1-3 主人公とヒロイン候補1が遭遇する
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音。
が、聞こえた気がして、夜空を見上げていた少年は身を起こした。
「……」
ちょっと前に1度やったのと同じように、息をひそめて、耳を澄ましてみる。
今度は、聞こえた。
発生源は、遠いみたいだ。具体的に何の音かわからないし、鳴るタイミングも不規則。
しいて言うなら、“濡れた音”“柔らかい音”“硬い音”だろうか。
音の発生気が、外から近づいてきたのか。
それとも、それまで静かにしていた“何か”が動き出したのか。
刺激に飢えていた少年は、まだ音が遠かったこともあって、万が一の危険に備えるというよりも好奇心を満たすために音を追った。
「あれ……?」
けれど、少年がそれを聞き分ける前に、また音は止んでしまった。
そのまましばらく待ってみるが、音が“再開”される気配はない。
止んでしまうと、中途半端に刺激された好奇心が鎌首をもたげ、危険を承知でいっそこのまま寝てしまおうかとまで考えていたさっきまでよりも、はるかに気持ちが落ち着かない。
「どうしようかな……」
待ち望んでいた“変化”ではある。とりあえず、目の前には選択肢が2つできた。
1つめは、危うきには近寄らず。
位置的にはここから遠いし、木々に隔てられて聞こえた音だから、向かうべき方向も曖昧だ。
夜の森を歩いて危険や事故に出くわす可能性はここに居続けるよりはるかに高く、なにより音がもう鳴らなかった場合、方角自体を見失ってしまう。
夜の間は動かずに朝を待ち、少しでも優しそうな出来事に出会ったほうが賢いだろうということだ。
そして2つめは、素直に様子を見に行く。
どうせ記憶自体がなく正解などわからないのだから、まずは遠目に見る程度でも何が起こっているのかを確認しに行こうという、ポジティブな姿勢。
そもそも今いる場所ですら、安全かどうか以前に、どこかもわからない状況だ。たとえ迷ったとしても、今と比べてマイナスに働く要素は少ないのではないのか、という考えである。
少年の知識は、夜の森で動くなど危険であり、無謀なだけだと判断する。
一方で、相変わらず不安を抱かないのが不安なほどの落ち着いた心境のせいで、安全なはずの何事もない時間が、耐え難い退屈と思われてしまうのだ。
「よし……」
ほどなく、心は決まった。
頭ではともかく、心ではこの場所に対して恐怖や緊張を抱いていない。
ならば、月明かりを確保しつつ少しでも明るい場所を選びながら、無理はせずにちょっとずつでも近づいてみようと考えたのだ。
腰を下ろしていた下生えから立ち上がり、とりあえず音の聞こえていた方向を定める。
見えるのは、相変わらずの暗闇ばかりだ。
樹上から月明かりが漏れる場所を選んで、慎重に歩こうという程度の思慮は働いた。
そうして一歩を踏み出そうとした矢先に、さらなる状況の変化が訪れた。
唐突に、バキバキと頭の上のほうから乱雑に枝を折り葉を散らす音が聞こえたかと思うと―――
「ひゃっ―――えぇぇぇ!?」
それらを一気に突き抜けて、女の子が、ちょうど彼の上に落ちてきたのだ。
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あまりにも予想外の事態だった。
摘み取りの最中は表に出ることのない、少女としての素の思考と、悲鳴が出るほどに。
―――この少年が緑曲霊の根っこ?
違う。緑曲霊はただの植物。“少年”では決してありえない。
―――緑曲霊の根の匂いを、少年の匂いと誤認した?
違う。人種と樹木を見間違えないのと同じで、嗅覚が間違えることはありえない。
―――けれど現実として、根塊の位置と判断した場所に見知らぬ少年が立っている。
そんなことより、このままだと“摘み取りの手覆い”が少年に直撃する! 直撃したらお肉になる!
―――攻撃の中止は?
