そらかける馬・上
雄々しいたるや大草原よ、緑黄、陽光に晒された生命の息吹よ。
母なる大地は、その精神を受け入れ、輝きを失わないよう祈りを捧げ、二六時中に過程を見守る。
この大平原の果てはない。あるのは、腐れぬ亡者どもの生す欲望と自由ぞ。過去と賊徒の蠢動が地を足で叩き、然と、包む母の腕は嗚呼、憐れ世と嘆きを吐くだろう。
飛び立つか、恐れを忘れて。
それが佳かろう、孤よ、我が先にと急ぐがいい。廻ると尚佳い、失態は後に華が開く。それは鮮やぐ紅き汗血、馬の蹄は、そらかける。
幼子、光魄は、卵を拾った。
やがて持ち帰ったそれは数日を懸けて孵化し、だが白く、目の玉にも似た艶出る塊だった。触ると啼き、空いた穴、空洞の奥からヒュウゥと幽かに意思を息吹いている。
押し潰してはいかぬと、光魄は、それはそれは大事に手に包んで持っていた。
大高原北部の内陸国である帝国は、かつては共和制だった。だがそれも時が過ぎ、法による制限君主的背景を経て、何物にも制約されない頑なな絶対君主制へと移行していった。王権の支配時代である。
農牧業が営みの中心であり、牛や馬、羊や鶏といった家畜などを飼養し、羊毛・皮革や肉などを生産する乾燥・砂漠地帯の遊牧民たちは、一定の土地に住まうことは決してなく、粗末な継ぎ接ぎだらけの衣を進んで纏い、陰日向でも自由よ意思よ、それは曲がらないと誇り失わず水や草を探し求め、家畜と共に生きることを拒まず受け入れて選んでいた。
成長を妨げるものはない、すくすくと自然に幼子だった光魄は兄弟姉妹、それから父と母の親元で健やかに育ち、このまま青年へとの過程を愉しむことになるだろう、周りの大人たちは揃わぬ肩を並べて微笑み、いつも声を掛け合っていた。
「光魄、明日は東方が雨か」
「いや、風は、あちらに向いている」
まだ背伸びをしなければ大人と目線を合わせられず、光魄は張り切って羊の世話を手伝っていた。気になるのは、数日前に取り付けた家で、休んでいる友のこと――人ではない。昔となる以前に、見当たらぬ巣から持ち帰った、白い――仔馬よ。
やがて光魄と同じく順調に成長する彼を、光魄は友と呼んでいた。勾玉のような始め、今では立派に馬らしき姿見で周りを安心させていた。嗚呼、やはり馬だったのだ、異形ならば手にかけねばならぬ。光魄には発想なき暗雲の事情も、大人たちは視線を合わし了解を得ていたのだった。弓と刀は、腰に据えている。
光魄が友と呼んだ仔馬、名を『喜遊』と付けていた。
加減はどうかと語りかけてみても、横たわる喜遊は小さな瞳を見せて伏せるだけだった。
(お前はいつも我を心配させるな……)
苦笑いを懐に、光魄は昼、用事へと外へ出て行った。「愛琳」光魄は、ひとつ下の妹の名を呼んでいた。
洗濯物を入れた葦の籠を小脇に抱えて、年の近い子らと談笑していた愛琳は、生まれついた巻き毛をくるくるとさせて負けじと同じく可愛らしく、くりくりとさせた目をこちらへと向けて返事をした。「なあに」高く子どもらしい声は耳によい。
「喜遊の具合がまだよろしくない。帰ってくるまで、気にかけておいてくれ」
愛琳は「はあい」と明るい声を返した後、小首傾けて笑った。笑顔は変わることはなく、夢中だった途中の話に戻ってしまうと、見届けた光魄は去っていく。
心中、友のことばかり。
初めてのことではないのだ。いつもそうだ、弱りがちなお前は我を心配させ、そして……。
元気な時には、忘れたように地を駆けるのだ。あの草原を。
そんなお前が、好きなのだ。
まだ温かき地面に爆ぜる砂や土は、光魄の足もとで従って舞った。いつか、お前に跨り共に走り出す時を待とう、そんな希望を胸に描く。空は空気と共にある。沈んだ空気は空へと昇る。我は知っている、我は、自然の一部成り。
今日も地表の上の何処かで、虹架ける。
「あれは何だ」
明星が西天に掲げた頃、ふと頭を上げた若者が、遠く地平の線へ指をさし言い伝えた、風がそよぐ。「人だ」視野の広く、千里の先を見渡せる程に力のある者が己の自信を携えて、堂々と言い放つ、あれは人ぞと。「なんと」追い立ての鞭を落とし、眼は一心に。
