潜入
そして日曜日――
と言っても、結衣の潜入計画を聞いたのは金曜日なので、正確には翌々日のことだった。
土曜日は大学の講義を入れていない直哉。
最後の打ち合わせも兼ねて結衣の元を訪れると、ほぼ一日中、彼女の愚痴に付き合わされる羽目になった。
――ト……トト……
《だいたいねー! 地縛霊って何地縛霊って!
私も好き好んでここで死んだわけじゃないんだけど!もっと楽しい所が良かったんだけど!渋谷とか原宿とか!》
(いや、マジで知らねーし)
――トトトトト……
《それに、こないだの坊さん、今度はちょうどここ通ったの、ココ!
思い切り足ひっかけてやろうと思ったけど、すり抜けるし全然気づかないしあのハゲ!》
――トトトト……
《だいたいいつまで私ここにいたらいいのよ!
何もやる事ないのに何も出来ないのに!
暇で死んだらどうするつもりなの! 聞いてる直哉!》
(いや、お前もう死んでるだろ……)
こいつと付き合ったら、さぞかし面倒くさいんだろうな、と直哉は苦笑した。
「それじゃ、そろそろ腹減ったし家帰ってラーメン作るわ」
――トトトトト……
《え、もう帰るの? 寂しい、もっと一緒にいてよ♡♡♡》
可愛い♡の絵文字を連打して引き留める結衣に、直哉は思わず心の中でため息をつく。
(やれやれ、しょうがねえな……)
やっとの事で直哉は昼食という名の一時休憩を挟むことになった時。
時計はすでに夕方の4時をまわっていた。
その後も
――トトト……ト……
《…それにね! 私だって夜は夜で怖いのよ! 一人で心細いし直哉一緒にいてくれないし!
風の音とか、電気のチカチカとか、勝手に動く影とか!
誰も「大丈夫?」って言ってくれないし、めっちゃ孤独! めっちゃ! お化け出た!って思うし!》
直哉はスマホの画面をじっと見つめながら、眉をひそめた。
(いや、お化けはお前だろ……それにお前自称ホームレスだし、俺を巻き込むなよ……)
心の中で突っ込みを入れる。
――トトトト……
《もう! でも直哉が一緒にいれば私だって怖くないでしょ!? 一緒にいてよ、お願い!》
(……やれやれ、幽霊にお願いされる日が来るとはな……)
直哉は仕方なく肩をすくめながら、軽く笑みを浮かべる。
これが結衣が生きていれば、普通の女子高生からの「夜も一緒にいて」というお願い――
男としては、間違いなく嬉しくなるやつだ。
直哉は心の奥で、少し複雑な感情を抱いた。
これまで結衣がやっていたSNSや、写真、日記のようなものを嫌というほど見せられてきた彼は、彼女がかなりの美人であることを知っていた。
(……うーん、結衣が生きていればなぁ……可愛い子なんだけどな……)
スマホ越しに迫る結衣の必死さと、画面の向こうで見せる無邪気な笑顔――
そのギャップに、直哉の胸はちょっとだけざわついた。
女の子特有の話の流れをぶった切る会話が続く。
――ト……トト……
《それにね、見えないからって勝手に物投げる人とかいんの!
昨日も私に火のついたタバコ投げる人とかいたんだから、もう聞いてるの! ぷんぷん!》
怒りマークの絵文字で画面が埋め尽くされる。
(いや、別に俺に責任はねえだろ……なんだよこの画面)
――トトトトト……
《それからそれから! もうさー! 通行人とか全然気づいてくれないのよ!
「おいおい!ぶつかるから!」って思っても、すり抜けるだけでさ!
