1-4 ヒロイン候補1がフラグを積み上げ始める
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視界の通らない夜の森の中、嗅覚と聴覚が、緑曲霊の“罠”の発動をとらえる。
少女は獣耳をぴんと伸ばし、ずり落ちていた額の鉢金の位置を右手で直しながら、左腕の“鉤爪手甲”の作動を確認して跳ね起きた。
「―――ッ!」
全身に激痛が走る。落下の衝撃で痛めた体が、一斉に悲鳴を上げたのだ。
けれど巫女は、小さな体に走るその痛みで、即座に痛めた場所と傷の深さを把握する。
そして逆に、安堵した。
(痛い―――けど、頭も、骨も、靭帯も、大丈夫!)
めまいや吐き気もなく、平衡感覚や運動能力は無事。痛みさえ我慢すれば、動くことにそれほど支障はない。
そして束の間であれ痛みを忘れることは、摘み取りには不可欠な要素だ。
ガチャリと手足の甲冑を鳴らして走り出しながら、意図して長く、深く、呼吸をする。
痛みで強張る体は、素早く動けない。
だから、吸気と一緒に体の隅々にまで意識を行き渡らせてから、呼気とともに動きに必要な最低限の力だけを残して脱力するのだ。
最後の一息を吐き終えたときには余分な力は抜けきり、“痛み”も動きを妨げる苦痛ではなく、単なる体の損傷を伝える情報へと替わっていた。
走るのは真正面―――少年のもとへ。
“罠”は、少年の背後から動き出してた。
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跳ね起きた女の子が駆け出し、目の前に迫る。
突然に背後へ生まれた“圧力”と、こちらを見据える巫女の表情の無さが、少年が置かれている状況の切迫を雄弁に語っていた。
―――のだが。
実際に少年がそうであったと理解したのは、すでに地面に派手に転がった後だった。
「う……!?」
出来事があまりにも唐突かつ目まぐるし過ぎて、把握できていない。
ほんの一瞬の間のことなのに、時系列がでたらめなモザイクとして、場面場面がフラッシュバックするだけだ。
衝撃と、鋭い痛みがあった。
天地が逆になった。
地面に引き倒された。
何かすごい質量が、横を通り抜けた気もする。
痛みか苦痛かを叫んだかもしれないし、ただ呻いただけかもしれない。
けれど気が付けば、どう倒れたのかもわからずに地面に叩きつけられていたのだ。
「ぐぅっ……痛……」
体が痛む。ぬるりとした感覚があり、地面に血が滴るのが感じられた。
傷がある。しかも複数。
固いものにぶつかった結果の打撲や裂傷ではなく、鋭い刃物で正面から切られたような、体の前面にのみ存在する切り傷。
背中から押し倒されたのではなく、前に引き倒された感覚。
つまり―――
(……今は、考えてる場合じゃない)
原因を追うことを中断し、少年は痛みに顔をしかめながらも、すぐに地面から体を引き剥がすようにして立ち上がった。
地面に打ち付けられたためにぐるぐると揺れる目で見据えるのは、夜の森。
ほんの少し前まで確かに目の前にいたはずの女の子と、そしてまだ見ぬ敵の姿を、確認するために。
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うかつだった。考えてみれば、とても単純なことだったのだ。
今さら遅すぎることだが、“罠”が発動して状況が確定した今だからこそ、巫女は事態を上から眺めるイメージですべてを理解できた。
緑曲霊の根は、巫女が嗅覚で突き止めたとおりの位置にあった。
偶然か、必然か―――少年は、根の埋まる地面の真上にいたのだ。
今夜は不穏な空気を察してか息をひそめて沈黙しているが、森には様々な生き物たちがいる。
巫女は遠方から緑曲霊の根を探す際、無意識に“動物”の匂いは排除して、ひときわに強い緑と土の匂いだけをピックアップしていた。
嗅覚も聴覚も少年を見つけていたはずなのに、そこには緑曲霊しかいないと思い込んで事を進めてしまったのだ。
(……それが、あの少年に気付けなかった理由)
そして罠の真っただ中にいながら、少年が罠にかからなかった理由も、今ならわかる。
少年は―――“最初から”ここにいたのだ。
おそらくは来た道すら無く、いきなりそこに現れたかのように。
だから、罠のエリアにいても、少年は罠に気付かれていなかった。
緑曲霊は単なる植物であり、内側から“萌え出る”存在に対して警戒を払うなどという無駄な器官は持たない。
センサーは外側にだけ、向けられているのだ。
(私のせいで……摘む刈りなのに、関係ない少年を巻き込んでっ!)