無理。自由落下は当然、止まらない。鉤爪手甲を振り下ろすモーションも、止められない。
―――できることは?
鉤爪の軌道をそらして少年に当たらないようにするくらい?
―――今更そんなことが可能なのか。
できるかできないかの話ではなく、やるしかないっ!
走馬灯のレベルで少女はめまぐるしく自問自答を繰り返すと、中空で足と右腕を使い体を余分に捻ってあえてバランスを崩し、ムリヤリに腕を振り下ろす軌道をずらす。
同じく、鉤爪が届く距離を縮めるために猫のように体を丸めて、根塊を掴み取るべく広げていた大爪も、少年に届くより前に指を折り畳む。
少女がいくつもの努力を重ねて、少年の頭に迫る大爪が、わずかずつ軌道を変える。
だが―――
(ちょっと……だけ、間に合わない―――当たっちゃう!)
たとえ先端だけであっても、大型手甲の鋭利な鉤爪が掠めれば、肉は裂け骨は削り取られて、容易に致命傷になる。
鉤爪は止まらない。畳みきれない。逸らせない。
最悪の瞬間は、確定した。
(―――ッ!!)
勢いはそのままに、“摘み取りの手覆い”が振り切られる。
少年は―――おそらくこの瞬間が絶体絶命だという状況すら認識せずに、樹上から突然降ってきた少女を見上げていた少年は。
まるで“摘み取りの手覆い”が起こす風に煽られた木の葉のように、鉤爪が自分の頭を通り過ぎる直前にごく自然に脱力して後ろに体を傾け、ぺたりと尻餅をついた。
少女が決して稼ぐことができなかった少年との“距離”を、自ら補った形だった。
―――すべては、一瞬の出来事。
少女の尽力と、直撃ルートにあった少年が意識してか無意識からか自ら距離を開けたことで、2人にに降りかかるはずだった悲劇的な出会いは回避された。
その代償として“摘み取りの手覆い”は標的であった地面にすら当たらす、盛大に中空で空振りしていた。
小柄な少女の体は、空振りした左手の大型手甲に振り回されて、くるくると回りながらぺしゃりと下草に覆われた地面に落下する―――
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「ふべっ!」
ズシャアアッ!
っと。
突然頭上から降ってきた女の子は、彼の目の前でくるりと回ってからブザマに地面に転がった。
どこかから飛ばされたかのようにいきなり頭上から落ちてきて、着地に失敗して体ごと地面に激突した、女の子。
落下してきた少女を反射的に避けようとしたのか、気がついたら尻餅をついていた少年は、目の前で起きた今の一瞬の出来事をそう把握した。
「あの……大丈夫、ですか」
腰が抜けたわけでないことを確認した少年は、再び立ち上がりながら、とりあえず声をかけてみる。
女の子は見た目かなり小柄で、自分よりも年下に見えた。
自分の容姿もわからずに年下に見えたということは、自分の年齢はもう少し上なのだろうかと頭の片隅で考えたが、それは今は関係ないこととしてそのまま片隅に置いておく。
年下だからといっていきなりタメ口で話したり、逆に親しげに話しかけるのも妙な気がしたので、自然と敬語が出た。
「……うぅっ、わたしは、ダイジョブです。その、こう見えても、意外とっ……! 頑丈です、か、ら……」
呼びかけられた女の子は、顔は見えないが涙目の口調で、それでも気丈に身を起こす。
丈の長い下生えの中に盛大に突っ込んだせいで、頭にも服にも千切れた草をまとわりつかせているが、逆にそれがクッションになったらしく、落下した勢いの割にはケガは軽そうに見えた。
軽そうに見えるだけで、さすがに無視できるような傷でもないだろうけど。
事実、答える声には、隠しきれない痛みをにじませていた。
「あ……そ、それよりも。なんでこんなところにいるんですかっ。
夜更かしはダメです。
それにまだ緑曲霊の摘み取りは終わってないですから、今夜は外に出てちゃダメなんですってば!」
