五月三日
休日夕方の東京駅構内は思ったほどは混雑していなかった。
世紀からのメッセージによれば、奴の乗ったこだまが着くまではまだ二十分くらいあるので、改札を出てグランルーフに上がってみる。
このテラスは気持ちの良い場所だが、目の前が再開発工事の真っ最中で眺めが良いとは言い難いだけに、人影は多くない。
あの弟君は途中、伊豆に寄ったのだそうだ。
お目当てのライブ自体は明日で、明後日の朝帰るという。二泊三日で連休を満喫するつもりらしい。
こっちの予定はどうしてくれると思う。まあ、別に僕に用事があるわけではないからいいが。
奴は昔からそういう勝手なところがある。どこの弟もそういうものだろうか。
それにしても、と思い返す。
結局僕は、この連休の前半を考え事で埋めることになってしまった。
それはおそらく、あの昼食会で、別れ際に独さんが「うちの馬鹿娘達が言うことを、真に受けないでくださいよ」と言い、馬鹿呼ばわりされたお嬢様姉妹がムッとしたところに、要さんが独さんに抱き着くようにしたあたりからはじまる。
独さんが付け加えるように、「この要もまたご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」と口にしたとき、すでに僕はエリスに起動を許可していた。
それで、部屋に帰ってみると、要さんの部屋との間にミーミの特定接続が設定されていたのである。
特定接続では、接続開始時から自動的に周囲のフェアリーなどが休止状態になって周囲の電子ロックもオンになり通信の存在自体も秘匿化され、完全にプライバシーが守られる。恋人や夫婦の会話などの極めてデリケートな会話を守るために作られた接続モードだが、こうした接続は未成年者に対する犯罪などに利用される危険性もあるということで、通常はAIによる審査が入るようになっていて簡単に設定できない。
それが設定されたということは、フェアリー間で相当な高度な信認が交わされたということになる。
これまで勝手に部屋に上がってくることはあっても、特定接続まではしてこなかった要さんが、この日になってそれを行ったということは、信認作業があの瞬間に行われたので可能になったとみるのが自然だろう。
そしてもし、あの会食自体がその信認を得るために必要な条件をすべてクリアするための計算されつくした作戦だったとすれば、それを立案する動機があるのは要さん以外にはあり得ない。アイナさんがAIとして持てる知識のすべてを動員して助言していることを考慮したとしても、小学生にして恐るべき計略家ぶりだ。
その巧みな計略で手に入れた秘匿回線の先で、ピンク色の模様の入った可愛らしい部屋着姿の少女は少しためらったが、意を決したように打ち明けて来た。
「私、6月に佐山要になるの」
姓が変わる、ということは?
「え?養子にいくの?」
「そう、ね。というか、佐山というのは迦未子ママの実家なのよ」
要さんの説明によれば、地元の素封家として知られる佐山家には、一人娘だった要さんの母、佐山迦未子のほかに跡継ぎがおらず、存続の危機にさらされているという。
有久保家と佐山家の間には、そのため、迦未子さんが産んだ最初の子を佐山家に戻すという約束が、迦未子さんと有久保独さんの兄の列さんが許婚になったときに決められていたらしい。
その約束が引き継がれ、要さんは生まれたときに、10歳になったら佐山家に養子に入ると決められていた。
要さんはすでに10歳だが、まだ有久保要のままなのは、要さん本人が抵抗していたからだという。
「でも、6月には私も誕生日が来て、11歳になるわけ。いつまでも子供みたいなこと言ってられないかなと思って」
いや、11歳はまだ子供でいいと思いますよ。
「それは無理に聞き分けなくてもいいことだと思うけど」
「そうね。でも私、佐山のおじい様のことは大好きだし、住むところ自体も多分変わらないはずで、千早ママとはもともと姓がちがうわけだから、名前以外は今となにも変わらないわけ。問題ないでしょと言われればその通りなのよね」
少女は少し俯いて、髪をいじりながらわざとのようにぞんざいな口調で言った。
「でもね。やっぱりどうかと思う」
「そうだよ。それは大人の都合の押しつけだよ」
僕の言葉に、うつむいたまま、かすかに首を振る
「だよね。麗さんも命ちゃんもママたちもみんな、いつもそうなのよ。私の誕生も良い話風に言ってたけど、ホントは全部、家の都合なんじゃないかと思うわ」
乱暴に放られた言葉だったが、そこにはかすかな願いのようなものが感じられた。うっかりしたことは言えない。
「みんなが要さんに生まれて来てほしいと望んでたというのは、本当だと思うよ」
僕は慎重に言葉を選んだ。
