そらかける馬・下
内陸北部、かつて統一国家が存在し共和を謳ったその華は、可憐憎くも散り堕ちる。崩壊は混乱を招致し災いを呼び、奇しくも天候にさえ疎まれて、旱魃飢餓や疾病、喉の渇きよ潤えばと厭いの戦乱は世に続く。
北部族の遊牧民たちは貧困の長抗争の後に連合を形成、従属民の数を増やし、東の有力集団の当主を討伐すれば次に西へと遠征に、勝利さすれば砂漠下へと――若き獅子の眠るやも知れぬ南下へと、時を奏でて満を持する。
夜に。
和を尊し、日々の営みを塞かさんと龕を懸ける光魄たち家畜の民の目前に、砂の埃を舞い上げて、遠方より来たる群集があった。
始め休みの牛飼いの牛が騒ぐ、そして次に羊、家畜が逃げ出し民は驚く。「何ごとか」「地響きよ、これは羊たちのではない、別のものだ」光魄たちの感覚と耳に届くまでには時間差があった。床からやっと気がつかれた光魄は住居より出でて冥暗のなかを、走り来る何かを探るべく、目を細めて眺め佇んでいた、するとやがて。
ドドド、ドドドド、ドド、ド……
足である。此れは幻獣でも嵐といった災禍でもない、人の足。家畜の数にも匹敵する人の足が、砂の地を蹴り神速を真似て直進する。
「受けて、賜、れええぇえい!」
意味の不明な事柄を、血走った輩は唾と共に吐く。小便にも似た水を四囲に撒きながら人の足は進み規模は扇状に広がり、散り散りに野営をする丸腰の民に情け容赦はなく襲いにかかる。天幕だった住居は裂かれ破かれ、刺され形壊され。逃亡する牛もヤギも民も区別なく野人の腰から抜かれた貧刀によって追い惑わされ終いには。……。
飛べぬ鳥は踏み荒らされる、紅に染まった小羽が砂塵に埋もれていた。「グゲェェエエエ」「ヒイイィン」馬も逃げ出していた。
「火を!」
闇のなかの一点、そこだけは触れることがなく野人が避けて通る点があった、点とはまた人、天然の長髪を黒く垂れ流しアマの布で頭を巻いた、野生児の風貌をする若き男だった。口唇を舌で舐め回して下腹を大事にと抱え摩りながら、女など興味を物色していた。
「狼黎。こいつら金品持ってねえぞ、ジジイとババアとブタばっかだ」
「ブタぁ? 馬鹿め、家畜様だ。牛や羊様と呼んでやれな」
「女を探せ!」
松明を持った小賊部隊が後から加わり、草に火を点けていた。燃え移る。
「おのれえええ!」
沈黙ばかりではなかった。抵抗をする、平穏な民であっても。弓と刀を手に構え、体に飛びかかるが、自らが鮮血の末路。闇は紅を黒に変え、懲りず若者や動ける者は刃向かっていた。だが体格と敏捷の差が歴然、親と子の異同とやかくではなく天と玩具ほどの差異が否めずにいた。
「ひははは」「みろ、……だ。献上するか」「親父は何て顔をするだろうか」
嘲りの非礼は、近く仲間の声で止まった。
「狼黎! 女が2人いたぞ! あっちだ」
目を光らせていた部隊のひとりが叫んで狼黎を呼んでいたのだ。「すぐに行く」期待に笑い、汗に濡れた髪を掻きあげて後ろへと払う……東洋の香りが漂うが、彼なりのよき格好なのだろう。
「私の家族に何用か」
青年の目は鋭く光る、十数という数の、弓持つ野人がある家の周りを取り囲んでいる。ひとり、立ちはだかったのは若き子、光魄だった。武器は一切を手に携えてはおらず、身体が楯となるべく覚悟の上か、堂々と出で立ちは清々しくも愚かな行為に受け止められよと野人は皆、苦笑していた。
「名は何と?」
集団のなかで連れられ先頭に出た狼黎、先ずはと前に出てきた、年も狼黎とそう変わらぬ若者に対し、小奇麗な顎を撫でて名を訊いた。「光魄と申す」素直に答えた光魄の眼光は、刺すように狼黎を炯炯と射る。「ほお……」下の半身から頭の先、毛の先までを長々と見つめ、狼黎はこの若者の存在を傲慢に認めた。野人は息を殺し腰を低く、呼号を沈し待つとする。
「我は狼黎、北からの使者。北の権力は我の父、紅蜀葵なり。名は届いているか」
「初聞で御座います」
聞いた狼黎の真面目くさった顔は、冷笑へと首傾いていた。
「その様か。なら、新しく聞き入れよ。地は、王のものである。早急に明け渡し、水、血と骨と肉、女、貴金属。我が大いなる黎明の主導者へ、物資の献上を驕るとしようぞ」
