聖女の名前を消されましたが、神殿の名簿係なので――名を失った神像三百四十二体、まとめて台帳に登録し直します
「ミレイア、お前の名を神籍から抹消する。今日から聖女はソフィアだ」
大神殿の断罪の間。
天窓から落ちる光の柱の中で、王太子レオンハルト・エル・ヴァレンス殿下が高らかに宣言した。所作は美しい。声もよく通る。さすが、演説の上手い方だ。
神官長セルディス様が、羽根ペンを取る。
神籍名簿の、わたしの名が書かれた一行に、すっと横線が引かれた。
「……記載、完了いたしました。名簿第四十三行、横線を引きました」
インクの匂いがした。
ああ、五号のインクだ。乾きが早くて、滲みにくいもの。
「何か言うことはあるか、ミレイア・ヴァント」
ざわめきが止まる。
集まった神官たちが、わたしを見ている。泣くと思っているのだろう。縋ると思っているのだろう。義妹のソフィアが、白い聖女服の裾を整えながら、気遣わしげな顔を作っている。あれは練習された角度だ。
わたしは鞄を開けた。
「承知しました」
「……お姉様? 鞄なんて開けて、何を——」
中から、自分の台帳を取り出す。表紙の革が手に馴染んでいる。ページをめくる音が、静まり返った広間によく響いた。
「では、抹消手続きの受理番号を発行いたします」
「……は?」
殿下が、間抜けな音を出した。
わたしは羽根ペンにインクを含ませ、該当欄に記入していく。日付、事由、申請者、処理者。慣れた手つきだ。何しろ三年間、毎日やっている。
「待て、何を書いている」
「神籍除名、受理番号は——神記第七二三一号。処理日は本日。申請者は王太子レオンハルト・エル・ヴァレンス殿下。……殿下、抹消理由欄が空欄になっておりますが、いかがいたしましょう」
「り、理由だと?」
「規程により、神籍の除名には理由の記載が必要です。『聖女交代のため』でよろしいですか。それとも『本人の資質不足』になさいますか」
「……どちらでも同じだろう」
「いいえ。後者の場合、別途、資質審査記録の添付が必要になります。三週間ほどお時間をいただきます」
「さ、三週間……」
「審査には神官長様と、聖女候補選定委員三名の署名も要ります。本日この場で全員お揃いでしたら、二週間に短縮できますが」
「……せ、聖女交代でいい」
「承知しました」
さらさらと書き込む。
ソフィアが、こらえきれないという顔で一歩前に出た。
「お姉様……泣かないの? わたくし、お姉様のお気持ちを思うと、胸が……」
「ご心配なく。インクが乾くまで、あと十数えるだけですので」
「……え?」
十数えた。複写用紙を剥がし、控えを切り取る。
わたしは階段を数段上がって、呆然としている殿下に、それを両手で差し出した。
「殿下。……あ、こちら控えですので、なくさないでくださいね」
「………………」
誰も何も言わなかった。
羽根ペンを置くかすかな音が、やけに大きく聞こえた。
「……ヴァント。そなた、何を考えている」
神官長の声だった。わたしは振り返り、一礼した。
「神官長様。失礼ながら、名簿の横線が一行ずれております。わたしの行は四十四行目です」
「……なに?」
「四十三行目は、三年前に亡くなられた前任の記録官の方です。訂正印を押しておかれませんと、監査で指摘されます」
「……」
「訂正の書式は第二号様式。わたしが処理いたしましょうか。本日、まだ在籍しておりますので」
「……もういい。下がれ」
「承知しました。それでは、失礼いたします」
背を向けたところで、ソフィアが追いすがってきた。
「……ちょっと、お姉様。待って。何か言うことがあるでしょう? 悔しいとか、ひどいとか」
わたしは足を止めて、振り返った。
「ソフィア。回廊の桶は、東側の物置の二段目です。朝、水を汲むのは夜明け前がよろしいかと」
「……は? 掃除の話? こんなときに、掃除当番の引き継ぎ?」
「……そうですね。掃除当番の引き継ぎです」
「そんなの、下働きにやらせればいいじゃない。わたくし、聖女よ」
「承知しました。——記録しておきます」
「何を?」
「引き継ぎを拒否された旨を。書面に残しておきませんと、後日、誰の責任か分からなくなりますので」
ソフィアは唇を尖らせたが、それ以上は何も言わなかった。
「……おい、ミレイア」
殿下の声は、さっきより低かった。
「はい」