真夜中に出歩く明らかな不審人物である少年に対して、女の子がまず口にしたのは、警告や非難ではなく、注意だった。
つまりは不審者を見る目ではなく、こちらの身を案じてくれているということだ。
もちろん警戒は怠っていないだろうけど、それをあからさまに表には出していない。
いろんなものをわきまえたいい娘なのだと、素直に少年は好感を抱いた。
「ごめんなさい。正直、知らないことが多すぎて……」
だから少年は素直に頭を下げた。
女の子の言葉の意味はよくわからないが、押し迫った状況であることは推測できる。
先ほどの“音”とも、無縁ではないだろう。
ここで手間を取らせるような迷惑はかけたくない。
「……あれ?」
けれど、下生えの中から身を起こした女の子を見て、少年の言葉は途中で止まった。
暗闇でいきなり木の上から降ってきたので気付かなかったのだ。
たまたま木影の切れ目に落ちて全身を月の光に照らし出されたので、身を起こした今は、その姿を夜の森でも余すことなく見ることができた。
女の子は、少年にとって非常に奇異な外見だったのだ。
手足には、まるで戦に出向くとしか思えないほどの分厚い金属の甲冑。
特に左腕全体には、武器と防具が一体化したかのような、いびつなまでに大きく鋭い鉤爪付きの手甲を着けている。
それに対して、厚手で丈夫そうではあっても、戦いに使う場合の実用性はどうなのだろうという、ひらりとした見慣れない衣装。
おそらくは頭の前部への攻撃を防ぐ目的で着けているのだろう、額を覆う横長の金属製の板。
そして―――その板金には覆われていない頭頂部の両脇から、長い髪の毛にまぎれてひょっこりと左右に覗く、獣のような大きな“耳”。
「……」
先ほど頭の片隅に置いたままだった自分自身の記憶に関する疑問が、今度こそ無視できないほどに首をもたげてきた。
だから彼は改めて、自分の知識と、忘れたはずの記憶に問いかける。
樹の上から何の脈絡もなく落ちてきた女の子。
出歩いてはいけないと本人が言っていた危険な夜に、出歩いている女の子。
人と戦うというよりも、なにかもっと大きなモノと戦うことを想定したような、大型武器と重甲冑を装備した女の子。
ひらりとした、見覚えの無い衣装を着た女の子。
外見は紛れも無く人であるのに、獣のような耳を生やした女の子。
女の子の何を見て、どこを奇妙に感じたのかを。
暗闇に閉ざされたの夜の森に、少年は自分でも不安なほどに、恐怖や違和感を感じなかった。
けれどこの女の子を見て、意識を取り戻して初めての違和感を感じたのだ。
違和感を感じるのは、“日常ではない”出来事に出会ったせいではないのか。
では逆に、夜の森に違和感がないのは、自分にとってそれが“日常”だったからか。
記憶を失う前の自分にとって、何が日常で、何が非日常だったのか。
失われている記憶に少し、触れそうになる―――
「あっ……!」
「え!? ああ、ごめん」
意図せず女の子を見つめたまま物思いに耽ってしまった少年は、その声で我に帰る。
声をかけておきながら、いきなり女の子を見つめて動かなくなった自分は、さぞかし不審人物に見えたはずだ。
女の子の声もそのための警戒心と思い込んで反射的に謝り、あらためて女の子に意識を向けた。
けれど。
女の子の視線は少年に向けられていなかった。
見ているのは彼の、さらに後ろだ。
しかも先ほどまで垣間見せていた、柔らかでほわほわした話しやすい雰囲気は消えて、ひどく醒めた表情で。
直観する。
最初に聞いた“音”の正体。
女の子が、武器と甲冑を着けている理由。
木の上から落ちて来た訳。
出歩いてはいけないと、咎めた意味。
今までは素のままの性格で対応していた女の子の、これがその仕事中の表情であること。
そしてそのすべてに繋がる“原因”が、視線の先―――自分の真後ろに在ることを。