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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

こくはく

作者: 増村有紀

「小野木先輩。私、あの、ずっと先輩のことが……」

 そう言って俯いた私の顔は、熟れた果実のように赤かっただろう。

 憧れの、理想の、もし男性だったらこうありたいと願う、先輩の気配を感じる。

 とても近くに、ひたひたと感じる。

 私は顔をあげようとして、そして。


「夢、だよね」


 あはははは。ベッドから降りて私は笑いを堪えられなかった。たんぽぽ色のパジャマを脱ぎ捨て、制服に着替える。

 あるわけないよねー。小野木先輩が私のことを気に留めたりする筈がない。


 春爛漫の入学式、遅刻しそうな私が落とした学生証を拾ってくれた。ただ、それだけの縁で、私は恋に落ちた。初恋とはままならないものだ。


 パンを銜えて、髪を結う。部活にはどこにも所属していない。だから今日は、なんだかゆっくり帰りたい気分になっていた。

 放課後、景色が飴色に染まる中、私は普段曲がらない道を辿った。なんとなく気が向いたのだ。長い影が伸びた先に、今まで気づかなかった、小さなお店があった。


「なにこれ、駄菓子? 文房具?」


 こういう小ぢんまりした店を見るのは大好きだ。私は小さな扉をくぐって見知らぬ世界に飛び込んだ。店の奥にカウンターらしき場所があり、そこでお婆さんがこくりこくりと舟を漕いでいた。


「へえ、何でも揃っているね。学校に近いし、結構便利かも」


 私はこの店が好きになった。埃をかぶった古臭いところも、アンティークな雰囲気も、私には反って好ましく感じられる。

「引き寄せられたね」

 転寝をしていたと思っていたお婆さんが、店をうろつく私に気づいてか、伸びをした。

「あんたの探しものは、そこにあるよ」

「え?」

 振り返ると、消しゴムの箱。埃を払うと見覚えのない洒落たデザインの可愛い消しゴムだった。魔法陣のような凝ったデザインの模様がとても気に入った。


 そうだ、私は消しゴムを探していたのだった。

 昨日、クラスメイトから聞いたのだ。好きな人の名前を消しゴムに書きこんで、誰にも貸さずに使い切ると、思いがかなうって、おまじない。

 私は、おまじない専用の消しゴムが欲しかった。神秘的な模様で書きこみづらそうではあったけれど、この消しゴムなら効き目もありそうに思えた。


「これ下さい」

 気が付くと、お婆さんに小銭を渡していた。消しゴムは小さな紙包みに入れられ、私のポケットへ。

「大事に大事に、肌身離さず持ち歩くんだよ。そうすれば、思いはきっとかなうさ」

 見透かされたようにお婆さんに言われて、私はふと、あの夢を思い出してどきどきした。



 帰宅後。早速、先輩の名前を新しい消しゴムに書いた。


 小野木利篤


 文武両道で、女子にも優しくて、人気の高い先輩。

 卒業を控えている上、受験もある。遠くから見ているだけの時間はあまり残されていない。


 小野木 利篤


 消えないように、マジックでも上書きした。

 遠くで何かが吠える音がした。

「やだ、夜遅いのに。吠え癖のある犬って嫌いよ」

 私はカーテンを閉めた。



 翌日から早速おまじないを始めた。

 同じようなおまじないや、願掛けをしている女子は少なくない。私はお蔭で、誰にも見られずにあのレトロな消しゴムを使うことが出来た。


 消しかすは入念に集めて、見られないように、休み時間にゴミ箱へポイ。

 先輩の名前が書いてあると知れたら、クラスの女子の半分は敵に回してしまうだろう。あの模様できっと隠れると思うけど。


 先輩。


 消しゴムを使うと、先輩の気配が感じられる。いつか手が届きそうな、学年もクラスも超えたような、見えない繋がりを感じる。きっとこの消しゴムなら願いが叶う。

 私は、先輩に、告白できる。




 消しゴムを使って二週間くらいした頃。

 交通事故の話を聞いた。


 小野木先輩が、お年寄りを庇って、信号無視で突っ込んできたトラックに撥ねられたという報せだった。


 先輩のお見舞いに行きたかった。病院はわかったけれど、入り口で躊躇した。

 どこかで犬が吠える音がする。吠え癖のある犬は嫌いだってば。病院なのに、何を考えているの。


 結局、お見舞いの花を抱えたまま、私は帰路についた。

 渡せなかった。

 病院に入れなかった。

 会えなかった。

 悔しかった。


 部活や、学年や、クラスが同じらしい女子もいっぱい来ていて、大人のひともいっぱい来ていて、私の入る余地なんて無かった。

 とぼとぼ歩いて、思いついた。

 そうだ、先輩に手紙を書こう。



 夕食もそこそこに部屋に駆け込み、アンティークでレトロな感じのレターセットを引っ張り出す。これはとっておきの相手にしか使わないことに決めている。


 先輩へ


 書き始めて、シャーペンが止まった。


 先輩へ


 なんて書こう。なんて書いたらいいんだろう。


 はやく良くなってください。


 違う。こんな陳腐な言葉を伝えたいわけじゃない。けしけしけし。消しゴムがどんどん崩れていく。

 もう一度、レターセットを見直す。


 先輩へ

 大丈夫ですか。


 消す。大丈夫なわけないじゃない。入院しているんだから。トラックに撥ねられて大怪我をしたのだから。

 

 早く元気になってください。


 無理いうなっての。

 ああ、どうしよう。私、文才ない。消しゴムはどんどん擦り減って、レターセットの紙のきめが粗くなっていって、でも何の文字も書き足されることがない。


 なんでこんな。

 なんでこんな。


 ごしごし、ごしごし。

 うるさいな。今日も犬が吠えている。夜中だってば、わかっているの?