「……お前は、私に何も言わないのか。三年だぞ。一度くらい、助けを求めてもよかっただろう」
わたしは少しだけ考えて、正直に答えた。
「……申請の窓口が、分かりませんでしたので」
「窓口、だと」
「はい。どこに出せばよいのか、三年間、どなたも教えてくださいませんでした。——では、失礼いたします」
断罪の間を出る。
背中で、ようやくざわめきが戻ってきた。何か言い合っている。構わない。
廊下の端に、箒を抱えた老人が立っていた。
「……ミレイアさん。お茶、淹れてありますで。廊下の端に」
「……ありがとうございます、トビアスさん」
「手ぇ、冷たかろ」
「……はい。少し」
碗を受け取って、東の回廊を見上げた。
朝の光の中に、三百四十二体の石像が並んでいる。名を焼かれ、百年放置された、ただの石。
——皆さんの名前は、ちゃんと書いてありますよ。三百四十二人、全員分。
鞄の中の拓本帳が、ずしりと重かった。
◇
記録課の机に戻って、わたしは真っ先に退職届を書いた。
書式は第三号様式。提出先は神殿人事局。受理印を押すのは——人事局の窓口担当者だが、本日は欠勤である。代理は記録課の窓口担当、つまりわたし。
自分で自分の退職届を受理した。
受理番号、人第四四〇八号。控えは自分の鞄に。
「……規定どおりです」
誰にともなく呟いて、次は引き継ぎ書に取りかかる。
記録課の業務は十七項目ある。洗礼記録の登録、婚姻記録の照合、神籍名簿の更新、教区報告の集計、旧暦資料の保存年限管理——順に書いていく。担当者は後任に引き継がれるだろう。たぶん適当に。でも書かないわけにはいかない。書かなかった業務は、消える。
最後の項目のところで、ペンが少し止まった。
書くべきか。
これは、公式には存在しない業務だ。誰にも頼まれていない。誰にも報告していない。勤務として計上されたこともない。
それでも、わたしは三年間やってきた。
窓の外が白んできている。夜明け前の、あの時間を思い出す。
三年前の冬だった。聖女候補の座から外され、記録課に回され、掃除当番として回廊を割り当てられた最初の朝。わたしは三百四十二体の石像を前に立ち尽くしていた。
名前がない。
台帳にも、名簿にも、どこにも。「無名神像」と一行あるだけ。三百四十二体まとめて一行。
気持ち悪かった。
本当に、それだけだった。
前世——日本という国の市役所、戸籍課。十二年。
死んだのは、閉庁後に転記ミスを一件見つけて、直している最中だった。心臓が止まった。最期に見ていたのは、誰かの名前だった。
だから、たぶんわたしは、ずっとこうなのだ。
台座の裏に手を入れた。指先に、かすかな凹凸があった。摩耗した刻印。読めない。けれど、ある。
翌朝、紙と炭を持ってきた。拓本を取った。一体に一時間かかった。
旧暦の奉納記録は、地下書庫の第七棚、保存年限無期限の箱に入っていた。虫が食っていた。順番がばらばらだった。索引がなかった。
(この名簿、索引がないじゃないですか)
転生してこの神殿に来て、最初に思ったことと同じだった。わたしはため息をついて、索引から作った。
一体目の名が特定できたのは、始めて四ヶ月後だった。
『ヴェルナ』
水を供えて、小声で呼んだ。
「——ヴェルナ様」
石が、淡く光った。
わたしは、その場に座り込んだ。手が震えて、拓本帳を落とした。
光は三秒ほどで消えた。それだけだった。誰も見ていなかった。
でも、わたしは知ってしまった。
この石は、名を呼ばれるのを、百年待っていたのだと。
この国の神の力は、名前に宿る。像は名を刻まれて初めて神格を得る。名を失えば、ただの石になる。
——そして、人も同じだ。神籍名簿に名が載っている者だけが、加護を受けられる。
つまり、名簿を管理する者が、この国の加護の供給線を握っている。
誰もそれを気にしていなかった。名簿係は雑用だと思われていたから。
その日から、毎朝だ。
夜明け前に起きて、桶に水を汲んで、回廊を端から端まで歩く。供えて、呼ぶ。拓本を取る。照合する。また一体、名が戻る。
三年かかった。
最後の一体——三百四十二体目の名が判明したのは、先月のことだ。
『アルケイン』
呼んだとき、石が光って、その朝、王都の井戸が全部、少しだけ澄んだらしい。新聞に小さく載っていた。「聖女ソフィア様の祈りが届いた」と。
そうですか、と思った。
思っただけで、何も言わなかった。