「そうかな。本当にそう思う?」
少女が顔を上げた。目が合う。
見つめ返した。
「思うよ」
要さんは、しばらく僕の顔を確かめるように見つめていたが、ふっと息をついて表情を緩めた。
「ありがと。私、ずっとこの話を誰かに聴いて欲しかったの。で、水谷さんのことを知って、聴いてもらうなら水谷さんがいいと思ったんだ」
「なぜ、僕だと?」
「私に近いから」
「近い?」
意外な言葉に、声が裏返りそうになる。
「うん。近いの。とんでもない人たちに振り回される人生という意味で」
「いや、僕はそんなこと……」
「きっと、今にわかるよ」
要さんの口の端に変な笑みが浮かんだ。
その意味を追及したくなくて話題をそらす。
「それにしても、良く決断したね」
「私ね。とんでもないとは思っていても、あの人たちを嫌いじゃないんだ。凄く辛い思いをたくさんしてるのに、それでも前に進もうとがんばっているのを知ってるから」
「辛いって?」
「そうね。例えば、……」
遠くを見るような目をした。
「……うーん。命ちゃんの部屋に行ったでしょ。机の上に写真立てがなかった?」
「そういえば、あったよ」
温室のような部屋の巨大な机を思い返す。確かに、小さな写真立てだけが机の上に置かれていた。
「見た?」
「いや」
「あれは命ちゃんたちのお友達の写真なのよ」
「それって、まさか……」
「うん。亡くなったそうよ。撃たれて」
「そんな、……」
「坂崎さんがね。すごく悔しがって、それで相手の組織を壊滅させたとかいう話だけど、もう、後の祭りよね」
「……」
「でもね、みんな止まらないんだ。えっとね。水谷さんと初めてあったとき、私たちはある国の関係者とお食事をした帰りだったの。その国にウタヒメシステムが入った記念のね。これで、いつかの約束に一つ近づいたって、命さん、喜んでた」
また要さんが大人びた微笑みを浮かべる。
「そんなわけでね。本当に迷惑な人たちだけど、仕方ないかなって、思うの」
僕は何を言ったらいいかわからなかった。
その時、ミーミの向こうからチャイム音が聞こえた。
「あ、ごめん。千早ママだ。またね」
要さんが手を振ると通信は途切れた。
それ以来、通信は来ていない。
そんなことがあって、僕は考え込まずにはいられなかったわけだ。
有久保が背負っているものとは一体なんだ?それをあんな小さな子にまで背負わせていいのか?
といっても、僕に何ができるだろう。部外者なのに。
いや、そうとも言い切れないのかもしれない。「私に近い」という要さんの言葉が気になる。
でも、どういうことだろう。僕にも同じことが起きるというのだろうか。でも、何が?
こうして考えていくが、情報が少なすぎてこの辺で考えは迷宮に入っていく。
ただ、自分が前提とするべき何かから目をそらしてしまっていることも頭のどこかで気がついていた。
「おーい。兄さん?」
突然背後から声をかけられて振り返ると、世紀が立っていた。
「えっ!」
「津都様、弟様です」
エリスが一呼吸遅れてアテンドする。
「遅い!」
「申し訳ございません。そういう趣向もよろしいかと考えまして」
なぜフェアリーが趣向を考える必要がある?
「ずいぶん、変わったフェアリーだね」
エリスがピンポイントボイスではなかったので、聞こえていた世紀がクスクス笑う。
「おかげ様でな」
そう言ってもまだ笑っていたので、尋ねてみた。
「伊豆はどうだった?」
「んー、ソロイルのプラントが見えるかと思ったんだけど、無理だった」
「あたりまえだ!」
また、とんでもないことを考える奴だ。
確かに、ソロイルは太陽による油という語源のとおり、海水と二酸化炭素を材料に蟻酸やアンモニアなどを人工光合成で生成して有機粘性流体に固定化したものだから、生産プラントは強烈な太陽光が年間を通して期待できる南方の排他的経済水域に設置されることが多い。
ちなみに、南の海に広大な排他的経済水域を持つ日本はこの技術が確立してからのこの十年たらずで、ソロイルだけで国内エネルギー需要の半分以上を賄うまでになり、石油などの輸入は激減した。それは他のいくつかの国でも起きていて、そうした変化がかつての産油国を財政破綻させる結果となり、僕らがユースギルドで話し合っているような人々を生み出す遠因ともなっている。
といっても、石油販売の収入にあぐらをかいてこれまで改革を怠ってきたつけなのだから、そこに僕らが罪悪感を感じることはない。少なくとも僕は感じない。ただ僕は、困っている人々がいるならアイディアを提供したいと考えているだけだ。
話を戻すが、ソロイルのプラントは大半が小笠原諸島西方沖数十キロ付近に置かれており、伊豆から見えるはずもない。