そう。
罠を起こしたのは樹上から飛び込んできた巫女。
狙われているのも、巫女1人だけ。
けれども罠はすでに少年の真後ろで目覚め、少年の目の前にいる巫女を狙って放たれた後だ。
今さら巫女が位置を変えても、大茎の攻撃ルートは変わらない。
このままでは無防備に背をさらす少年が巻き込まれる。
“巫女”は、それが禍であれ福であれ、“外”からのモノを迎えるのが役目。
摘む刈りの役割は、生活圏の外からの禍である緑曲霊を迎えて、その脅威を刈り取ることだ。
犠牲者を出すわけにはいかない。
まして、それが自分のミスであれば絶対に、だ。
(助けられる……? ううん、助けるっ! けど……ッ!!)
巫女の手にある得物が“草摘み手袋”ではなく“草刈り鎌”だったならば、少年の前に割って出て、すべての茎を刈り取ることができたかもしれない。
けれど“摘み取りの手覆い”は一撃の威力と貫通力に特化した形態だ。
異なる方向から一斉に迫る茎から、少年を守り通すことには向かない。
組み直す時間は、もちろんない。
嗅覚で罠を先読みして、自分のペースで刈り取っていた先ほどまでとは、違うのだ。
(あの少年は、無傷じゃ、すまない……)
摘む刈りとしての不甲斐なさに、歯噛みする。
同時に―――“巫女”ではない“少女”の心が胸の痛みを自覚して、獣耳が垂れた。
(嫌われちゃうよね、こんな乱暴な子だと。
お話ししたこと自体は……うん、ちょっと楽しかったから)
さきほどのやりとりは、話とは呼べないかもしれない。
お互いが一言や二言を一方的に話しただけで、会話など成立していないからだ。
けれどあんなにも飾り気なく、素直な自分を出せたのはいつ以来だろうと、巫女は少女の心ので、少年とのやりとりを反芻する。
生粋の人種ではなく、獣種の血が混じる少女には、当然ながら人種の社会における居場所は少ない。
まして、身分や年齢の差なしで素直に話せる友人など皆無だ。
獣種の血に由来する嗅覚は感情の変化を匂いでとらえ、聴覚は、壁の向こうの内緒話すら聞き取る。
隠さなければいけない感情を知られ、ましてやそれを吹聴される恐れがある小娘などに、好んで近付く者はいない。
けれど、少年は違った。
異相である少女の獣耳を見ても、困惑を抱きこそしたが、その後も一貫して忌避や嫌悪感を抱くことはなかった。
それどころか、話していて好感すら抱いてくれたことを、少女の嗅覚はとらえていた。
……もちろん、ただの勘違いかもしれない。
少女が感情の変化を読み、聞こえない小声を拾うと知れば、やはり今までと同じように避けられるのかもしれない。
それに今から少女が少年に対して行う“蛮行”は、嫌われるには充分な理由になるだろう。
けれど……あとでそうなったとしても、それでいい。
もう少し、嫌われるまででいいから、他愛ない話をしたい。
少女としても、そして―――巫女としても。
禍であれ福であれ、“外”からの者を迎えるのが、巫女の役目だから。
(そうだよね。嫌われても、いつもの生活に戻るだけだから……大丈夫)
心ではそんな葛藤を抱えながらも、実際の巫女の動きには最初から一部の停滞もない。
もとより、少年を助けるために選択肢も猶予はないのだ。
了解を取るどころか、説明すらせずに、一方的な理不尽を押し付けるほかない。
……こんな事態を招いたのは、自分なのに。
「―――ごめんっ、なさい」
走りながら“鉤爪手甲”の手のひらを広げて、五爪を開く。
地中から根を摘み取る威力を持つ重機を、まっすぐに突き出した。
標的は、すでに目の前に迫った緑曲霊の茎―――の、さらに手前にいる少年自身だ。
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巨人の手のような鉤爪手甲が、本来の用途である緑曲霊の根ではなく、少年の胴を鷲づかむ。
重厚で融通の利かない重機でありながら精密な触感をもつ手袋は、ぶつり、と少年の肌と肉を削いだ感覚を巫女に伝えた。
(……!)