一度だけ、同僚に聞かれたことがある。なんで毎朝あんな石を磨いてるんだ、と。
わたしは答えた。
「名前が分からない人が三百四十二人いるって、戸籍課的に気持ち悪いんですよ」
同僚は「何課だよ」と笑って、それきり何も聞かなかった。
誰も聞かなかった。だから、誰にも報告していない。
ペンを動かす。
引き継ぎ書の最後の行に、わたしは静かに書いた。
『無名神像三百四十二体、日次点呼業務。担当者不在のため、以後停止』
インクが乾くのを待って、書類を綴じた。
拓本帳は、鞄に入れる。
これは神殿の記録ではない。わたしが、勤務時間外に、個人として作ったものだ。
規程第九条。公式記録は神殿所有。ただし業務時間外に個人が作成した調査資料は、私物。
誰も、わたしの早朝作業を勤務とは認めなかった。
三年分、勤務記録には一行も載っていない。
——だから、これは、わたしのものだ。
◇
最終出勤日の朝。
まだ暗いうちに起きて、桶に水を汲んだ。いつもどおり。
回廊の石畳は冷たくて、素足だったら泣いていたと思う。
一体目の前に立つ。
「おはようございます、ヴェルナ様」
水を供える。石が、ほんの少し温かくなる。
「今日で最後です。……名前、間違えずに呼べましたか」
返事はない。石だから。
でも、三年も通っていると、なんとなく分かる。この像は水が多いほうが好きで、あの像は供え方が雑だと光りが鈍い。気のせいかもしれない。気のせいでいい。
二体目。三体目。
カルナ様。ヨエル様。シスラ様。テオドラ様。
名を呼ぶたび、石がひとつずつ、淡く光る。
夜明け前の回廊に、薄い光が点々と灯っていく。誰も見ていない。百年、誰も見ていない。
三百四十二体目の前に着いたとき、空が白んでいた。
「アルケイン様。……今まで、ありがとうございました」
深く頭を下げた。
頭を上げたとき、少しだけ、目の奥が熱かった。泣く前に、桶の水が残り少ないことに気づいて、そちらが気になってしまった。やっぱりわたしは、こういう人間だ。
宿舎に戻って、洗濯物を取り込んだ。昨日干した神官服が、冬の風でかちこちに乾いている。畳んで、荷物に入れる。
固くなったパンを、薄いスープに浸して食べた。
この神殿で最後の食事だ。味は、いつもどおりだった。
荷物をまとめて、最後に記録課へ寄った。
引き継ぎ書を机に置き、鍵を返す。そこに、箒を抱えたトビアス爺が立っていた。
「……嬢ちゃん、辞めるんだってな」
「はい。お世話になりました」
この神殿で、わたしの名前を呼んでくれる人は、爺だけだった。
神官たちは「記録課」とか「おい」としか言わなかった。ソフィアは「お姉様」と呼ぶけれど、あれは役名であって、名前ではない。
わたしは言った。
「トビアスさん。ひとつ、処理し忘れていた案件があります」
机の引き出しから、書類の束を出す。昨夜のうちに作っておいたものだ。
爺のお兄さんの件。
四十年前の流行病で亡くなった。当時の混乱で死亡記録も洗礼記録も残らず、「生まれた証拠がないから、死んだ証拠も作れない」と、四十年間、毎年突き返されてきた案件。
「——旧暦四一〇年の納税台帳を調べました。オーベルン教区、ハウラ地区。トビアスさんのご実家の世帯人数が、四一二年に六人、四一四年に五人になっています」
「……そんなもん、病気で減った数だろ。名前はどこにも」
「同じ年の、教区配給簿です」
二枚目をめくった。
「配給簿は世帯ではなく、個人単位でパンの数を記録しています。四一二年、そのお宅は六個。うち五個は名前が残っています。残りの一個が——『長男』とだけ。名前は書かれていませんが、『いた』ことは記録されている。生まれた証拠は、ここにあります」
爺の箒が、床に落ちた。
「お名前は、トビアスさんから聞いた『ヨナス』で登録します。申立書に拇印をいただければ、親族証言として成立します。——書式は第十一号様式。こちらです」
爺は震える手で、拇印を押した。
わたしは神籍名簿を開いた。末尾の空欄に、丁寧に書き込む。
『ヨナス・オーベルン 登録受理番号・神記第七二三二号』
インクを乾かし、複写を切り取って、爺に渡す。
「——受理いたしました。こちら、控えです」
爺は、何も言わなかった。
箒を拾い上げて、それを抱えたまま、長いこと、深く頭を下げていた。背中が小刻みに揺れていた。
しばらくして、爺は懐から何かを取り出した。
「嬢ちゃん。これ、持ってけ」