まだ黒影は、遠く。ゆっくりと、間近へと。「怪我をしているようだ。女子だ」
やがて鮮明に、その女子は野営の地へと辿り着いた。胡粉色で袖のある被布に腰帯を巻いた格好だったが、肩に矢の突き刺さった痕が色濃く衣服に滲み現していた。擦過傷の残る素足だった。
「名は何と?」
近寄る光魄が震え問えば、女子は息荒くも、確かな瞳と通じる言語で意志の強さを明らかにする。
「珠玉……」
頬痩け崩れかけていた身体は光魄に頼ると、気絶してしまった。此れは何なのだと光魄の瞳は訝しがる、それは周囲の者にとっても同意で、女子は直ぐに医術の心得のある者の元へと運ばれた。
養生の時を経て半月ばかり、大分と調子を正常にと戻しつつある女子、珠玉は、日中、羊の世話に忙しく働く光魄の所へと訪れた。広草原を眺めて遠目、羊より彼方前方を見つめる光魄に、珠玉は照れながらも挨拶を交わそうと真面目努めていた。「あの……」呼びかけは強弱の強を前に、後ろ小さく、俯いて息を吐いた。深呼吸をしたくても思うままにはついていけず、頑なに心縛られていた。
「どうしたことか? もう身体は充分に良いのか。そうだ、そら」
「え」
突然に、光魄が手を上げて珠玉を驚かせていた。光魄は放り投げてよこしたのだ、白い布包みに隠された、ごつごつとした表面を持つその袋を。「これは」珠玉は腰を曲げて刹那に目を閉じてしまってはいたが、すぐに開けて両手、手の平に載った重みを、しかと確かに受け取った。
「私の家畜から摂った生薬だ。気にせず、口のなかに入れるがいい。呑みにくいなら噛んでもいいが、苦いかもしれない。好きにされよ」
光魄の施しに珠玉は最初身を如何することも出来ず、光魄と手の上の袋を見比べていた。光魄は会話を続けたくと、珠玉を見つめ、関心を半ばそちらへと移すに至る。
「何か申してみよ」
光魄の尖り瞳は珠玉には脅威、まるで主君を前に非礼や粗相をしでかしたかの如くで、直ちに場を立ち去り露へと消失したならば酷く幸いだろうと珠玉は身冷えた。
「謝の意を……」
気体に溶け入りそうな聞こえの届かぬ声が、光魄を動かしていた。僅か、数の歩みは双方、体感の温度も変わろう。然し光魄の芯は揺らぐことがない。
「済まぬことだ。怖がらせたつもりは……毛頭なかった。楽に」
土の被った手を差し出、光魄は微笑みを口に含み単に詫びた。珠玉はホッと胸を撫で下ろし、光魄の、血の通うはずの冷たき手を取った、そして首を振る。
「私のような、身分無き、はしたない小娘を此処まで尽くして下さった貴方がたに、どう感謝の意を示せばいいのか……嗚呼、私には考えが及びませぬこと。失礼を……」
力無き手は、まだ光魄の内にあった。「気にせずに。それより、そなたは……」会話は続いた。
「そなたは、何処から来て、何故あのような目に?」
率直な問いは、珠玉の予想範疇だっただろう。時をかけず、表白する。「私は北から……」
「北?」「恐らくは北。東を目指し、まずは砂漠を南へと下りて、そして此処へ……」
「何処で傷を」
「村落が、夜襲を受けたので御座います」
憂色に染まった小さな顔を、光魄は同情の瞳で見つめていた。「逃げて、その傷か」我、その痛みを身に下さればと叶わぬ願いとして愚痴を零し、光魄は「命からがら」とを最後に空を仰いでいた。晴天は、非常に……心安らぐ、と。
光魄の耳に遠くの鷹鳥の、高い音が届いている。ヒィ、ヒョロロ、ヒィ、ヒ……ヒョロ……
穏やかな風が、泥沼の旅人をすくうのだろう。
「此処にいれば良いのだよ。やがては北へと向かうだろう、私の羊たちが、歓迎してくれる」
将来を家畜と共に過ごすと定められた身空は、曇りがなかった。
「そなたも共に」
「良いのですか……?」
「不自由なく。友も、喜ぶだろう」
そう言い終えると光魄は、離れ、生活へと戻って行った。
