司令官の仕事と責任
仕事には責任が付き物だ。責任を取るために死なねばならぬこともある。
陸軍大将の松井石根は、そういった例に該当する一人だ。
一九三七(昭和十二)年八月、中華民国(中国)との戦争である第二次上海事変が勃発すると、彼は上海派遣軍司令官に任命された。
この人事は彼にとって青天の霹靂だったろう。
彼は一九三五(昭和十)年に現役を引退し予備役に編入されている。有事であるからには退役軍人の職場復帰は避けられないことであるが、軍司令官という重要な地位を任されるのは尋常ではない。その重責を担うのは一度引退した者でなく現役の将軍が適任である。
しかし陸軍きっての中国通と目された彼以外に適任者はいないと判断されたのだ。孫文や蒋介石との交流があり彼らに共鳴して辛亥革命を支援するまでに中国と深く関わっていた彼を除いて、この難局に対処できる将官はいなかったのだろう。余人をもって代えがたいと自分が評価されたのであれば、行くしかあるまい……と、彼が決断したとしても無理からぬ話である。
だが、やはり無謀だった。激戦の続く中で彼は病魔に冒されてしまう。マラリアに罹患したのである。彼の代わりはいないので彼が戦うしかない。一度引き受けた仕事である。命に代えても終わらせねばならない義務と責任があるのだ。マラリアの高熱に苦しめられながら軍を進め、遂に上海一帯を占領したが、日本軍の死傷者は四万人近くにまで及んだ。
それでも戦いは終わらない。日本軍は敵の首都である南京へと進撃し……そして起きたのが南京大虐殺である。
松井石根は、この戦闘に参加していない。病床にあり前線で指揮を執れる状況ではなかったのだ。
そんな状態だったが彼は南京攻撃前に部下の将兵に対し不法行為を厳しく戒める訓令を発している。
だが、この命令は全く守られなかった――南京攻略戦における中国側の犠牲者は、数万人とも四十万人以上とも言われている。
南京攻略後、彼は帰国し予備役に戻り熱海市伊豆山での隠遁生活に入った。その土地に彼は日中両国の戦争犠牲者を弔う仏像を建立し、毎朝の読経を日課としていたという。
そこには、どのような思いが込められていたのか。日本への帰国後、彼は雑誌の取材に対し、こう語っている。
『(前略)上海に居た当時、内地の小学生等から「支那を大いに討ってくれ」とか「支那人を皆殺しにして下さい」とかいう手紙が続々と届けられた。(中略)今後の大陸政策というものは、真に支那の実体を認識し、真に之を憐み愛撫するという気持を徹底化しなければならぬと思う。事変前より支那再認識論が云々されていたが、この愛撫の精神に徹底することこそ、皇道精神、武士道精神である。(後略)<文藝春秋100周年 文藝春秋が見た戦争と日本人>より引用』
欧米列強からのアジア解放のためには日中の提携が必要不可欠であると唱えていた彼にとって、日中戦争の拡大は我が身を切り裂かれるような痛恨事であったことだろう。しかし、明けない夜はない。一九四五(昭和二十)年八月十五日、日本が中国を含む連合国に無条件降伏したことで日中戦争は終結した。
松井は戦争犯罪人として逮捕され極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑を宣告される。彼が司令官を務めた南京攻撃部隊による不法行為を防止できなかったことが死刑判決の理由だった。軍司令官として自らの軍隊を統制し南京市民を守る義務と責任がありながら、それを怠り大量虐殺を招いたことが責められたのである。
一九四八(昭和二十三)年十二月二十三日深夜、巣鴨プリズンにおいて松井石根の絞首刑は執行された。




