ってますよね。切ってくれます?」
許斐さんの柔らかいがきっぱりとした声が響いた。
「あ、はい?」
気圧されてどもる。
「許斐さん、厳しいんだよ」
小竹さんが少し不服そうに言う。どうやらすでに切らされたらしい。
「ルールですから」
たしかに、会議中は録音録画の可能な機器は切ることになっている。しかし。
「記録はしないようにしますけど?」
「それを信じろと?」
有無を言わさない様子だ。
「わかりました」
規則である以上、ここは素直に従ったほうがいいだろう。
「エリス、ここに」
「はい」
僕の呼びかけにエリスの声がして、右肩のパッドが軽く振動した。
肩の上にミストが放出され、半透明のフェアリーが姿を現す。
身長十五センチで五頭身の3DCGだ。紫の髪にグレーのスーツで、目の位置には布を巻いている。
「エリスでございます。よろしくお願いします」
エリスが挨拶をした。
「立体映像つきって、すごいんですね。実物を初めてみました」
千川さんが興味深そうにしげしげとエリスを見る。
「この姿でいられるのは三分だけです」
エリスの返答はいつも丁寧だ。
「だいぶ、稼いでいるんだな」
長崎さんがひやかしてくる。
「そんなでもないですよ」
一昨年の技術デモを見て以来、これを買うことを目標にして貯金をし、昨年末の発売と同時に手に入れた。僕にとってエリスは、稼ぎの額などとは別の存在だ。
「目隠しをしているんですね」
「はい。フェアリーは皆様のプライバシーを保護するため映像を取得することを禁じられておりますから」
千川さんの言葉にエリスが滑らかに答える。
「規則をキャラの設定にしたわけか」
小竹さんが頷いた。
僕は許斐さんの冷やかな視線に気づいて、エリスに命じた。
「エリス、電源オフだ」
「わかりました。皆様またお目にかかります」
エリスはお辞儀をすると姿を消し、終了音がかすかに鳴った。
「切りました」
「じゃ、始めよっか」
許斐さんが左手をひらりとひるがえすようにして席についた。