指導と出社
腕をつかむ許斐さんの力は強い。
遠慮がなくて乱暴だ。
女性に腕をつかまれる経験は何度かあるが、こんなにときめかないのは初めてだ。
会議室を出てエレベーターで降り、同じ建物の二階の隅のコーヒーショップに連れ込まれる。
途中何度か抗議しようとはしたのだけど、そのたびに睨まれると、どうにも逆らえなかった。
「カフェラテ二つ、ホットで」
許斐さんは店員に素早く注文を出し、僕は窓際の4人掛けの席に押し込まれた。
店内は平日午前のためか、人が少ない。
「あの、許斐さん?」
「いい?金持ちと知り合いということを公にすると、あまりいいことないわよ。そう習わなかったの?」
許斐さんはここでも一方的だ。
「いや、自分でもそんな知り合いがいるなんて知らなかったくらいで」
「君が言いふらしたわけじゃないのは話の流れで理解してたわ。でも気をつけて。千川さんは悪い子ではないけれど、彼女のようなタイプは自分の信じる高尚な目的を達成するためには手段を選ばない可能性が高いのよ」
そう言われても困ってしまう。
僕には何もしてあげられないと、千川さんに説明してわかってもらうくらいしかない。
そう言ってみたのだが、許斐さんはため息まじりに否定した。
「正面から『金を出せ』と言ってくるわけがないでしょ。強盗じゃないんだから。君に取り入って君が身動きできないくらいに人間関係で縛って、そして君を足場に有久保家に入り込む、くらいのことは考えておかないとだめよ」
人間関係で縛るってどんなことだろう。
呆然としていると、カフェラテが来た。
というか、たまたま僕はカフェラテが好きだが、コーヒーがダメだったりしたらどうするつもりだったのか。
「何を妄想しているか知らないけど」
許斐さんはカップに口をつけてから、怜悧な瞳でこちらを見据えた。
「私は、君の発想力に感心したのよ。それをつまらない人間関係で曇らせてほしくないの。下手に関われば、最低でも数年、もしかすると一生を棒に振ることになるわ。そうなれば、それは社会にたいする重大な損失よ」
「いや、そんな大げさな。僕なんかのことで……」
いくらなんでも大げさだと笑顔をつくって訴えるが、遮られる。
「ふざけないで。社会を支えるのは人よ。でも、誰にでもできるわけではない。能力と運が必要だわ。私は、君にはその能力の片鱗があると思う。でも、運をつかむには細心の注意が必要よ。少しのトラブルがそれを妨げる。だから」
許斐さんはここまで言うと、カフェラテを一息に半分飲んで、一緒に運ばれてきていた一粒のチョコを口に放り込んだ。
噛み砕いてカフェラテで流し込んでから、続ける。
「気をつけて。千川さんと小竹さんに何を言われても、言質を与えないようにのらりくらりと会話してね」
「小竹さんも、ですか?」
「当然でしょ。君のことを話して回る人だもの。また余計な人物を引っ張り込むに違いないわ」
小竹さんにしてみれば、悪気があってのことではないのかもしれないというのに、あまりにきつい言い方だ。
そんな反感が僕の顔には出ていたのだろう。
残りのカフェラテを飲み干した許斐さんは、にっこりと笑って言った。
「彼に寄せる君の友情は尊いけど、現実はきついものよ。というわけで、私の教育的指導は終わり」
許斐さんはバックをつかんで立ち上がった。
「指導料はここの払いでいいわ。じゃあ、あとよろしくね。いい休暇を」
そう言い残すと、風のように出て行った。
僕はしばらく、まだ手もつけてないカフェラテと、許斐さんの姿が消えた戸口とを見比べていたが、店員が興味深そうに見ているのに気がついて、とりあえずチョコを口に入れた。
店を出ると出社時間まで30分ちょっとしかなかった。
これでは本社までたどり着くのは無理かもしれない。
許斐さんの勝手な指導のおかげで計画が狂った。
「エリス。出社を間に合わせたいけど、方法はある?」
「そのことですが、すでに社のシステムと交渉をしております。先方から得られた選択肢のうちでは、この先のレンタルオフィスを利用するのが最適でしょう」
エリスが指示したのは二つ先のビルだった。
エントランスホールを入ると、ガイド音声が耳元に響いた。
「ご利用ありがとうございます。水谷様のお部屋は七階です。一番左のエレベーターにお乗りください」
七階につくと、またガイド音声が耳元で囁く。
「奥から三番目の右のお部屋です」
通路の両側にドアが等間隔に並ぶ様子はどこのパーソナルタイプのレンタルオフィスも変わらないが、ここはふかふかした絨毯に重厚感のある壁、木目調のドア、と少々気後れするほどだ。経費の使い過ぎで怒られないだろうか。