古びた、木の匙だった。柄のところが、使い込んで少し擦り減っている。
「兄貴が削ったもんだ。……これで、兄貴も名簿に載ったな」
わたしは、両手で受け取った。
神殿の門を出たとき、鐘が鳴った。朝の勤行の時間だ。
振り返らなかった。
わたしの名は、もう、あの名簿には載っていない。
◇
——翌朝。
王都の中央広場の大井戸から、濁った水が上がった。
浄化の祈祷文は正しく唱えられていた。聖女ソフィアも、神官たちも、手順に一つの誤りもなかった。
それでも水は濁ったままだった。
昼には、治癒院で異変が起きた。
骨折を繋ぐ祈りが通らない。火傷が塞がらない。神官たちは三度、四度と唱え直し、やがて手が震え始めた。
夕方、国境から早馬が来た。
第七結界石、沈黙。
夜、第十二結界石、沈黙。
翌日の朝までに、六枚。
三日後、断罪の間に、再び人が集められた。
今度は、誰も美しい所作などしていなかった。
「聖女なら祈れ!」
レオンハルト殿下が怒鳴った。顔が赤い。
「祈っています!」
ソフィアが叫び返した。白い聖女服の襟元が乱れている。巻き毛が汗で額に張り付いていた。練習された微笑みは、どこにもなかった。
「朝から晩まで祈ってます! 大聖堂で、治癒院で、井戸の前で、ずっと! なのに何も起きないの! わたしのせいじゃない!」
「では誰のせいだ! 加護は聖女の祈りから生まれるのだろう!」
「そうよ! そうなのに!」
ソフィアは、回廊のほうを指差した。
「神官長様が言ったじゃない、『回廊の石像にも祈れ』って! でも無理よ! だって——」
彼女は、泣きそうな顔で叫んだ。
「祈ってます! 像に名前なんてないんだから、呼びようがないじゃない!」
——会場が、静まり返った。
衣擦れの音も、咳払いも、消えた。
その沈黙を破ったのは、広間の隅にいた、分厚い眼鏡の男だった。
宰相ゲルハルト・オーベルン。書類を三束抱えたまま、顔を上げた。
「……呼びようがない?」
「え?」
「失礼。今、『呼びようがない』とおっしゃいましたな」
ソフィアは怯えたように頷いた。
「だ、だって名前がないんですもの。無名神像って、名簿にもそう書いて——」
「では」
宰相は、眼鏡を押し上げた。
「——これまで、誰が呼んでいたのです?」
沈黙が、二度目に落ちた。
今度は、もっと深かった。
「な……」殿下の声が掠れた。「何を言っている、宰相。誰も呼んでいなかったに決まっている。あれはただの石だ。神官長もそう——」
「殿下」
宰相は殿下を遮った。無礼だった。この男がそんなことをするのを、誰も見たことがなかった。
「加護は、三日前まで出ておりました。井戸も、治癒も、結界も。何もかも正常でした。——そして三日前、何が変わりましたか」
「……」
「聖女が、交代いたしました」
「だから、ソフィアの力が足りんのだろう!」
「では、前の聖女の力とは、何だったのです」
宰相は抱えていた書類の束を、どさりと卓に置いた。
「わたくしは三年前、神殿予算の監査で、ひとつ不整合を見つけております。回廊清掃に計上されていない、早朝の人件費。——誰かが、勤務時間外に、毎朝、回廊で何かをしていた。額が小さすぎたので、保留にいたしました」
彼の声が、ほんのわずかに、低くなった。
「……わたくしは、数字を見ておりました。人を、見ておりませんでした」
その時だった。
広間の扉が開いて、神官長セルディス様が入ってきた。
銀の祭服が、乱れていた。手に、一冊の綴りを持っていた。
記録課の、引き継ぎ書。
「……神官長?」
セルディス様は答えなかった。
震える指で、最後のページを開いた。そして、誰にともなく読み上げた。
「『無名神像三百四十二体、日次点呼業務。担当者不在のため、以後停止』」
彼は、三度、読み返した。
「日次……点呼……」
羽根ペンが、彼の手から滑り落ちた。
カツン、と乾いた音がした。
「——あの娘は、三年間」
そこで言葉が切れた。
ソフィアが、きょとんとした顔で言った。
「え? ……お姉様が、何かしてたの? だって、ただの掃除当番じゃない。お姉様、何も言わなかったもの」
誰も、彼女を見なかった。
レオンハルト殿下だけが、妙な顔をしていた。
怒りでも、焦りでもない。もっと別の、初めて見る表情だった。
彼はこのとき初めて、理解したのだ。
ミレイア・ヴァントは、三年間、一度も自分に助けを求めなかった。