せせら笑いながら、立てた人指しの指が、光魄の背に未だ無事立つ幾数の住居に向けられていた。「此れへ!」との号令を以て、縛りの解かれた野人はなかを覗こうと、だが容赦のなく、情けは別に置いて素早く幕は爪で引き裂かれた。「暴君め! 誰の理か!」光魄の怒りは尤も、だが一度二度裂かれた天幕は盆には返らず、なかから人の居住が窺い見て知れる。
「女だ。ひい、ふう……年寄り子どもは不要。その2人を此れへ」「ひっ」
なかに居たのは光魄の母と、珠玉、愛琳、弟たちだった。まだ幼い弟たちを除き、男は不幸であるのか光魄以外に不在、光魄しか力頼れる者が居らず、指名されたのは珠玉と愛琳の2人と年頃になる華娘たちだった。
「上玉よ。連れ帰る」「何故!」「先に言ったであろう、主君、紅蜀葵に献上す」冷ややかな侮蔑の念は消えず、狼黎は自らで先ずは珠玉の手を引いた。「ああ!」「――珠玉!」
光魄の早手は、珠玉の腕を掴んだ狼黎の手に伸びていた。狼黎から引き離して光魄の背後に珠玉がまわると、では、と愛琳の方へ顔が向けられていた。「――よせ!」声高く。
然もその時だった。
狼黎たちにとって、信じ難き光景が映り瞬く。何と、馬が――隣の住居より堂々颯爽と現れる。弱くも成長し、確りと四本の細き足で立つ馬、恐らくは馬と断定できるは、少しばかりの勇気が要った。その語らねばならぬ豪壮な理由とは。
「! ……此れ、は」
「馬……?」
「馬……」
「馬なのか? ……白い? 見たことねえぞ、あんな奴」
野人が騒ぎ、口々に言い合う始末なる。あの狼黎も、さすがと異質に圧倒された故に、沈に伏せる、――その隙よ。
「喜遊! ……お前」
言い纏めたのは光魄だった。「私の友の『喜遊』、だ――」一点の穢れも無さげの至極極上の毛並みに、狼黎は圧迫されとて声を漏らすに言い放つ、こう。
「何と美しい……」
追い詰められるも、目は煌々と血走生きゆく。喉は渇きの時を経て、飲み込んだ唾が食道を落ちる。美しいと評高を受けたあの馬、喜遊は、知ったことではないと軽く無視をし我友の下へと相近寄って、光魄の身を案じと体傾け情けをかけた。
「無茶をするなよ、……喜遊」
「ブルッ」
身の震いをして、それが受け応えに転じていた。
ジャ。と、気配一。
地砂を摩擦に滑り行き、熱く血の滾る狼黎、炎のように火照る体躯を此れ操作にとて苦心するにも我が儘に、何とか地に這うは避けて光魄と喜遊を徒歩に目指す。そして吐かれるは強き願望だった。
「其れを此れへ」
片手は挙げて誘いと、光魄に視線を向け促しと其の手は振りまかれたに見ゆる。
「何のことか!」
当然よと、光魄は厳つきで撥ねるぞと眼光向ける、「ッ……」背後の喜遊、動けず移るは諦めに見やりて静で体を為した。阿婆擦れな男は不毛にせせら笑いを揺らせると、仲間を呼んで耳打ちしたる。
すると仲間は、何と珠玉を人質に、交渉垣間見る。「何を!」憐れ光魄は、止められず。「光魄……!」狼黎は言った。
「お前の其の目、心動かされるに忍びない。ならと折衝、試みるとする。さて、其の美しい白馬と、この美しい娘。片方を我へ、片方を捨て置くとする。極似た者同士に、どちらかをお前に選択願おうか」
馬と女と、二者択一を迫りて、愉快にと阿婆擦れな男、狼黎は腹を抱えた。「さてとて」申せよと集りくる。
「こ、光魄……」
「黙り、珠玉」
不安げに後ろ手を捕らえられて珠玉の胸は、高鳴りを背に反らせ誤魔化すとする。制した光魄は噛み付くが如くに睨みで真を見定めていた。下を向き交互にと幾度、狼黎の顔色を窺い知れるか。「馬と女、手元に残せるはどちらなるか、申してみよ」要求は其の儘に。
双の内、片方失えば片方を得、選択は先を決定してしまえば……と恐れるる不穏の波に、光魄は意を遂にと決した。
「ならば、珠玉……を」
凛とした光魄の其の振る舞いに、猿群れにも似つき野人衆、見守れば顔見合わせ、たまに吠ゆる。
「ほう?」
「珠玉を、我に残し賜う」
其の変わらずの姿勢は狼黎を一層に高揚、勃起させて抵抗を許すまじ。狼黎、真しやかに言い放つ。
「ははははは! では、馬は頂いていくとする。お前とは生来の友人の如くに、長く末までの付き合いとなろうぞ。恐らくは」
狼黎は片手を挙げて野人共に指し、珠玉を解放すれば至極美しい白馬にと関心は移り変わりゆく。極上の毛並は、揺すれば相も変わらずに魅力を放たれし。
