第14話 誘拐
朝の陽光が障子を透かし、窓越しに朝の陽光が差し込み、
柔らかな光が床板の上に淡い影を落としている。
一晩、夢も見ずに眠り、万里はただ、この眠りがひどく穏やかな眠りに感じられた。
長いあいだ忘れていた、ごく当たり前の朝という感覚さえ、どこか戻ってきたような気がした。
意識がまだはっきりしないまま、彼は無意識に手を動かす。
だが、その手に何か妙な感触が触れた。
柔らかく、わずかに弾力がある。
ぼんやりしたまま、軽く握ってみた。
……手触り、意外と悪くない?
もう片方の手も、同じような柔らかさを掴んでいた。
同じように柔らかく、同じようにわずかな弾力がある。
その瞬間、万里の意識が一気に覚醒した。
脳裏に、とんでもない想像がよぎる。
「……?」
万里の全身が、石になったように固まった。
心臓の鼓動が、急激に速くなる。
……まさか?
いや、そんなはずないだろ……?
彼は勢いよく目を見開いた。
思わず声が飛び出す。
「す、すまん甄宓!わざとじゃ――」
言い終える前に。
彼は、目の前の光景をはっきりと認識した。
寝台の上に、甄宓の姿はない。
自分が抱きしめていたのは、きちんと整えられた枕。
そして両手には――
それぞれ、ふっくらとした饅頭が握られていた。
空気が凍りついた。
万里は左手の饅頭を見た。
次に、右手の饅頭を見た。
二秒ほど沈黙し、ゆっくりと窓の方へ視線を向ける。
窓は大きく開け放たれていた。
朝の風に揺られ、木の窓枠がかすかに軋む。
ぎぃ……
数分後。
甄俨は甄宓の寝所に立ち、窓の様子を入念に確認していた。
障子紙の一角は裂け、縁にはごく細かな断裂の痕が残っている。
窓の桟周辺もわずかに乱れており、ここから誰かが出入りした形跡が見て取れた。
「……間違いない。甄宓は何者かに連れ去られている」
そう言って、すでに燃え尽きた檀香へ歩み寄る。
指先で香灰を少量つまみ、静かに匂いを確かめた。
その香りに、彼はわずかに眉をひそめる。
「断魂香か。半刻もあれば意識を奪う類の香だ」
傍らに置かれた香盒へ視線を移す。
「箱は、我が甄家が普段から使っている店のものだが……」
「中身の香は……」
「別物だな」
「すり替えられている」
事態を整理する間もなかった。
その時――
門の外から、慌ただしい足音が響いてきた。
続いて、官兵がほとんど転び込むように庭へ駆け込んでくる。
呼吸は乱れ、鎧の札がぶつかり合って硬い音を立てていた。
礼を取る間もなく、片膝を地に突く。
「甄俨様!!」
「城内にて騒ぎが発生しております!!」
甄俨はわずかに眉をひそめた。
「何事だ、そのように取り乱して」
「落ち着け」
衛兵の顔は血の気を失っていた。
「申し訳ございません!甄俨様!」
「董卓軍が……およそ二千人、すでに城内へ侵入しております!!」
「略奪と殺害を始めております!!」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が凍りついた。
甄俨は、すぐには口を開かなかった。
聞き取れなかったのか。
それとも、聞き取った内容を理解できなかったのか。
彼はゆっくりと振り向く。
「……誰だ?」
衛兵の声が震える。
「董卓軍です!!!」
「董の軍旗を掲げております!!」
「城門の守兵は不意を突かれ、たちまち突破されました!!」
「民は四方へ逃げ惑い――」
「市はすでに大混乱です!!」
万里がはっと顔を上げた。
「董卓軍だと?」
「この流れじゃ……あいつはとっくに死んでるはずだろ?!」
「誰が董卓軍を騙ってるんだ?!」
衛兵は切迫した声音で答える。
「間違いなく董卓の旗を掲げております!!」
「先頭に立っているのは――郭汜、李傕!!」
「現在、城内にて住民を殺戮し、財物を略奪しております!」
「多くの商家がすでに焼き払われております!!」