血が匂う。
飛沫が散る音が聞こえた。
大鋏で雛鳥を挟んで、引き寄せるようなものだ。
どれほど繊細に扱ったとしても、肉厚の刃で握り締めて強引に引き動かす以上、傷つけることは避けられない。
鋭敏な嗅覚と聴覚が拾う血の動きと、“爪”からの感触に何らかの感情を抱く間もなく、足を止め腰を落して、少年を掴んだ左腕を自分の方へ引っ張り込み、“罠”の攻撃エリアの外へと引き倒す。
そして―――引き込む動作に合わせるように、巫女へと迫る触手のごとき大茎。
避けられるタイミングではない。
本来は防御にも使える“鉤爪手甲”は、少年を引き倒した直後で盾にすることもできない。
はじめからそれを承知の上で手を進めていた巫女は、左手で少年を引き寄せると同時に体勢を入れ替えて、右半身を前にする。
腰を落して大地を踏みしめ、右腕の手甲で頭と顔をガード。
息を下腹に溜め―――
バチィィィィン!
と、人種を殴り殺す威力を乗せた触手が、この夜、初めて巫女にクリーンヒットした。
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「ふぐぅっ……くッッ!!」
苦痛というよりは、打撃で無理やり押し出された肺の空気が、声帯にひっかかって口と鼻から抜けて、意味を成さない声になる。
ただ1度の攻撃ですら、巫女の小さな体が受けたダメージは甚大だ。
衝撃で頭の鉢金や右手の板金の手甲はバラバラに千切れて吹き飛び、深緑の巫女装束も裂けて、下に着込んでいた金属製の帷子がのぞいた。
けれどそれほどにダメージが深刻な理由は、単純に大茎の威力が大きかっただけではない。
巫女の摘み取りの技量をもってすれば、避けられなくても飛び退くことで、少なくとも衝撃を緩和することはできた。
巫女はあえて衝撃に逆らい、甲冑の重さと低い重心を頼りに、丸太で殴られたような打擲を耐えて、その場に踏みとどまったのだ。
ひとつは、左手でつかんだままの少年を、甲冑を備えた自分の陰に隠して、茎の攻撃から庇うため。
そしてもうひとつの理由は―――
巫女を打撃して撥ねた大茎がぐるりと鎌首をもたげて向き直り、再びその小さな体に向けて襲い掛かる。
罠の第二段階。獲物に攻撃がヒットした場合の追撃。
捕らえた獲物を確実にここで絞め殺し、土に還して養分とするための習性だ。
(ここで―――決めるっ!)
実際には、罠が目覚めて巫女が飛び起きてから少年を掴み今に至るまで、時間の経過は1呼吸にも満たない。
けれど巫女にとっては幾重もの手順を積み上げて“やっと”得た、少年を安全に解放できる唯一のタイミング。
そして打撃から絞めへのルーチンの切り替えの瞬間は、“隙”を晒す、決定的なカウンターの機会なのだ。
細心の注意を払って乱雑に少年を安全地帯へと放り投げ、自由を得た“摘み取りの手覆い”を振り上げて“根”に向けて疾る巫女―――を追って、次々と襲い来る大茎。
けれど槍のように降り注ぎ鞭のように払われる罠の触手は、バラけた甲冑と大型手甲を纏う少女の巫女装束の裾すら捉えられずに、地に突き立ち宙を薙ぐだけだ。
獣種であり巫女である少女は、追いすがる緑の触手も届かない速度で、足場すら定まらない夜の森を疾り抜けた。
(終わらせる。ぜんぶ出し切るっ!)
根塊までの距離が一気に詰まる。
暴れる大茎を背後に引き連れるようにして駆ける巫女は、最後の瞬間に“大型手甲”を地面に叩きつけて、反動で高く跳ねた。
頭上を覆う森の枝木の層に引っかからないように宙でくるりと姿勢を制御し、鉤爪の切っ先を緑曲霊の根のある場所―――最初に少年が立っていた地面へと突き入れた。