第12話 花火
二人が細い路地を抜けると、夕陽の光が再び通り一面に広がった。
先ほどまで漂っていた鉄と炭火の匂いは、いつの間にか町の喧騒に溶け込み、通りには人の流れと威勢のいい呼び声が溢れていた。ときおり子供たちが追いかけ合ってはしゃぐ姿も見え、先ほどのひっそりとした鍛冶屋とは、まるで別の世界のようだった。
万里は腹をぽんと軽く叩き、やけに真面目な顔で言った。
「お嬢様、このまま飯にありつけなければ、護衛が餓死します」
甄宓はわずかに眉を寄せる。
「あなたという人は……たいして働いてもいないのに、もう食事の話ですか」
言い終えた、その直後。
彼女の腹が、あまりにも素直に音を立てた。
ぐぅ——
決して大きくはないが、妙にはっきりと響いた。
二人の間に、わずかな沈黙が落ちる。
万里はゆっくりと顔を向け、にやりと口元を歪めた。
甄宓の頬がわずかに熱を帯びた。
すぐに手を上げ、少し離れた酒肆を指し示す。
「……食事に行きましょう」
声は平静を装っていたが、足取りはいつもよりほんの少しだけ速かった。
辿り着いたのは、小綺麗な食事処だった。
入口には布暖簾が掛けられ、そこには「食肆」の二文字が記されている。店内は人の話し声で賑わっており、繁盛している様子がうかがえた。
二人が中へ入ると、店員がすぐに歩み寄ってくる。
「お二人様、どうぞこちらへ」
甄宓は窓際の席を選び、静かに腰を下ろした。
万里も席につくや否や、間髪入れず口を開く。
「もう蒸餅以外のものを食べてもいいですか?」
声には、はっきりと懇願の色が滲んでいた。
甄宓は小さく息をつく。
「構いません」
「好きなものを頼んでください」
その言葉を聞いた瞬間、万里の目がぱっと輝いた。
「ダック」
「チキン」
「蒸し魚」
「それと、炒めた野菜も」
甄宓はわずかに目を瞬かせた。
特に何も言わず、店員へ軽く頷く。
「今の注文で」
店員はにこやかに応じた。
「かしこまりました」
料理は驚くほど早く運ばれてきた。ほどなくして、卓の上は皿で埋め尽くされる。
鴨の焼き物は、皮に艶のある照りが浮かんでいる。
鶏の焼き物からは、香ばしい匂いがふわりと立ちのぼる。
蒸し魚は白く、身はやわらかそうにほぐれていた。
傍らには青菜の炒め物がいくつか並び、
湯気とともに、濃厚な香りが卓の上にゆっくりと広がっていく。
万里は遠慮もなく、さっさと箸を伸ばした、とばかりに、さっさと箸を伸ばして食べ始めた。
甄宓は思わず、信じられないものを見るような表情になった。
――この時代に、主より先に箸をつける護衛がいるなんて。
しばらく食事を続けていると、周囲の客たちのひそひそとした話し声が耳に入ってきた。
「聞いたか?」
「城の外で何かあったらしい」
「今朝、農民が知らせに来たとか」
「畑のあたりで、白い頭巾をつけた連中を見たって話だ」
「白い頭巾?」
「流れてきた賊か何かじゃないのか?」
「最近は物騒だからな……」
「近くの郡でも盗賊が出たって聞いたぞ」
「もしかすると、乱軍の残党かもしれん」
「本当に賊なら、城門が閉じられるかもしれんな」
声量こそ控えめだったが、内容ははっきり耳に入った。
甄宓は箸をわずかに置き、表情を静かに引き締める。
万里がちらりと視線で問いかける。
甄宓は小さく首を横に振り、この場で話すつもりはないと示した。
万里は大きく伸びをし、満足げに息を吐いた。
「あー……生き返った」
甄宓は袖口を軽く整え、再びいつもの落ち着きを取り戻す。
手を上げ、会計を頼もうとした。
だが店員が来るより早く、店の主人がそれを制し、自ら席の方へ歩み寄ってきた。
年の頃は四十を少し過ぎたあたりだろうか。物腰の柔らかな人物だった。
甄宓の姿を見るや、すぐに両手を合わせて丁寧に一礼する。
「甄お嬢様、明日はいよいよ佳き日と伺っております」
「本日のご食事は、ささやかながら当店からの祝いの気持ちとして、どうかお納めください」
甄宓はわずかに驚いたように目を瞬かせた。
「そのようなわけには参りません」
「お支払いすべきものは、きちんとお支払いいたします」
すでに銭を取り出そうとしていたが、周囲の客たちが次々と笑いながら口を挟んだ。
「甄お嬢様、どうかご遠慮なさらず!」
「無極県のめでたい日ですからな!」
「こちらこそ、少しばかりあやからせていただきたい!」
「おめでとうございます、甄お嬢様!」
中には杯を掲げる者までいた。
「末永くお幸せに!」
店の主人は笑みを浮かべて言った。