 カーテンを閉める。私は、半分以上擦り減った消しゴムを筆箱にしまった。



 夢を見る。

 病室で静かに眠っている先輩。パジャマの色はたんぽぽの色。


 ああ、これ、私の夢だ。パジャマの色を見ただけで分かった。私はこの色が大好きだ。だけど、先輩が好きな色を知らない。

 入院したこともないし、お見舞い経験もないから、入院患者さんが何色のパジャマを着るのかなんていうことも知らない。


 遠くで犬が吠えている。やだ、夢の中まであの声が響いているなんて。


 遠くで?


 いや、先輩の近くで。

 ベッドのすぐ下で。


 ぐるると唸るナニカが、先輩の足を食いちぎった。

 先輩は悲鳴をあげようとして、だけど、ひゅうひゅういう音しか口から出なくて。



 翌日の学校では、先輩の手術が失敗して下半身不随になったらしいって噂になっていた。

 でも、でも大丈夫! リハビリを頑張ればきっと回復するって先生は話していた。


 私は、今日こそお見舞いにいかないと、と感じていた。あんな夢を見た後で聞くにはつらい話だった。

 何も言えないかも知れないけれど、でもお見舞いの言葉くらいは言いたかった。


 その日の数学のテストは最悪で、私はケアレスミスを繰り返し、何度となくあのアンティークな消しゴムを解答用紙に走らせた。

 消しかすがどんどん、どんどん、たまっていって、気が付いたら小野木先輩の名前のほとんどがなくなって消えていた。


 消しゴムを使いつぶしたら、思いがかなう。

 そうしたら、先輩に告白するんだ。



 面会謝絶。


 ぶら下がっている札を見つめながら、勇気を出してここまで来た自分をほめるべきか、それとも愚弄するべきか、私は悩んでいた。


 面会謝絶。


 意味を飲み込むのに、時間がかかった。


 会えないのなら、やっぱり、手紙を届けるしかない。ほら、男女の関係はまず交換日記からっていうし!


 夕食を終えて部屋に駆け込んだ私は、レターセットを出して、再び頭の中で日本語をこねくり回す作業に入った。


 先輩、リハビリ頑張ってください。応援してます。


 こんな陳腐な言葉しか出てこない自分が情けない。そして、こんな陳腐な言葉を並べるのに、消しゴムがまた削れて、ぼろりと大きく割れたのが痛かった。


 本当に、心が、ぐさ、ってしたのだ。


 消しゴムが崩れて、割れてしまうことなんてそんなに珍しくないのに。ほら、いわゆる事務消しゴムとか、よく分解するじゃない?


 また犬が外で吠えている。うるさいな。カーテンを閉めているのに犬の声は徐々に近づいてきている。そんな気がして阿呆らしくなった。



 嫌な夢で目を覚まして、いつも通りに学校の支度。パンを銜えながら髪を整えていた自分が、最近では余裕をもって準備できていることに気づく。慣れてきた所為か、通学路が短い。急がなくても十分に間に合う。


「おはよう」

「おはよう、最近背が伸びた?」

「歩き方が男子みたいになったよね」

 クラスメイトとたわいのない会話。今まではぎりぎりセーフで駆け込んで、すぐにホームルームが始まっていたのに。


 起きる時間が変わったわけではない。なんとなく、足取りが軽いのだ。自分のもので無くなったように。


「小野木先輩の噂、聞いた?」

 また、なんだか嫌な予感がした。

「リハビリ中に転倒して、両腕を骨折したそうよ」

「えっ?」


 冷たい汗がじわじわと背中に広がるのを感じた。夢の中で見えない犬が、あのよく吠える声だけの犬が、先輩の両腕を食いちぎった様子が思い出される。


 夢だって夢。悪い夢。

 大体、病室に犬が入り込める訳がないでしょうに。

「噂、でしょ?」

「まあ、そうだけど」

 でも、小野木先輩のことに詳しい人からの話だよ、と付け加えて、クラスメイトは席に戻った。


 両腕骨折?