——最初から、期待されていなかったのだと。
◇
辺境のカルヴェ村に着いて、三日目の朝だった。
村の外れを歩いていたら、裾を引っ張られた。
見下ろすと、八歳くらいの女の子が、日に焼けた顔でこちらを見上げていた。継ぎの当たったワンピース。村長の孫娘のニナ、と昨日紹介された子だ。
「ねえ、おねえちゃん」
彼女は、道端の苔むした石像を指差した。
「このおじぞうさんのなまえ、なに?」
わたしは、しばらく動けなかった。
誰かに、聞かれたのが、三年ぶりだったからだ。
「……少し、お時間をいただいてもよろしいですか」
「じかん?」
「調べます」
荷物から炭と紙を出した。石像の後ろに回り、苔を手で払う。台座の裏に、指を入れる。
——ある。
凹凸がある。摩耗しているが、刻印だ。
紙を当て、炭を横に寝かせて、ゆっくり擦る。ニナが真横にしゃがみ込んで、息を殺して見ていた。
文字が、浮かんできた。
三文字。旧文字。二文字目が欠けている。
「……ヴェ、ル、ナ」
拓本帳を開いた。王都の回廊、第十七番の像と同じ刻み方だ。同じ工房、同じ時代。旧暦三八〇年代の奉納様式。
わたしは顔を上げて、ニナに言った。
「——ヴェルナ様、とおっしゃるそうです」
石が、淡く光った。
「わあっ!」
ニナが尻もちをついた。それから、ぴょんと跳ね起きて、石像に向かって叫んだ。
「ヴェルナさま! ヴェルナさま、おはよう!」
光が、もう一度揺れた。
まるで、返事のように。
翌朝、村の井戸が澄んだ。
百年濁っていた水だった。村人たちが桶を覗き込んで、ざわめいて、それから村長が震える手でわたしの手を握った。
「あんた、何をしなすった」
「名前を、お呼びしただけです」
村長は、わけがわからないという顔をして、それから泣いた。
それからのニナは、すごかった。
「おねえちゃん、これは!」
「これもなまえある?」
「こっちのいしも! ねえ、こっちも!」
村中の祠を、道標を、畑の隅の石を、片っ端から引きずり出してくる。わたしは毎日、拓本を取った。十一体見つかった。六体は名が特定できた。三体は刻印が完全に摩耗していて、旧暦の記録と照合しても断定できなかった。
「わかんないの?」
ニナがしょんぼりした。
「いいえ。『わかりません』ではなく、『調査中』です」
「ちょうさちゅう?」
「——諦めると、記録は消えます。でも『調査中』と書いておけば、残ります。百年後の誰かが、続きをやってくれるかもしれません」
ニナは、しばらく考えて、こくりと頷いた。
「しょうちしました!」
どこで覚えたんですか、それ。
夜。
借りた小屋で、薄い麦のスープを作った。塩と、野菜の切れ端だけ。
木の匙ですくって、口に運ぶ。柄の擦り減ったところが、指にぴったり馴染む。
窓の外で、虫が鳴いていた。
王都のことは、特に考えなかった。
ただ、三百四十二体のことは、少しだけ考えた。
今朝、誰か、水を供えてくれただろうか。
名前を、呼んでくれただろうか。
呼んでくれていればいい、と思った。
それだけだった。
——その三日後、村の入り口に、黒い馬が止まった。
◇
その男は、村の入り口で馬を降りて、まっすぐこちらに歩いてきた。
身長六尺はある。黒髪に、灰青の瞳。表情が、まったく動かない。
神殿騎士団長アルヴィス・レーンフェルト。『氷の騎士』。顔は知っていた。記録課の窓口に、年に一度、慰霊碑の申請書を出しに来る人だったから。
毎年、突き返されていた人だ。
「ミレイア・ヴァント殿」
彼は、一拍置いてから、わたしの名を呼んだ。
「……はい」
「神殿が、あなたの復職を求めている。同行願いたい」
「お断りいたします」
「了解した」
早い。
「あの、早くないですか」
「断られると思っていた」
彼は、少しだけ目を伏せた。
「……私は、神殿の命令で来た。だが、個人としては、あなたに戻ってほしいとは思っていない。あそこは、あなたを三年間、何だと思っていたのか」
風が吹いた。
ニナが、小屋の陰からこそこそ顔を出して、こちらを窺っている。
「——ただ、一つだけ、聞きたいことがある」
「はい」
「回廊の、あの石像たちのことだ。神官長が言った。『日次点呼業務』と。……あれは、どういう意味だ」
わたしは少し迷って、小屋から拓本帳を持ってきた。
「これです」
渡す。
彼は、表紙を開いた。
