「本当に、嬉しいんだからね!」
直哉があの花壇に辿り着くと、いつもよりも空気の揺らぎが強く感じられた。
「ただいま――うまく行ったよ」
小さくつぶやいた直哉に、待ちきれない結衣の声が画面越しに迫る。
彼がスマホを広げるや否や――
トトトトトトトトトト……
「遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!遅い!」
まるで嵐のように、スタンプが画面を埋め尽くす。
指先ひとつ止まることなく、結衣の元気とせっかちな性格がそのままデジタルに翻訳されたかのようだった。
直哉は画面を見つめながら、心の中で苦笑する。
(……この子、本当に幽霊でも元気すぎるな……)
結衣の連打による「遅い!」の文字の波に、彼は思わず微笑みを抑えきれなかった。
直哉は思わず眉をひそめる。
(こいつ、実は悪霊なんじゃないのか……)
そう頭の片隅で警戒しつつも、画面の勢いに押されて思わず口をつく。
「仕方ないだろ、お前のスマホ、充電してたんだから」
ト・・・トト・・・
「マジ! 早く見せてよ! 本っ当にありがとう!」
今度は「感謝」のスタンプが連打され、画面がまるで小さな花火大会のように色とりどりに輝く。
直哉は小さく息を吐き、画面越しの結衣の元気さに思わず笑みをこぼしてしまった。
直哉は少し眉をひそめ、ため息をつく。
「いいから……まずは電源入れるけど、解ってるな?」
ト・・トト・・・
「何が?」
「いや、お前……死んでる自覚なさそうだから言っとくけど、間違っても既読とかつけるんじゃないぞ。スマホ盗まれたのバレたら、家族が電波辿って探しに来るかもしれんからな。間違ってもメッセージとか送るんじゃないぞ」
数秒の沈黙。画面の向こうの結衣は、きっと直哉の真剣な言葉を理解しようと必死に考えているのだろう。
ト・・ト・・・トトト・・・
「わかった、約束する」
「……解ればいいんだよ」
そう言って電源を入れると、結衣は迷うことなくスタバのフリーWi-Fiに接続し、ほとばしる勢いで直哉のLINE IDに「友達登録」を申し込んできた。
直哉は思わず画面を見つめ、苦笑する。
(……こいつ、ほんとに迷いがねえな……)
画面の中で動くスタンプも、まるで生きているかのように躍動感がある。幽霊のはずの結衣が、確かにここにいるような、そんな錯覚さえ覚えた。
直哉はスマホを握りながら、内心で小さくため息をついた。
(……やっぱり、こうなるか)
ログイン状態は切れていなかった。それを確認したのも束の間、直哉はすぐに覚悟を迫られることになった。
「ありがとう、直哉。私、とっても感謝してるんだから!」
画面には、感謝のスタンプが次々と高速で押されていく。トトトトトト……まるで怒涛のように連打されるスタンプは、地縛霊である結衣のテンションそのものを映し出していた。
直哉は苦笑しつつも、目の前の画面に目を凝らす。
四六時中、この子のラインに縛られる覚悟を決めた瞬間だった。
(……こいつ、本当に悪霊じゃないか?)
そう心の中で呟きながらも、スマホを握る手は少しだけ温かさを感じていた。
「そんなに送らなくても解ってるよ、あと結衣にお土産があるんだけど」
直哉がポケットから取り出した小さなシャインマスカット――それは、結衣の母が部屋に置いてくれたものの中の、たった一粒だった。
「ママが結衣にって、部屋に持って来てたからさ。好きなんだろ?」
その言葉に、結衣の小さな体にぽろりと涙がにじむ。
(ママ・・・私の事・・・忘れてなかったんだ・・・)
手に乗せたシャインマスカットを結衣はそっと触れようとするが、もちろん幽霊。手を伸ばしても直哉の手ごとすり抜けてしまい、果実は掌に収まることはない。
トトトトト……
「……食べたいのに……!大好きなのに!」
思わず小さく叫ぶ結衣に、直哉は苦笑しつつもそっと掌を差し出す。
(この子……本当に、愛されて育ったんだな。いや、今も――あのお母さんに、ちゃんと愛されてるんだ)
直哉は、ふとそんなことを思った。 結衣の仕草、言葉、そしてあの笑顔。 どこかに、確かな“ぬくもり”が残っている。
そしてその瞬間――
「えへへ……直哉、ちょっとだけ……勇気出してみる」
結衣は、意を決したように直哉の手元を見つめる。 そこには、彼がさっき買ってきたシャインマスカットが乗っていた。
「……いくよっ」
ふわりと浮かび上がった結衣は、顔を赤く染めながら、マスカットに口を近づける。 幽霊なのに、まるで本当に食べられるかのように。
しかし――
すり抜けた。
マスカットはそのまま。 結衣の口は、何も触れられず、空を切った。
「……やっぱり、ダメかぁ」