しかも、プラントと言っても直径1メートルほどの樹脂のボールが海面すれすれに何百万と浮かんでいる区域が、南北数百キロの範囲に散在しているだけであり、海上に見えているのはそれらを繋ぎ止めている筏と区域を示すブイくらいだ。おそらく小笠原諸島まで行ったとしても、岸からだとプラントの監視とソロイルの回収を行う作業船くらいしか見えない。
「でも、タンカーは何隻か見たよ。後、光伝送台も見た」
光伝送台は視認できる範囲の離島との高速光対抗通信を行う施設だ。光伝送装置の周囲をジャイロミル型風車の羽が回っていて、必要な電力を賄う一方で海鳥が通信の邪魔にならないように設計されている。
波による動きを自動追尾する海上設置型が最近開発され、視認できないほど遠い島へもリレーすることで伝送できるようになったというから、それをプラントへの通信に使っているのだろうか。
ちなみに、よくある質問として「自身の回転翼が邪魔で通信出来ないのでは?」というものがあるが、回転翼が装置の前を横切るタイミングは計算できるうえ、通信装置は三機セットで補完しあうように運用されるので問題ない。
「そんなものを見にわざわざ伊豆まで行ったのか?」
光伝送台だけなら、福岡にもある。
「いやいや。天気も良くて、風も気持ちいい。景色も最高。そういうのも含めて、観光しに行ったんだよ」
お気楽なことだ。
「そんなふうに一人で観光を愉しめる弟君が、なんで駅まで兄を迎えに来させてるんだ?」
「えー?地元民ならではの視点で街をアテンドしてもらうのも、旅の良さじゃない?」
やれやれ。
「まだ、僕はこっちに来て一月だ」
「そんなこと言わないで案内してよ」
「いいから、部屋に行くぞ」
「せめて晩ご飯だけでもこのへんで食べようよ」
「食べもの屋なんて知らん」
こいつと一緒にいると、だいたいいつもこういう押し問答になる。
「仕様がないなあ。菜々さん?」
世紀は自分のフェアリーを呼び出した。
「はい」
肩の上に現れたフェアリーの姿は、一月前のイベントでの花崎菜々として配信されていた写真そのものの姿だった。しかし、それがフェアリーの仕様として目隠しをしているため、妙な背徳感がある。
「ご飯屋さん、あります?」
「ここから五分ほどの刺し身定食を出すお店に空席があるようですが、いかがでしょう?」
「津都君、どう?」
「そんなところ高いんじゃ?」
「そんなことはありません」
また、エリスが差出口をする。
こいつはまったく。
「じゃ、いいね。菜々さん、お願いします」
「了解です。十分後の予約をお取りしました」
「津都くん、有久保の人たちと食事したんだって?」
世紀は刺身ごとご飯をかきこむ。
あまり見た目のよい食べ方ではない。
「まあな」
僕もやってるかもしれない。気を付けよう。
「じゃあ。クラタのライディングサービスの話、聞いたんじゃない?」
「少しだけ聞いた」
味噌汁が結構美味しい。
「認定道路の保守に貢献することでサービス価格を下げるってのは考えたよねえ」
確かに、それはそう思う。
認定道路というのは、自動運転車が走行しても問題が起きにくいと各公安委員会が認定する道路だ。一般の自動運転車は当面の間、この認定道路しか通行できない。今回の法律で設定されることが決まった。
人間ですら判断を間違える可能性のある道路が多数あるなかで、AIたちが判断を間違えないことを期待するのは無理だ。
ただ、運転するのが人間であれば間違えた人間を罰すればよかったが、AIの場合は処罰感情の持っていき先が難しくなる。
だから、間違いが起きないことを事前に確認した道路しか通行できないことにするわけだ。
一方でこの規定には、認定を行う公安委員会の負担が重くなり、認定が進まない可能性が高いとする反対意見もあった。
クラタは、その道路の認定や認定道路に問題が起きていないかをチェックすることに寄与し、認定を一気に推し進めるようというわけだ。
もちろん認定の後押しするだけが目的ではない。少し前から法人には法人税ではなく、規模に応じた公共インフラ利用料が課せられるようになったが、これには社会貢献活動による減額があり、補助金まで合わせて考えれば、貢献の質と量によっては事実上無料にできる。クラタも道路建設への貢献などの様々な貢献を行って、電気水道などの利用料から社員の通勤に対する課金まで、多くの負担を免れてきている。
今回の計画でも、貢献によって新会社の一般道路通行料やエネルギー利用料の減額が期待できるとされていた。
これについてはすでに、企業秘密にかかわるような問題などで先行して実施されることのある機密百人投票が行われており、事業預託が妥当という結論が得られているそうだ。
「そのへんは僕もニュースで知ったよ」
「そうなんだ」
世紀は大根の千切りを頬張りながら言った。