指定されたドアには「JJLS社 水谷様」の文字が浮き出ており、僕が前に立つとロックが解除された。
ドアを開けて入ると、そこは小さなソファが自然な白色光で照らされている三畳ほどのスペースだった。奥に扉があり、右側の壁には小さなカウンターがある。
ずいぶんと立派な待機スペースだ。
カウンターの中に女性が立つのが見えて一瞬、はっとする。
「おはようございます、水谷さん」
お辞儀をしたのは、JJLS社が契約を結んでいる女性タレントの河野くりかの3D映像だった。
つまりはエージェントだ。完全再現のようだが映像に違和感がある。
「XR用メガネをかけてくださいますか?」
言われて、自分が専用メガネをかけていないのに気が付いた。あわててカバンから取り出してかけると、くりかの姿がきちんと立体になって見えた。
このXR型映像システム自体は、もちろん、以前から知っていたが、個人で使うには高価なだけに、実際に利用したのはJJLSに入社してからだ。
半月前に初めて使ったときには感動した。今でもまだ、ちょっと驚いてしまう。
基本的には、いつも使っているミーミに映像と音声のリアルタイム編集機能がついただけなのだが、受ける印象が全く異なる。
ポイントはメガネだ。実は、レンズなどは全く入っておらず、両目の正確な位置と視線の向きを検知して送信する機能しか持っていない。
機器本体が、空間内にあるメガネからの情報をもとに、専用の壁に投影される映像と耳に届く音をリアルタイムで修正して現実感を作り出すという仕組みだ。映像や音の質によらず受けとる現実感は高く、相手が目の前に実際にいるかのように感じられる。
もっとも、この施設は映像の画質もよいので、白シャツと黒スカート姿のくりかが目のやり場に困るほど生々しい。
XRはゴーグル型のVRと違って相手との距離がどうしてもできるが、打ち合わせや会議程度の関わり方しかしないのであればあまり近づく必要もないし、そもそもゴーグルをつけたまま何十分も作業をするのは困難であることを思えば、それは欠点とはいえない。
また、性質上、一つの映像空間に入ることができるのは一人だけに制限されるため、大きめの専用のスペースが必要であり、映像投影機器などの値段も含めると、どうしても価格が高くなるという問題もある。しかしゴーグルをつけてフラフラと動き回ることを考えれば、自分の目で周囲が確認できるこちらの方がはるかに安全だ。
XRを利用したパーソナルタイプのレンタルオフィスは、そういう利点が認識され始めた昨年あたりから急激に増えたということで、この施設のような高級なタイプがあるということは、すでに差別化による競争が始まっているということだろう。
「まだ、二十分ほどありますが、出社されますか?」
くりかのアテンドに少し考えてから答える。
「ちょっと一息いれます」
いろいろとあったので、気分転換が必要だろう。
それにしても、このエージェントの喋りはかなり自然だ。最新型はここまで来ているのか。
「わかりました」
くりかは笑顔でうなずいた。しかも音声が笑顔に合わせた声音になっている。
これは、すごい。
カバンを置いてソファに腰を降ろすと、照明が切り替わり背後の壁に明るい高原の風景が映し出された。鳥の声も聞こえてくる。
まるでそこに窓があって外を眺めているかのようだ。
「ありがとうございます。これはどこの風景ですか?」
「どういたしまして。霧島高原の現在の映像です。お湯が沸いてますがお茶でもお飲みになりませんか?」
「あ、飲みます」
立ち上がって、紙コップにティーバッグを入れてお湯を注ぐ。流石にそこは自分でやるしかない。
そのうちロボットが発売されたら、こういうこともやってもらえるようになるのだろうか。
でも、と、僕はアイナさんの姿を思い出していた。
それは自分でやった方が気が楽かもしれない。
「手慣れていらっしゃいますね。お一人暮らしなんですか?」
ずいぶんと話しかけてくるエージェントだ。そもそも、お茶を入れるくらいで手慣れるもなにもないだろうに。
「最近一人暮らしを始めたばかりですけど、家事は前からしてましたから」
「そうでしたか。それでは、お寂しいでしょう?」
「いえ、そうでも。それに一人の方が落ち着きます」
そう言いながら、どうも一人暮らしの気がしない自分の部屋の現状を思い浮かべる。
さすがにこちらの想いまでエージェントが気がつくはずもなく、彼女はくすくすと笑った。
自然な笑い声だ。
「お若いのにそんなことを。じゃあ、私も奥に引っ込んでいた方がいいですか?」
「構わないですよ。エージェントさんは人間ではないですし」
「あら、ひどい。私のような存在と結婚なさる方もいらっしゃいますよ」
