第27話 黒山軍②
帳の外。
冷たい風が、低く地を撫でていく。
乾いた土の匂いが、わずかに混じっていた。
麻袋が、高く積まれていた。
一袋、また一袋。
――百五十石。
黒山軍の兵たちが、行き来しながら運び、数を確かめていた。
袋を叩く者。
しゃがみ込んで重さを量る者。
「……数は合ってる」
最後の一袋が、どさりと地面に置かれた。
振り返り、声が飛ぶ。
「牛角兄、確認を頼む!」
牛角は、ゆっくりと前へ出る。
視線を、一袋ずつ丁寧に巡らせた。
「……この袋は、東の畑の分だったな?」
傍らの兵が、きょとんとした。
「は、はい……あそこは一番作りにくい土地で……」
牛角は、別の袋へと視線を移す。
「こっちは……先月の収穫分か?」
「ええ……あのときは、あと少しで食い詰めるところでした」
風が吹き抜け、
積まれた麻袋が、かすかに揺れる。
牛角は、舌打ちをひとつ。
「……チッ」
その眼差しが、ゆっくりと冷え込んでいった。
「この食糧はな……」
「俺たち黒山軍が、一鍬一鍬、土を掘り返して手に入れたもんだ」
「それを、あのクソどもに差し出すってのか?」
――誰も、口を開けなかった。
牛角が、ふいに低く問う。
「……納得できるか?」
周囲の者たちの顔色が、わずかに変わる。
そして、目を伏せた。
「……で、できません」
「ですが、頭がすでに――」
言い終えるより早く――
「――シュッ!」
一閃。
刃が横薙ぎに走る。
――次の瞬間。
麻袋が、真っ二つに裂けた。
「ザァッ――!」
中身の穀物が、一気に地面へと溢れ出した。
「牛角兄!?」
「な、何してるんですか――!」
兵たちは一気に動揺し、
反射的に止めに入ろうとする。
だが牛角は、その場から一歩も動かなかった。
こぼれ落ちる穀物を、じっと見下ろしている。
声は、低く冷え切っていた。
「……おい、お前ら」
「袋ごとに、少しずつ抜け」
一瞬、言葉を切る。
口元に、わずかな歪みが浮かんだ。
「その分――砂を詰めろ」
その一言が落ちた瞬間。
周囲は、凍りついたように静まり返る。
兵たちは、顔を見合わせた。
――誰も、動かない。
無意識に、帳の方へ目を向ける者。
刀の柄を握り締める者。
「そ、それは……まずいんじゃ……」
誰かが、小さく呟く。
「もし、バレたら……」
言葉は、尻すぼみに消えていった。
牛角は、鼻で笑った。
「……あのクソどもが」
ぺっと、地面に唾を吐き捨てる。
「中に糞を混ぜたってな」
「奴らは黙って飲み込むしかねえんだよ」
口元が、ゆっくりと歪む。
「どうした?」
「まさか、本気であいつらをまともだと思ってるわけじゃねえだろ?」
「この食糧だって、あいつらは何の疑いもなく平然と持っていく」
「それを、俺たちが少し細工しただけで――」
「生きていけなくなるってのか?」
牛角は、いきなり足を振り下ろした。
「ドンッ!」
踏みつけられた穀物が、ばらばらに飛び散る。
「奴らが見てるのは“数”だけだ」
声は、徐々に低く落ちていく。
だが、その分だけ重く沈んでいった。
「……俺たちが欲しいのは」
「生き延びるための道だ」
空気が、ぴたりと固まる。
やがて――
誰も何も言わなくなった。
兵たちは、黙って短刀を抜き放つ。
次の瞬間、
人の流れが一斉に動き出した。
袋を裂く者。
砂を運ぶ者。
周囲を警戒しながら、小声で急かす者。
営地全体が、鼠の群れみたいに動き出す。
せわしなく物資を動かし始める。
遠くから風が吹き込み、
細かな砂の音を運んできた。
牛角は、その場に立ったまま。
不機嫌そうに顔をしかめる。
「おい、そこのやつ」
「俺と来い。武器庫で装備を整えるぞ」
――その夜。
抑え込まれていたざわめきは、
確かに、営地の中で広がり始めていた。
——————————翌日————————————
夜明け前。
営地は、まだ薄い霧に包まれていた。
遠くの山影がぼんやりと浮かび、
空気はひどく冷たい。
帳と帳の間では、すでに兵たちが動き始めていた。
足音は、極力抑えられている。
昨日積み上げられた食糧袋は、
営地の外に整然と並べられていた。
外見からは、何の異変も感じられない。
やがて――
遠くから、馬の蹄の音が響いてきた。
ゆっくりと、だが確かな圧を伴って近づいてくる。
霧が踏み散らされ、
人影が次第に浮かび上がった。
先頭に立つのは、数騎の騎馬。
甲冑が鈍く光り、威圧感を放っている。
次の瞬間――
鋭い声が、谷間に響き渡った。
「朝廷軍、到着――!!」
その声が、山々に反響する。
「天子の勅を奉じ――黒山寨へ食糧徴発に参った!」
「準備は整っているか――!?」
声の波が、営地をなめるように走り抜けた。
帳の内外が、一瞬で静まり返る。
多くの者が、思わず手を止めた。
縄を握る手に、力がこもる者。
俯いたまま動かない者。
空気が、ぴんと張り詰める。
営門の前で、人垣がわずかに割れた。
その間から、張饒が姿を現す。
衣は簡素で、甲冑は身に着けていない。
門前に歩み出て、足を止める。
視線はまっすぐに、相手の官吏へと向けられた。