然し此の馬、光魄の元にと歩み寄りた。
「喜遊」
「ブルッ」
光魄、身凍りて喜遊を見やり一瞬、目と目が合うた。「愚かな」そう狼黎は鼻で笑うとする。「馬にも意思のあろうことか」狼黎の裏返りて甲高い声色は、皮肉を表す。声は聞き届かんと、光魄、草臥れた手を友に捧げんと伸ばした……其の場、ここぞと時が来る。
「喜遊!」
「ブルッ」
何と光魄、喜遊に自然よと跨る。地を蹴り筋を張り、光魄、愛おしく馬にすがりて離さずと、滑稽なる身よと卑下せし、顔上げられず。だが此の馬は、構わず挙は起こされる。
馬から生えゆく、白の羽よ。片翼、そして片翼と。
嗚呼、やはり。お前は珍獣なのだ……
やはりな……
もはや詠み人知らずの詠み歌も五音連声、五韻を忘却する程の吃驚と成り。騒ぐは野人の群れだに留まらず、珠玉や身内、呆れ惚けし揃いも揃い、一緒くたにされぬ。
狼黎も開いた目は塞がれず。白の羽が生えた珍獣を見つめんとする。
跨れた馬、走り出すは空へ。滑走が助走、勢いは滞りなく体が宙にと舞うたではないか。光魄を乗せた馬は空高く、砂雑じる含有風のなかを颯爽と翔て行く。「素晴らしい」……人々は追従し、時の権力者は二度三度目の感動を覚えるに。「素晴らしい……」
是非にと。狼黎はあの金馬は我が手中に納まるべきと豪語す、炎上した心塊を無視できず。其の後、狼黎は馬を手に入れるに成功したかは存じられ無き。
光、大地に降り注ぎ、行き先の無い当ての外れた旅かと光魄、空のなかと胸中を駆け巡る。今過ぎたことは全て幻想也とて嘯くも、軽佻浮薄であり戯言よと自らに戒めの訓を授けたる。
馬は天を目指すが如く、晴天を一向に走るのみ。何処向く風と万人が万人呟くや。目下に聳える霊峰は、雲に隠れて凜乎たる。
其の様に此の馬と男は空を翔けながら。馬が想いを告げるまで、既に時分は過ぎていた。
『私は貴方を愛しています――』
馬、喜遊は、突然に声を発した。人の声、始め天の声かと光魄、疑いを以て聞く。然し其れが友のものと理解すれば、心して聴くに至り。
『このまま貴方と駈けて行きとう御座います。天界、其処は非常に素晴らしい所です。貴方の様に清く。正しく、美しい人という者を惜しむらくは地上に置くのが勿体無くと』
此れには光魄、否定をあからさまに表し発する。
「戻るのだ、喜遊。戻らなければ……愛琳や母親たちを置いてきてしまった。私の足は、自然とお前に跨ってしまった。此れは我が迷い、其の他には無い。私は……私は、何ということを」
前に突き出した両の掌に、汗の雫が滲み出る。全身からの汗が一点に集中せしめよと浮かび光魄を苦しめんとする。後悔の念は抗うことが出来ずに光魄を追い詰め遣らし。
「願いだ。戻っておくれ……でないと私は」
汗に塗れた其の掌で顔を覆う。
「友よ。もう……お前とも友で居られぬ。私はお前を裏切ったのだ。お前を選ばず、珠玉をとった。……最低な男なる。如何して生きられ、お前と共に居られようか。此の様に無様で、罪深きことは無い」
此の男、光魄は女々しくも弱きを吐く……直ぐに察した喜遊、反論する。『お待ち下さい』
喜遊、見えぬ眼光に力無く廃人にも似た男、光魄に、憐れみと、服従を誓いてか明るくと声掛ける。
『私は嬉しかった。私を選ばなかったことで、私は知っている通りの貴方なのだと安心したのです』
「とは……?」
『もし貴方が私を選び家族を見殺すような方だったなら。私の背に、翼は生えていなかったでしょう……』
優しき珍獣。其の形容、真相応しき。
『貴方を救い出せて良かった。羽が生えて良かった。此れでやっと貴方の役に立てることが出来る』
「では……」
『さあ戻りましょう、行くのです。皆を助けに。皆が救世主を、待っています……』
時世は救世主を望み、天は数多のなかから代わりは居らずと唯一に人を選ぶ。
馬に跨り剣を揮った勇敢なる若者の話は口伝で語り継がれている。
幼き子は知らない、其の先を。大人は知っている、其の先を。だが大人の口からは語られることは無い。子は夢を見、共に駈けてくれる『友』を探す旅に出るものだ。
足を以て。
雄大な大地を、空の代わりに駈けて行く。
《END》
ご読了ありがとうございました。
後日にブログ更新します。