エージェントはそういうとまた笑った。
もちろん、結婚といっても当人たちがそう主張しているだけなのだが、今はそういうニーズに応じて式を挙げるサービスもあるという。
確かに、こういう具合に変な気を使うことなく話ができるのだから、連れ添う相手としてエージェントやフェアリーはある意味でこの上ない存在と言えるだろう。実際、このエージェントもセリフのところどころに感情が乗っていない部分があって、気にはなるが、すでに話し相手としては完璧と言っていい。その上、身の回りのこともどんどんと出来るようになってきている。
僕も人間関係に絶望するようなことがあれば、エージェントと結婚したいと願うのかもしれない。
お茶を飲み終わると規定の時間の十分前だった。
「出社します」
立ち上がってカップをゴミ箱に投げ込む。
「わかりました。準備は出来ています。どうぞ」
アテンドを受けて、奥の部屋のドアを開ける。
大きな窓のある六畳ほどの部屋で、机と椅子が一組あり、左右の壁にはそれぞれ数人の人が机に向かっている様子が映っている。
「おはようございます」
挨拶をするとそれぞれが、
「おはよ」「おはよう」「よう!」と返してくれる。
左側の4人は本社のオフィスの人たちだ。
実際のオフィスとは若干配置が異なっているのは、3D化のついでに映像システムがレイアウトの編集をしているからだろう。
僕の机も見切れて映っているが、どの机もこの部屋の机よりは小さいので、恐縮してしまう。
ただ、先輩方は慣れているようで全く気にする様子もない。
一方、右側は、他のサテライトオフィスから接続している人たちだ。表示アイコンからすると手前の先崎さんが石川、その隣の田中さんが和歌山、奥の溝上さんが福岡だ。溝上さんはいつもは横浜だから、出張先からの接続だろうか。
こちら側も映像に編集が入っているけれど、机や部屋の大きさがまちまちのは見て取れる。
確かに、これではいちいちサテライトオフィスの大きさを気にしたりなどしていられない。
自分の机に近づくと、アプリケーションや書類などが前回退社したときのままの状態で表示された。
メールが数件届いているようだ。
椅子に座ってメールチェックをしようとしたところで、後ろからノックの音がした。
振り返るとドアの右隣に入り口のような映像が映っていて、そこにリーダーの榎本さんが立っている。
「おはようございます」
挨拶をしながら傍まで行く。
「おはよう、水谷。今日は何時までいいんだ?」
「はい。16時から大学のスクーリングがありますので、15時には失礼します」
「わかった。これなんだが」
榎本さんはシートを僕に示した。シートに表示されているのと同じものが横の壁にも表示される。
グループで先週初めに相手先へ提案していた自動運転車用センサーの技術案だ。
「この部分が、先行の特許にかかるらしい。さらに、この形状ではコストがかかりすぎるとの指摘も来た。現在メンバー全員に検討してもらっている。君にも検討をお願いしたい。14時からミーティングを行うから、それまでにアイディアをまとめておいてくれ。いいかい?」
「わかりました」
「じゃあ、頼んだよ」
榎本さんは、うなずくと行ってしまった。
と、そこに入れ替わりで、経理担当の時田さんが現れる。
「いいところから出社しているみたいね」
今時珍しい、ひっつめ髪に地味な事務服という絵に描いたような中年女子社員だが、実はこの人は男性だ。
この部署で女性は榎本さんと溝上さんだけである。
「すみません。やっぱり、まずいですよね」
「あ、いいのいいの。そこも含めた包括での契約をしてるから、使用料は一緒なの。たまたま君がいいところを引き当てたってだけなのよ」
「そうなんですか?」
「そ、そ。ところで給与明細をフォルダに入れておいたから、よろしくね」
時田さんはそう言ってにっこり笑うと、手を振りながら去っていった。
いろいろと謎の人だ。
もちろん給与明細の通知なんかに人手を要する必要はないはずで、この会社は政府の提供している標準事務管理システムを活用しているから、そもそも経理などの事務自体にかかる人手がかなり小さいはずだ。実際のところ、時田さんは一体どんな仕事をしているのだろう。
おまけに毎回居場所が違っていて、今日の接続元は札幌になっていた。
一度、榎本さんに尋ねたことがあるが、「気にするな」と笑うだけで教えてくれなかった。
そんなことってあるだろうか?
しかし、今はそんなことに頭を悩ませている場合ではない。
指摘を受けた問題点について、まずは詳細の読み込みからはじめよう。
僕は大きく息をついてから、机に向かった。