 私、まだ、手紙渡してない。

 私、お見舞いの手紙、読んでもらえてない。

 私、お見舞いの言葉を口にすらしていない。

 会いに行っていない。

 今日こそは、病院に寄ろう。

 面会謝絶? そんな札、知るものか。


 勢いで病院へ駆け付けたものの、やはり両腕骨折の話は本当のようだった。

 私は長いこと待たされ、先輩にようやく会うことが出来た。他にもクラスメイトらしい女子生徒と男子生徒もいた。


「あ」

 病室に入って、気づく。たんぽぽ色のパジャマの先輩。流石に柄までは私のと一緒ではないけれど、夢の中に出てきた先輩の着ていたものと、同じ色。

「あ、じゃないでしょ。挨拶したら?」

 言われて慌てて頭を下げる。

 何を言えばいいのか、頭の中が真っ白になる。


「佐竹真琴さん、だっけ? 学生証の子、だよね」

 先輩は、覚えていてくれた。


 私は、勇気を出して、あの短い、短い、本当に拙い手紙を差し出そうとして。


 先輩の両腕を固める白いギブスが、自力では手紙も読めないことに気付かされて。

 かといって、誰かに読んでもらうには恥ずかしく。

 自分で開いて読むのも、もっと恥ずかしく。

 やっと差し出した手紙を、引っ込めた。


「へえ」

 小野木先輩は私の手を見て、驚いたように言った。

「佐竹さんも、腕にほくろが2つ、並んでいるんだね」

 ほくろ?

 そんなもの、私には……あった。


 星のように2つ並んだほくろ。記憶にある限り、シミひとつ無かった腕の目立つところに、くっきりと2つ。心なしか、以前より腕ががっしりして見える。

「お揃いだね」

 先輩は、わらった。

 痛々しくて、私は、笑えなかった。


 うー。うー。

 風がブラインドを透かして通り抜ける。夢の中で、犬の声に聞こえたのはこれだったのかも知れない。

 あれ、でも、夢の中で見た病室とこの場所の見た目が、全く変わらないって、どういうことなんだろう?


 私は深く考えずに、家に戻った。

 先輩と直接、短かったけれど会話が出来て、胸の奥がほかほかしていた。


 なにか、うーうーと風が鳴るような音がついて回っていたけれど、気にしないことにした。

 だって、風だもの。カーテンを閉めてしまえば、聞こえなくなるはず。


 消しゴムは、宿題の英作文を書きあげたところで、遂に小さな塊になって砕け散った。遠くで、いつもより長く、長く、遠吠えが聞こえた。

 夜中なのに近所迷惑な犬だなあ。


 私はカーテンを閉めようとして、既に閉まっていることに気づいた。そうだ、布団にこもってしまえば犬の声は聞こえてこないだろう。

 私は夢に落ちた。

 また、悪い夢が始まった気がする。


 夢の中で私は、先輩を病院の屋上に呼び出していた。

「先輩、小野木先輩、私、ずっと先輩のことが……」

 私は上目遣いに先輩の返事を待つ。


 先輩は微笑んで「喜んで」と手を差し伸べてくれる。

 ……ギブスは? 車椅子は?

 そんなの、夢だもの、無くって当然、あたりまえよね。

 私は先輩の手を取ろうとして、そして先輩がぼろぼろと崩れていくのを見た。


 消しゴムが削れて、崩れていったのと、全く同じように、先輩の体はマネキンみたいに分解した。


 ぐるるるる。犬の唸る声とがつがつした咀嚼音。見えない犬が先輩を食べていた。


「佐竹さん。僕も初めて会った時から、君のことが……」

 先輩。喋らないで先輩。

 見えないナニカに食い殺されながら、先輩は微笑む。


 微笑が、半分にちぎれた。猛獣の牙の跡がくっきりと先輩の頭半分を食いちぎる。そして咀嚼。血が激しく滴って落ちる。



 はあ、はあ、はあ。

 悪い夢だよね。ただの夢だよね。


 髪を結った時、鏡の中の小野木先輩と目があった。違う、私は先輩じゃない。憧れだったけれど、先輩みたいになりたいって思ったけど、思ったけど、でも!


「……思いはきっとかなうさ」

 古びた店の、お婆さんの言葉の一部が、反響する。

 かなって、しまったのか。


 学校をさぼり、真直ぐ病院へ向かった。誰にも変貌した顔を見られたくなかった。

 先輩は居なかった。ナースステーションに尋ねても、小野木先輩の入院記録は何も残っていなかった。私は病院の屋上へ走った。


『先輩、私、ずっと先輩のことが……』

 夢の中で告白したあの場所に。

 肉片みたいな物体と、黒々とした血のシミが、べっとり残されていた。


 あは……あはは、あはははは。

 笑いがとまらなかった。

 階段が軋む。誰かの足音。そうだ、あの消しゴムのおまじないは、クラスでかなり流行っていた。

 私の名前を消しゴムに書いた人が来る。

 上空から、はっきりと獣の唸り声。

 あの、見えない犬だ。近づいてくる。動けない。何故私は笑いが止まらない?

 あは、あは、あはははは。


 ぎい、と扉の開く音。

 誰かが私に、告白しようとしていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 昔ながらの可愛い"おまじない"が一転して恐怖に飲み込まれていく様子に、読みながら物語の世界に引き込まれていました。 [一言] 不思議な品物が並んだ、不思議な店。 とても大好きなテーマで懐か…
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