「甄俨様!!早急なご指示を!!」
甄俨は沈黙したまま、ゆっくりと拳を握りしめた。
指の関節がわずかに強張る。
甄俨の脳裏に、瞬時にいくつもの可能性が浮かんでは消えた。
董卓はすでに没している。
郭汜も李傕も、とうに敗れているはずの存在だ。
本来なら、とっくに歴史の中へ消えているはずの勢力が、
なぜ今になって無極城へ現れたのか。
それだけではない――
甄宓が失踪した直後に、旧董卓軍の旗が城内に現れた。
事態は、すでに制御の及ばぬ方向へと傾き始めている。
その重圧が、甄俨の胸が強く締めつけられる。息が詰まりそうだった。
その時、万里が一歩前へ出る。
「三十人寄越せ」
「奴らの将を斬る」
「残りは、勝手に崩れる」
室内の者たちは思わず顔を見合わせた。
甄俨が万里へ視線を向ける。
「……自分が何を言っているのか、分かっているのか?」
万里は長槍を手に取った。
「他に選択肢はないだろう」
「その間に、総動員で甄宓を捜索しろ」
「袁熙の軍は、いつ到着する?」
甄俨はしばし思案する。
そして、ゆっくりと答えた。
「日没の頃だ」
「だが……相手は董軍の名のある将だ。本当に勝算はあるのか?」
万里の表情は変わらない。
「ただの小賊が二人だ」
そう言いかけて――
ふと、言葉を止めた。
その瞳の奥に、ごくわずかな逡巡がよぎった。
李傕と郭汜だけであれば、確かに脅威とは言えない。
だが問題は――
この世界が、必ずしも本来の歴史に従っているとは限らないということだ。
再び現れても、おかしくない。
だとすれば、
董卓配下の、あの本当に危険な人物も……
万里は、それ以上考えるのをやめた。
一方で、甄俨はすでに決断を下していた。
「万里」
「もし董軍を退けることができたなら――」
「この甄俨の名において、相応の金銀財宝を与えよう」
「……もし失敗した場合は」
そこで一度、言葉を切る。
「甄宓を見つけ、この地を離れろ」
「 秦祢」
軽装の鎧を身に着けた女性の士官長が、すぐに一歩前へ出た。
「はっ」
甄俨は低く命じる。
「精鋭の歩兵を三十名選び、万里殿に随行させよ」
「必ず熟練の者のみを選べ。誤りは許さぬ」
秦祢は拳を合わせる。
「承知しました」
甄俨は万里へ視線を向ける。
その声音は、先ほどよりも一層重みを帯びていた。
「……頼んだ」
万里は小さく頷き、長槍を背に斜めに担ぐ。
そのまま 秦祢とともに部屋を後にした。
ほどなくして。
秦祢は三十名の精鋭刀兵を整列させ、庭に待機させていた。
万里はその様子を一目見て、素直に口にする。
「規律が行き届いてるな。悪くない」
秦祢はその場で片膝をついた。
「一つ、申し上げたいことがございます。無礼があれば、お許しください」
万里はやや意外そうに眉を上げる。
「構わん」
「いいだろう。 秦士官長、言ってみろ」
秦祢は姿勢を崩さぬまま、静かに続けた。
「此度の戦、敵は董軍、数は千を超えております」
「対して我らは三十」
「おそらく……此度は、生きては帰れぬ戦となりましょう」
そこまで言うと、 秦祢は立ち上がり、背後に整列した兵たちへ視線を向けた。
「我らは甄家に仕えて、すでに数十年」
「甄家は我らを厚遇してくださった」
「ゆえに、命を賭して戦うこと自体に異存はありません」
「ただ――」
「ただ?」万里が問い返す。
「もし先ほどのお言葉が、甄俨様の前での虚勢に過ぎぬのであれば……それもまた理解できます」
「しかし、もし董軍を退ける確たる見込みがおありでないのなら」
「我らは、我らなりの戦い方で最期を迎えたいのです」
「どうか、ご理解ください」
万里は顎に手を当て、しばらく考え込んだ。
ふむ……
なるほど……
自分たちの望む形で戦って、死にたい……ということか……
兵たちへ視線を向けた。
その眼差しは揺らがず、確かな覚悟が宿っていた。
「分かった。だが――」