一ページ目。第一番、ヴェルナ。拓本、旧暦三八二年奉納、照合済み。
二ページ目。第二番、カルナ。
三ページ目。
めくる。
めくる。
めくる手が、だんだん、遅くなっていった。
三百四十二ページ。
全ての像の、台座裏の拓本。かすれた文字を炭で浮かせたもの。その横に、照合した旧暦記録の出典。日付。わたしの筆跡。
余白には、三年分の書き込みがある。
『第百七番、刻印三文字目判読不能。再調査』
『第百七番、再調査。角度を変えて採拓、成功。ティオラ様』
『第二百十番、水を供えると光が強い。好みかもしれない』
彼は、二百十番のページで止まった。
指で、拓本の擦れた文字を、そっとなぞった。
それから、彼の頬を、涙が伝った。
顔は、まったく動かない。眉一つ動かない。無表情のまま、ぽろぽろと涙がこぼれて、拓本帳の上に落ちそうになって、彼は慌てて帳面を横にずらした。
「……三年も、一人で、これを」
声も、平坦だった。
それなのに、涙は止まらない。
「あの、団長様」
「泣いていない」
「泣いていらっしゃいます」
「目に汗をかく体質だ」
ニナが、小屋の陰から飛び出してきた。
「ないてるおじさんだ!」
「……泣いていない」
その日の夕方。
わたしは、ずっと気になっていたことを聞いた。
「団長様。毎年、慰霊の申請書を出していらっしゃいましたよね」
彼の肩が、わずかに動いた。
「……知っていたのか」
「窓口担当ですから」
「三度、突き返された。前の神官長に。『下級兵は神籍登録の対象外』だと」
彼は、拳を握った。
「十七人だ。国境の第四結界石で、魔獣の群れを食い止めて死んだ。慰霊碑には名がある。だが、神籍名簿には載らない。……だから、あいつらは、死んでも神の加護の外にいる。それが、どうしても——」
わたしは、鞄から書類の束を出した。
記録課を出るとき、私物として持ってきた、予備の様式集だ。
「書式が違っただけです」
「……は?」
「団長様が出されていたのは、第十四号様式『殉職者慰霊申請』です。あれは慰霊碑への刻名の様式なので、神籍とは管轄が違います」
束をめくって、一枚抜く。
「神籍登録は、第十一号様式『故人神籍編入申立』。こちらです。申立人は所属長——つまり団長様ご自身。添付書類は殉職記録の写し一通。団の記録でかまいません。身分の条件は……ありません。規程にも、一行も」
「ない……?」
「ありません。『下級兵は対象外』という条文は、神殿規程のどこにも存在しないんです。わたし、三年かけて全条文を索引化しましたので」
彼は、紙を受け取ったまま、動かなかった。
「お名前、十七名分、こちらに書いてください。字は、わたしが清書しますので、下書きで結構です」
彼は、震える手でペンを取った。
書き始めて、三人目で止まり、しばらく顔を上げなかった。それから最後まで書いた。
わたしは受け取って、記入漏れを確認した。
「——受理いたします。受理番号は、神記第七二三三号。発行日は本日」
控えを切って、差し出す。
「こちら、控えです。なくさないでくださいね」
『氷の騎士』と呼ばれる男が、その場に膝をついた。
顔は無表情のまま、声も上げず、ただ地面に涙がぽたぽたと落ちていった。
「……三分だ」
「はい?」
「三年かかったものが、三分で、終わった」
「書式が違っただけですので」
「あなたは」
彼は顔を上げた。
「あなたは、ミレイア・ヴァントは、なぜ、誰にも言わなかった」
わたしは、少し考えた。
「……誰も、聞かなかったので」
彼は、それ以上何も言わなかった。
そして翌朝、わたしの小屋の前に、炭のような物体が置かれていた。
パンだったらしい。
◇
「拓本帳を、提出していただきたい」
十日後。カルヴェ村の集会所に、大神殿の使節が来た。
先頭に立つのは、神官長セルディス様ご本人だった。銀の祭服。後ろに宰相ゲルハルト様。さらに後ろに、書記官が五人。
「神殿規程第九条。神殿の公式記録は、すべて神殿の所有に属する」
神官長は、淡々と告げた。
「あなたが作成した神像の名簿は、神殿の業務の中で作成された記録である。よって神殿に所有権がある。即時、提出を命じる」
村の集会所の、粗末な板の間。
わたしは座ったまま、机の上の木の匙を少しだけ横にずらした。
「——承知しました。では、確認させてください」
「何を」
「規程第九条の、条文全文です。読み上げてもよろしいですか」