ふわりと浮かぶ結衣の肩が、しゅんと落ちる。 その姿は、どこか切なくて、どこか愛おしい。
でも、すぐに顔を上げて、ぱっと笑顔を見せた。
「ありがとう!ママの気持ち、とっても伝わったから!それは直哉が食べて!」
「……いいのか?」
「うん!直哉に食べてほしいの!」
その声には、迷いがなかった。 まるで、自分の代わりに“生きている誰か”に託すような――そんな優しさが込められていた。
スマホの充電中、直哉が冷蔵庫で冷やしておいたシャインマスカットは、程よく冷えていて甘さもみずみずしさも損なわれていない。
「それじゃ、いただくぞ」
口に運ぶと、ほんのり冷たく甘い果汁が口いっぱいに広がった。
「美味しいな……甘くて、みずみずしい」
「でしょ!私も大好きなの!ママにラインでお礼言いたいけど……我慢する!」
結衣は小さな手をぱたぱたさせ、嬉しそうに笑う。
結衣はふわふわと浮かびながら、スマホを覗き込む。 画面には、直哉が撮ったマスカットの写真が映っている。
「これ、アイコンにしてもいい?」
「やめとけ。成仏する気ゼロかよ」
「だって暇なんだもん!暇つぶしにちょうどいいし!」
こうして――
花壇の幽霊少女・藤本結衣は、最高の“暇つぶし”手段を手に入れた。
それは、直哉が持ち帰ったスマホ。
「で、これ置いて行けばいいのか?」
「うん!暇な時に動画とか見るから!」
(……変な幽霊だな……)
直哉は思わず苦笑しながらも、目の前でWi-Fiに繋がったスマホを操作する結衣を見守る。彼女の指先が画面の上で忙しそうに動くたび、幽霊少女の無邪気さと、生前の性格がそのまま現れていることを感じずにはいられなかった。
「そうだ!ちょっと私のスマホ持ってよ!」
唐突な指令のように、結衣からラインが届く。
「もっと高く、自撮りで!そう!」
直哉の顔の横、空間をちょっとだけ空けて――自動的に結衣がシャッターを切った。
送られてきた写真を画面で確認すると……うっすら、半透明と完全透明の中間くらいの微妙な存在感で、結衣の姿が写り込んでいる。
「うわ……ガチの心霊写真かよ!」
「心霊とか失礼ね!ずっと試してみたかったんだから!」
そう言って、嬉しそうに結衣はスタンプを連打し始める。
「わかったから、やめろ。スタンプだらけで訳わからんだろ!あとお前幽霊なんだから心霊で合ってるだろうが!」
「だって!私、とっても嬉しいの!ちょっとくらいいいじゃないの!」
シュ……シュ……シュ……
画面上で連打される無数のスタンプ、それは全て「嬉しい!」を意味していた。
「私、まだこの世にいるんだよ!自撮りだって撮れるんだから!」
「……地縛霊のセリフじゃねぇよな。さっさと成仏すればいいのに」
ベーというスタンプが届く、ほんとこの女どれだけスタンプ持ってるんだと勘繰る暇もなく
「やーだもん!だって、ずっと直哉と一緒にいるんだから!いっそのこと直哉に憑りついちゃうんだから!責任もって一生面倒見てよね!」
(マジか……)
本物の地縛霊である結衣に「憑りつく」と宣言された直哉は思わず背筋がぞくりとする。
それに一生?ガチの幽霊が吐くセリフとは思えない。
しかし、画面に流れる結衣の嬉しそうなセリフは不思議と悪い気分ではなかった。
むしろ、誰も見向きもしない花壇で、半透明の少女が全力で喜んでくれている――その無邪気さが、心地よく感じられるのだった。
「じゃあ、もう帰るぞ?結衣」
トトト……トトト……
「うん! 毎日充電しに来てね!」
「毎日かよ……。それにしても、こんな隙間で見えるのか?」
結衣が指さしたのは、花壇のブロックとブロックの間。わずか数センチほどの隙間で、誰も気に留めないような場所だ。まるで、このために用意されていた秘密のポストみたいだった。
トトト……ト……
「私、幽霊だから! ブロックもすり抜けちゃうし、全然平気!」
「……まあ、そういうもんか。考えるだけ無駄だな」
直哉は肩をすくめる。
「ここなら画面が光っても外から見えないし、車の音で多少の音もかき消されるだろ」
「でも、万が一があるから……音はできるだけ出さないようにするね」
「おう。何かあったらラインで連絡しろ。今日はもう帰るわ。明日は講義あるけど、夕方にモバイルバッテリー持ってくるからさ」
「……うん。本当にありがとう、直哉。とっても感謝してるんだからね」
結衣はそう言って、ふわりと直哉に近づいた。
冷たいはずの存在なのに、その仕草はあまりにも人間らしく――そっと彼の頬に唇を寄せる。
もちろん、そんな微かな接触に気づけるはずもない直哉。
「じゃあな、結衣」
「うん……ばいばい」
ぎゅっと手を握りしめ、まるでその温もりを確かめるように彼を見送る結衣。
直哉は背中を向けたまま、ひらひらと手を振りながら夜道を歩いていった。