「甄家の慶事に、ささやかながら華を添えられるのであれば、これ以上の喜びはございません」
その言葉をきっかけに、店内の空気は一気に和やかになる。周囲の客たちも次々と祝辞を口にし、笑い声が広がった。
甄宓はそれ以上辞退することもできず、静かに頷く。
「……皆様、ありがとうございます」
軽く一礼すると、周囲からは温かな祝福の声が返ってきた。
ほどなくして、二人は食事処を後にする。
通りの様子は、来たときよりもいっそう賑やかになっていた。
家々の門には紅い布が掛けられ、子供たちは手にした小さな風車を回しながら走り回っている。
ときおり花火が打ち上がり、空にぱっと明るい光が咲く。
爆竹の音も途切れ途切れに響き、この小さな城下町全体が、ひと足早く祝宴の気配に包まれていた。
普段は見かけない行商人の姿も増えている。
木車を押して通りに並び、糖菓や蜜漬けの果実、湯気の立つ熱い汁物などを売り声を上げていた。
甘い香りと温かな気配が、夕暮れの街にゆっくりと広がっていく。
通りを進むと、住民たちは甄宓の姿に気づき、次々と足を止めて丁寧に礼をした。
「甄お嬢様!」
「おめでとうございます!」
「どうか末永くご健勝で!」
「これからも甄家にはお世話になります!」
手作りらしい菓子を差し出す者もいれば、見たところなかなか高価そうな白檀を贈る者もいる。
年配の婦人は両手を合わせ、穏やかな笑みを浮かべた。
「これは、これまで甄家にお納めしていた平安の香でございます。めでたい日ですもの、本日は代金など頂きません」
「ありがとうございます。お心遣い、痛み入ります」
甄宓は一人ひとりに丁寧に応じていく。
その微笑みは柔らかく、言葉遣いも非の打ちどころがない。まるで祝福の中に自然と溶け込んでいるかのようだった。
所作は変わらず端正で、歩みも落ち着いている。
誰の目にも、手の届かない高みにいる甄家のお嬢様そのものだった。
ただ一人、隣を歩く万里だけが、口を開くことなく周囲を見渡していた。
その視線はゆっくりと街並みをなぞり、心から祝福する人々の表情へ、そして婚礼によって安堵した様子を見せる住民たちの姿へと向けられていく。
人混みの中には、ごく小さな声も紛れていた。
「甄家のお嬢様が嫁ぐっていっても、なんで俺たちまでこんなに浮かれてるんだ?」
「分かってないな。あの方が袁紹様の一族へ嫁げば、この無極も安泰ってことだろ」
「そうそう。お嬢様お一人で、城ひとつ守られるなら安いものだ」
「うちも何か贈っておこうぜ。嫁いだあとも覚えていてもらえれば、袁紹様に口添えしてもらえるかもしれん」
万里は目を細め、長く息を吐いた。
たとえ地球が幾度となく巡ろうとも、人間は結局、他者を踏み台にして己の利益を得ることを繰り返す。
……つまらないな。
そして手を伸ばし、甄宓の左手をぎゅっと握った。
余計な言葉は必要なかった。
その瞬間――
大きな花火が一発、夜空へと打ち上がり、
眩い光が闇の中で大きく咲き広がった。
花火の光が通りを明るく照らし、人々の間から感嘆の声が上がる。
甄宓はわずかに顔を向け、万里を見た。
その表情には、依然として非の打ちどころのない微笑みが浮かんでいる。
人前に向けるための笑顔。
やわらかく。
穏やかで。
どこまでも美しい、完璧なお嬢様の微笑。
だが――
花火の光が最も眩く弾けたその瞬間、
光が、まだ幼さの残るその顔を照らし出した。
それは、これまで誰にも触れられることのなかった彼女自身の感情を、そっと照らし出していた。
涙が、静かに頬を伝い落ちる。
「やっぱり……」
「……私……」
「袁熙様の妻には……」
なりたくない……
その光景が、まっすぐ万里の瞳に焼きついた。
万里は――
何も言えなかった。
大きな花火が夜空に咲き、眩い光が通りを照らす。
人々の歓声が重なり、祝福の声が街に満ちていた。
無極城は、まるで祭りのような賑わいに包まれている。
その光景を、高所から見下ろす者たちがいた。
白巾を被った二人が、煌びやかな灯火に満ちた通りを静かに俯瞰している。
――無極城の、名も知れぬ一角。
人目につかぬ暗がりの中、ひとりの男が静かに腰を下ろしていた。
白く長い髪。目尻に浮かぶ、一粒の涙ぼくろ。
その唇には、どこか妖しげで、人を食ったような笑みが浮かんでいた。
その傍らには、八尺はあろうかという巨漢が立っている。
岩のように分厚い体躯。
微動だにせず、ただ主の傍に控えていた。祭りの光は届かない。
その場所だけが、まるで別の世界のように静まり返っていた。