神官長の眉が、わずかに動いた。
「『神殿の公式記録は神殿の所有に属する。ただし、神官が業務時間外に個人の資格で作成した調査資料、覚書、私的筆記は、作成者の私有物とする』」
わたしは、すらすらと続けた。
「——第九条には但し書きがあります。暗記しております。三年前、地下書庫の保存年限を整理していたときに読みました」
「詭弁だ」神官長の声が硬くなった。「あなたの拓本作成は、回廊清掃という業務の一環であろう」
「そのご主張ですと、ひとつ問題が生じます」
「……問題?」
「わたしの勤務記録です」
わたしは、鞄から一冊の綴りを出した。
「退職時に交付された、三年分の勤務記録の写しです。神殿人事局が作成し、神殿が保管しているもの。交付は規程上の権利ですので、受理番号も控えてあります」
開いて、机の上を滑らせた。
「ご覧ください。わたしの勤務開始時刻は、三年間すべて『第二鐘』——朝八時です。一日たりとも例外はありません」
「それが、何だと」
「拓本作業は、夜明け前です。第一鐘の、さらに二時間前」
わたしは、ページをめくっていった。一枚、二枚、三枚。
「三年間。千と八十日ぶん。早朝の作業時間は、一分たりとも勤務として計上されていません。残業手当の記録もありません。業務日誌への記載もありません。清掃当番の割り当て表を確認しても、回廊の担当時間は『第三鐘から第四鐘』——午前中です」
顔を上げた。
「神殿は、三年間、一度も、あれを業務と認めなかった。——神殿自身の記録が、そう言っています」
沈黙が落ちた。
宰相ゲルハルト様が、分厚い眼鏡の奥で、ゆっくり目を細めた。
そして、抱えていた書類の束から一冊抜いて、確認し、神官長に向かって短く告げた。
「……神殿の記録が、神殿に不利な証拠になっております」
「……」
「神官長。この主張は、通りません。規程第九条但し書きの適用要件を、すべて満たしております。——なるほど」
宰相が、小さく唸った。
その一言で、空気が変わった。
書記官たちが、互いに目配せをした。神官長の手が、祭服の裾の上で止まった。
わたしは、声を荒げなかった。
荒げる理由がなかったからだ。
「——皆さんが三年間、わたしの仕事を仕事と認めなかった。その記録が、そっくりそのまま証拠になりました」
誰も、何も言わなかった。
板の間に、外の鶏の声だけが聞こえた。
やがて、神官長が深く息を吐いた。
銀の祭服の肩が、ひどく小さく見えた。
「……あなたは、何を望む」
「復職はいたしません」
「では」
「代わりに、三つ」
わたしは、書いておいた紙を広げた。
「一つ。『国立神名登録所』の設置。神殿の下部機関ではなく、王国直轄の独立機関として。神籍名簿と神像台帳の一元管理を行います」
「二つ。初代所長の席。わたしが就きます。人事権と、受理番号の発行権限を含みます」
「三つ。全国の無名神像の再登録事業の予算。初年度分の試算は、こちらです。拓本用紙、炭、旧暦記録の修復費、調査員の人件費——人件費は、きちんと計上してください。夜明け前の分も」
紙を、机の中央に置いた。
「お断りになっても構いません。その場合、王都の加護は戻りません。わたしは村で、石の名前を調べて暮らします。——困るのは、わたしではないので」
静かな部屋だった。
神官長は、長いこと紙を見つめていた。
それから、懐から羽根ペンを取り出した。わたしの名前に横線を引いた、あのペンだ。
彼は、それを机の上に置いた。
「……署名は、どこにすればよろしいか」
「下の欄です。日付も、お願いいたします」
神官長が署名し、宰相が副署した。
わたしは書類を受け取り、確認し、複写を剥がした。
「——受理いたしました。受理番号は、設第〇〇〇一号」
控えを、両手で差し出す。
「こちら、控えですので。……なくさないでくださいね」
神官長は、その紙を、震える指で受け取った。
部屋の隅で、アルヴィス様が、無表情のまま滝のように泣いていた。
ニナが心配そうに彼の袖を引いて、言った。
「おじさん、またみずもれしてる」
◇
——一年後。
王都の東区、石造りの小さな建物。
入り口の看板には、こう書かれている。
『国立神名登録所』
『該当神像、ただいま検索いたします』
朝八時。窓口の鎧戸を開けると、もう五人並んでいた。
「お待たせしました。順番待ちの札をお取りください」