用があれば妹の愛琳を呼べと伝えて、珠玉は光魄の家族の一員となった。まだ十と二になる珠玉、数えで十四を歳としている光魄。「友……?」と、珠玉はまだ出逢いもない、『友』、その存在を認め合えるよう、光魄は働きかけていたのだった……
……
……出逢いを経て。年月という、時かける。
珠玉は、とても光魄を慕っていた。泣けば親身に、笑えば同じく、怒りは、静まれよと諫められて。上の兄姉の言いつけを徹して守り、下の弟妹の面倒をよく見、年老いていく父母には、育ててくれた恩義を終生、決して忘れないだろう――その光魄という人柄や忠誠心を、まるで貴方という人は石か鋼のようだと――憧れていた。
乾燥した荒涼地を転々と移し、光魄のいる集団は夏にヤギ、冬は羊や馬の肉を食す。家畜のために草を求め水を求めて定住はせず、そのおかげで自然形態を壊さず、また来季に草が生え水が湧くようにと跡形もなく潔く去る。四季か三季を一巡し、数十、数百とも数えられる天然資源は幸いにも極端な増減等はなく、光魄たちは全てにおいて豊かだった。
「さあ珠玉。愛琳と、裏のヤギの乳搾りに出向いておくれ」「はい。今すぐに……あら、そういえば愛琳は何処に行ったのかしら……?」
「ん、ああ、さっき子を放しに上基といたね。呼んできておくれ」「はあい」
今ではすっかりと自分の母にも成っていた光魄の母に甘え答え、珠玉は隣家(とはいっても数キロ先になるが)の上基、今年に齢70にもなる老境を訪ねて愛琳を呼んだ。「あ」そこには背が伸び筋のよい骨格の若者たちがいる。
しかし珠玉の目にとまったのは陽に焼けた髪と肌、凛々しく整った眉と聡明そうな瞳の、……恋慕している光魄だけだった。「どうした珠玉。何、今からそちへ戻る所だ。何用だったか」光魄は、珠玉に近寄り見下ろしながら、足を外へと向けていた。
「愛琳は……呼びに」
「ああ、先に行ったよ。恐らく遊んでいるのだろう。仕方のない奴だ、すまない。私が行こう」
「え……」
「何か気に?」
「いやあのその。いいえ、感謝」
手を胸元で合わせてそれを俯き目で追う小さな体躯の珠玉が、光魄にからかいの動を起こさせた。「珠玉。草を踏むなよ」「へ?」
「草を踏むと、ヤギが夢に出るんだぞ……」
大地を柵で傷めない、家を柱で造らない、草の根は食べ尽くさない、と、自然を守り肩を並べて生きるその様は、突拍子もない伝えをこうして広めていくのである。木の枝を折ることも、許されなかった。
信じた珠玉は、その日から歩きに時間をかけるようになってしまったという。遠くで「うメェェエ」と、ヤギが待ちくたびれていた。
もうじき、時の権力者が、攻めてくる。
上基の孫のひとりである春菊は、何と夫婦の契りを申し込みに珠玉を夜、ラクダの眠る地へと誘いをかけていた。珠玉に跪き、「どうか当方と」と懇願していた。
急であったため混乱した珠玉であったが、きっぱりと断りの念を押していた。首を振り、自らも跪き、「このような私に」と同情を重ねていた、だが。
「耐えられず、御免」
謝絶は受け入れられずに、まだ青い春菊は動悸任せで無理やりに珠玉の身を引き寄せた。「しゅ……」赤熱した抱擁は、珠玉の小ささを明々白々に、焦がれた腕のなかでただ一時の戯れを赦しにと、暫く過ごしていた。
「春菊」「すまぬ。辛いのだ」「ええ……」
大地に、この闇のなかの動物は双方、あまりにも脆弱。光無き暗い視界の先は見えてはいなかった。此処にあるものは常住し、時を放棄したとなれば朝までこの闇は続くのだろう。仄かな香の揺蕩う珠玉の柔らかな胸に頭を埋めたまま、春菊は微動だにしなかった。
毛の先ほどにも気がついておらず、草を踏む失態を犯した若者は、同じ闇の輪のなかで、嘆いていた。
「今宵は夢に私の羊が襲いにくるのか……」
嘆きは誰にも届かず体は揺れて、揺れて……指先だけを天に、足は地に、反った背筋は腹筋を強くし、映らない瞳は、それでも何処かを巡っている。
もうすぐ、その時が来たり、と。
それが幾多の壁となり妨げるのかを、この時、光魄はまだ洗礼を受けてはいなかった。