1-1 主人公が異世界に登場する
小説大賞の募集を知っていまさらながら
こういうのは初めてで不慣れですのでお手柔らかに
夜空に浮かぶ月は、影ができるほどに明るかった。
けれどそのせっかくの月の明かりも、鬱蒼と繁る木々に遮られてしまっていて地面まで届かず、森自体を抜け出す助けにはなりそうにない。
「よっ……と」
仕方がないので、木漏れ日のようにかろうじて月光が届く一画を見つけて、地べたにべたりと座り込む。
暗がりを歩くには邪魔そうな下草が、今はわずかでもクッション代わりになり、座ること自体が苦痛にならないのは助かった。
夜の森の中を進むことを諦めたならば、次にすることは夜を明かすための火と寝床の確保……ではなく。
自分自身の体を、隅々まで観察することだ。
やっと暗さに慣れてきた目を凝らして、月の光に右手をかざしてみる。
特に傷もなく、柔らかな手のひら。
道具なんかを使い続けて、そこの皮膚が厚くなったり硬くなったりした様子もない。
次は靴を脱いで、足。
指で撫でたり押さたりしてみるがやっぱり気になるような硬さはなく、使い込んだようなガサつきもない。
座ったまま腕や太ももを同じように撫でてみた後で、服をめくって脇腹やお腹も確かめてみる。
鍛えたような筋肉はなく、かといって弛んだ贅肉もない模様。
身長は、どんなものだろうか。
比較対象が木くらいしかないのでよくわからないが、先ほど立っていたときには、高いとも低いとも思わなかった気がするけれど。
「ケガとか、病気とかもなさそうだよね。なら、あとは……」
なぜか気恥ずかしいものを感じながらズボンをめくり、股間。
この世に性別は2つしかなく、自分は間違いなく“付いている”ほう。
つまり、男だ。
「だよね、うん……わかってたよ?
だけどちょっと、その……確認というか心の整理は必要だったんだよ、間違いなく」
そこを詳細に見て触り、その後に激しく恥ずかしさと後悔の念に悶えながら、思わず自分に言い訳してしまう。
「ふう……」
深呼吸して気を取り直し、次の確認は、髪の毛。
幸いにもハゲではない。耳や首筋に届くけど、自分の目では見ることが出来ない程度の長さだ。
一本引き抜いてみて、色も確かめてみるけど……いくら明るくても、月の光ではさすがにわからない。黒っぽいかな、程度だ。
「鏡は持ってないし……水場とかもないっぽいかな、このへん」
つまり目の色や、肝心の自分自身の顔は、見ることが出来ない。
肌のハリや体のつくり、そこのカタチから、かなり若い年齢なのがわかるくらいだ。
「あとは、うん……えーっと」
思いつく限りのことを一通り確かめて、そのあとに残ったのは―――
「どうしよう……せめて、誰かいてくれればなぁ」
―――残ったのは、有効に使い切れない時間だけだ。
そう。
さきほど意識を取り戻した“彼”には、“知識”はあっても“記憶”がなかった。
自分の名前も、年齢や外見も、どうしてここに居るのかさえも、わからない。
まわりに人影もなく、今がいつで・ここはどこで・自分が誰で・なぜこんな事になり・とりあえず何を・どうすればいいのか、という肝心の事を答えてくれる者がいない。
「……さっきも確かめたけど、頭とかは打ってないよね?」
頭をぶつけたことが原因で一時的な記憶の混乱や喪失が起こることがある、という知識はあった。
けれど、ぺたぺたとさわる頭にも体にも痛みはなく、服にも汚れや傷は見当たらない。
落ちたり転んだりしたせいで今の状態になったという可能性は、薄そうだ。
「うーん、野外活動の知識は……頭の中に無いっぽいかな」
あとは彼自身が未経験なためかサバイバルする方法も見当が付かず、そもそも、先ほど気がついた時点で服以外には持ち物はなかったのだ。
見上げた夜空と気温からなんとなくだが、すでにかなり夜は更けている気がする。
木々に閉ざされたせいでまわりを見渡しても暗闇ばかりで、人が住んでいるような生活の明かりも見えない。
暗闇しかないせいで、彼は意識を取り戻してから、月明かりの差す場所まで移動する数歩程度しか動いていない。
足元もおぼつかない暗闇で木々の間を歩くのは明らかに無謀だから、その場から動いてないだけだ。
……かといって深夜に1人で人気のない場所に留まるのもダメなのかな、とも思う。
前者は、崖から落ちるとかの事故的な危険の意味で。
後者は、例えば野獣に襲われる可能性とかの意味でだ。
「……」
仕方がないので、座っていた状態から後ろに身を倒して下草の上にごろりと仰向けに寝転がり、木々の間からかろうじて覗ける程度の夜空を、見上げてみた。
見覚えがあるともないとも言うことができない、星の配置。
もともと、そういうものには関心がない性格だったのだろうか。
ただ妙に気分は冷めていて、見知らぬ場所、しかも闇の中で1人という状況にもかかわらず、不思議と焦りや恐怖は感じない。
むしろ、今のわけがわからない状況の中で全く動じない自分の精神状態に、不安を感じるレベルだ。
「案外、いつも出歩いてるような、知り尽くした場所だったりね」
例え見知った場所であったとしても、それでも今は何をしたらいいのかさっぱり分からないことは事実だけれども。
結局のところ、判断材料である記憶そのものが無ければ、正解など導けないのだ。
今の彼はこの世界に対して、限りなく無知なのだから。
「あー……」
だからただ、寝転がって月を見上げ、途方に暮れていた。