札を配っているのは、トビアス爺とニナだ。
爺の胸には、小さな名札が下がっている。『トビアス』とだけ書かれたもの。初めて名札を受け取った日、爺は人前で少し泣いて、それから一日中、何度も胸元を見下ろしていた。
ニナは八歳から九歳になった。見習い職員である。字を覚えるのが異常に速い。
「しょうちしました! つぎのかた、さんばんのふだのかた、こちらへどうぞ!」
完全に口癖が移っている。
窓口に座ると、最初の客は、南部から来た村の代表だった。
風呂敷包みから、すり切れた拓本を三枚出す。村の祠の台座裏を、見よう見まねで取ってきたらしい。
「あの、これ、名前……わかりますかね」
「拝見いたします」
光にかざす。二枚目は、かなり綺麗に取れている。
「一枚目、旧暦三九〇年代の奉納様式ですね。照合いたしますので、二週間ほどお時間をいただきます。二枚目は——あ、これは判明しております。『サリナ』様です」
「サリナ……」
「三枚目は、刻印の摩耗が激しいです。ただ、諦める必要はありません。『調査中』として台帳に載せます。角度を変えた採拓で判明する例が、去年だけで十九件ありました」
「調査中……」
「記録が残っていれば、いつか誰かが続きをやれます。——受理番号を発行いたします。こちら、控えです。なくさないでくださいね」
男は控えを両手で受け取って、何度も頭を下げて帰っていった。
大神殿の回廊には、今、三百四十二枚の名札が下がっている。
朝の光の中で、小さな木札が並んで揺れている。
点呼業務は、三人体制になった。きちんと勤務として計上されている。夜明け前の分も。
名簿の末尾には、二つの記載が追加された。
『ヨナス・オーベルン』
そして、国境第四結界石で死んだ、十七人の名。
セルディス前神官長は、設置文書に署名した後、職を退いた。
退任の日、彼は回廊を歩いて、三百四十二体の名札を、一つずつ声に出して読んだそうだ。
読み終えるのに、二時間かかったという。
宰相ゲルハルト様は、登録所の予算書の末尾に、こう書き添えた。
『担当者不在による国家的損失、再発防止のため』
あの方は、二度と小さな不整合を保留しない。月に一度、分厚い眼鏡で登録所の台帳を点検しに来る。先週は三箇所の記入漏れを見つけられた。わたしの負けである。
——そして。
レオンハルト前王太子殿下は、加護停止の責任を問われて廃嫡された。
ソフィアは、『祈りが届かない聖女』として神籍名簿から除籍された。
二人は今、辺境の小さな神殿で、石像の掃除当番をしている。
先日、その神殿から報告が上がってきた。
石像は、光らないそうだ。
当然である。名を知らないのだから。
報告書には、こんな一行があった。
『清掃者の一名が、台座裏に拓本の痕を見つけ、半刻ほど動かなくなった』
わたしは、その一行に目を留めて、少し考えて、台帳に淡々と書いた。
『受理。特記事項なし』
それだけだ。
昼休み。
登録所の裏手の小さな台所で、鍋のスープを温める。
テーブルには、パンが置かれている。
一年前は炭だった。半年前は石だった。今は、いちおう、パンの形をしている。少し硬い。
「ミレイア・ヴァント」
アルヴィス様が、一拍置いてから、わたしの名を呼ぶ。
彼は必ずフルネームで呼ぶ。わたしが『名を呼ばれない人』だったと知ってから、ずっと。
「今日のは、どうだ」
わたしは、木の匙でスープをすくった。
パンを浸して、口に運ぶ。
柄の擦り減った、古い木の匙。トビアス爺のお兄さんが、四十年以上前に削ったもの。
「——美味しいです」
彼の顔は、まったく動かなかった。
無表情のまま、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「泣いていない」
「泣いていらっしゃいます」
「……美味しいって、言ってくれた」
「毎日言っていますが」
「毎日、嬉しい」
窓の外で、ニナが爺と札の数を数えている声がする。
午後の部の分が足りない、と騒いでいる。三十枚追加しよう。予算は通る。宰相様が通してくれる。
午後一番の鐘が鳴った。
わたしは匙を置き、エプロンを外し、窓口に戻る。
鎧戸を上げると、カラン、とベルが鳴った。
誰かが、立っている。
拓本を一枚、大事そうに胸に抱えて。
わたしは顔を上げて、微笑んだ。
「お待たせしました。——お名前、伺ってもよろしいですか?」