その男は、白く整った顔立ちをしていた。
だがその眼差しには、露骨な見下しが宿っている。
背後には――
精鋭の甲冑に身を固めた兵が、隙なく隊列を組んでいた。
ざっと百はいる。
空気が、さらに重く沈む。
――こいつ、本当に取りに来ただけか……それとも、最初から斬る気で来てるのか。
張饒は、淡々と口を開いた。
「朝廷のご所望とあらば――」
「我らとて、怠るわけには参りません」
官吏は、整然と積まれた食糧袋を一瞥した。
「――検めよ」
一声が落ちる。
数名の兵が前へ出て、袋を開き、重さを量り、数を取る。
動きに一切の無駄はない。
時間が、じわじわと流れていく。
やがて、兵の一人が振り返り、拳を合わせて報告した。
「ご報告いたします――」
「総計、百五十石」
その瞬間。営地の空気が、少しだけ緩んだ。
官吏の眉が、ぴくりと動く。
視線が、張饒へと突き刺さる。
「……二百石ではなかったか?」
張饒は、目を逸らさなかった。
ただ、わずかに頭を下げる。
「残り五十石は、まだ用意が整っておりません」
「今年は収穫が芳しくなく、我らもどうにか命を繋いでいる有様で……」
「これ以上差し出せば、この寨の者は飢え死にしかねません」
営地は、静まり返っていた。
多くの者が俯き、
指先に力を込めている。
官吏の表情が、徐々に険しさを増していく。
声は、冷えきっていた。
「……値を吊り上げるつもりか?」
「それとも――天子の勅命を、軽んじているのか?」
空気が、一気に張り詰める。
張饒は、すぐに片膝をつき、手を組んだ。
「そのような意図は、決してございません」
「ただ、三ヶ月の猶予を賜りたく存じます」
「残り五十石は、必ずや補ってお納めいたします」
一息置き、
さらに続ける。
「もしご不満であれば――」
「この身、自ら朝廷へ赴き、直に申し開きをいたします」
官吏は、一瞬きょとんとした。
だが次の瞬間、表情が一気に冷え込む。
「……お前が?」
その声音には、露骨な嘲りが滲んでいた。
「朝廷に入る、だと?」
鼻で笑う。
そして、声を一段と張り上げた。
「朝廷がどのような場所か――分かっておるのか!?」
「天子の御座す、至高無上の地だぞ!」
その視線が、黒山軍の面々を舐めるように巡る。
「貴様らごときが、朝廷を口にするなど――身の程を知れ!」
「この天下、すべては天子のもの」
「貴様らは、その上に群がる虫けらにすぎぬ!」
「その身で踏み入るなど、思い上がりも甚だしいわ!」
――空気が、張り詰める。
黒山軍の面々の顔色が、瞬時に変わった。
歯を食いしばる者。
指先が白くなるほど拳を握る者。
無意識に刀の柄へ手をかける者。
その侮辱は、火のように人々の中へと広がっていく。
「……向こうが奪いに来てるくせに……」
「なんで、俺たちが責められなきゃならねぇ……」
兵の一人が、押し殺した声で呟いた。
そのとき、官吏の目が、わずかに揺れた。
張饒を見据えながら、内心で素早く計算を巡らせる。
――朝廷の指示は、本来五十石のみ。
もしこの男が本当に訴え出れば……
事が大きくなれば、こちらも面倒になる。
思考が、一瞬で巡る。
やがて、静かに息を吐いた。
瞳に宿っていた怒りが、ゆっくりと引いていく。
「……ふん」
「よかろう」
「辺境ゆえ、今回に限り見逃してやる」
「だが三ヶ月後――」
「再び不足があれば、その責はすべて貴様らが負うことになる」
その言葉が落ちた瞬間、
営地のどこかで、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
――だが。
次の瞬間。
官吏が、ふいに手を上げる。
「待て」
場が、ぴたりと止まった。
兵の一人が、後方から細長い鉄棒を持ってくる。
先端は鋭く、冷たい光を放っていた。
それを、袋へと軽く突き立て――
引き抜く。
掌に広げた中身。
砕けた穀粒の中に――
灰色の異物が混じっていた。
――砂。
一瞬で、空気が凍りついた。
官吏の顔色が、一気に沈んだ。
声は低い。だが、底冷えするような冷たさを帯びている。
「……これは、何だ?」
張饒の瞳が、わずかに揺れる。
明らかに動揺し、思わずその袋へと視線を落とした。
「……これは……なぜ……」
言葉が、途切れる。
そして、ゆっくりと横へ視線を移した。
牛角が、そこに立っている。
微動だにせず。
表情は変わらない。
むしろ、押し殺した殺気を滲ませたまま、
官吏を冷ややかに睨みつけていた。
弁解も、回避もない。
隠すつもりなど、最初からないと言わんばかりに。
張饒の眼が、わずかに変わる。
――理解した。
だが、口を開くより早く――
官吏の顔が、さらに歪んだ。
「この無礼者どもがッ!!」
怒声が、叩きつけられる。
「朝廷を欺き、砂を混ぜて誤魔化すとは――!」
「貴様らの居る地も、食らう糧も、すべて朝廷の恩恵だ!」
「寄生する獣風情が、命に背き、上を欺くなど――身の程を知れッ!!」
その言葉が終わるより早く。
張饒が、勢いよく顔を上げた。
押し殺していた怒りが、ついに弾ける。
「――ふざけるなッ!!」