ほんと鈍感! 直哉もそうだけど! もうさー! ぷんぷんぷんぷん!!》
直哉は肩をすくめて、無言でスマホを握り締める。
女子高生幽霊による怒涛の愚痴は止まる気配を見せない。
直哉は目の前の花壇にぽつんと座る結衣を想像しながら、心の中で小さくため息をついた。
(お前、マジで一晩中話してるんだな……)
――トトトト……
《あー、もう、講義とかバイトとか言ってるけどさー!終わったらスグ来てね!もう待てないんだから、ずっと待ってるんだから!》
直哉はスマホを握ったまま、結衣の熱量に圧倒されつつも、どこかほっとしたような気持ちになる。
(……でも、これ、ちょっと可愛いんだよな……)
明日は朝から早いから今日は帰るよ、と言う直哉の背中を見送る結衣。
ぎゅっと右手を握って今日一日自分に付き合ってくれた直哉を見送った。
――翌日――結衣のスマホを盗みに行く日である。
「……ふわぁ。せっかくの日曜なのにな」
電信柱の影で小さく欠伸を漏らす直哉。
朝から人の家の前で張り込むなんて、本来ならとんでもなく面倒なことだ。
けれど、一度交わした約束を破ることだけは、直哉の性分が許さなかった。
例えその約束が――この世にはもう存在しない少女、結衣とのものだとしても。
「いってきまーす!」
元気な声がガレージから響いた。
直哉がそっと目をやると、そこには肩を大胆に出し、へそまで見せつけるような短いスカート姿の女の子がいた。
その隣には中年のおじさん、父だろう。二人そろって車に乗り込んでいく。
「……おいおい、高校生であれか。ゴルフどころの騒ぎじゃないだろ、目のやり場に困るって……」
直哉は思わず小声で毒づいた。
けれど、心のどこかで納得する。
結衣の妹――なつみ。整った顔立ちは、やはり姉譲りだ。
(生きていれば、結衣もきっと……あんな風に笑って、元気に出かけていたんだろうな)
そんな想像が胸に浮かんで、直哉はほんの少しだけ目を伏せた。
そのまま時間がゆっくりと流れていく。
直哉は電柱の影に身を潜め、腕時計をちらりと見た。もう三十分は経っただろう。
(……今突入しても、たぶん母親が台所にいるんだよな)
裏口は台所につながっていると結衣に聞かされていた。さっき送り出した父と妹の朝ごはんの片付けをしている頃だろう。几帳面でマメな母親なである、少なくとも10分は台所にいる。
今行くか?いや下手に動けば気づかれる。
(母親が出てくる気配……ないな。どうするか)
そこで、昨夜の結衣との会話が頭に蘇る。
トトトト……トトト……
『パパと妹は出たらご飯も食べて帰ってくるから、午前中に出たら夕方にならないと帰ってこないかも』
「……ゴルフの打ちっぱなしって、そんなに長くやるもんなのか? 俺、行ったことないから知らんけど」
ト……トトト……
『わからない。いっつも妹ばかり連れ出して、私誘われたことないから』
そう言った結衣の声が、どこか寂しげだったのを思い出す。
だが今の直哉にとって、気になる謎よりも重要なのは、結衣に課せられた「使命」だった。
――直哉は息を止め、裏口のドアノブを握る手に力を込めた。
「……よし」
わずかに軋む音。けれど驚くほど静かで、台所の冷蔵庫の低いモーター音にかき消される程度だった。
結衣に教わったロックナンバーを入力した時の「カチッ」という音がまだ耳に残っている。あの一瞬、心臓が口から飛び出しそうになった。だが幸い、テレビの音か、あるいは母親の注意が逸れていたのか、足音も気配もしてこない。
「……助かった」
小さく呟き、直哉はそっと裏口を押し開ける。冷たい床のタイルが靴底に伝わり、家の中の空気が外気と違っているのを肌で感じる。ここから先は、結衣との“共犯”の領域だ。
(……大丈夫。結衣が言ったとおり、母親は居間にいるはずだ。だから、一気に二階へ……)
階段の位置は昨夜、何度も結衣に聞いて頭に叩き込んだ。台所から出てすぐ左。リビングの入り口を横切る形になる。母親がふと顔を上げれば、一瞬で見つかるだろう。
心臓が再び速まる。
居間からはテレビのざわめきが漏れていた。
だが、それが必ずしも母親がテレビの前にいる証拠にはならない。
柱の影に身を寄せ、直哉はじっと気配を探る。
唯一の懸念――階段から丸見えの位置にあるトイレ。
そこに母親が入っていたら、全てが水の泡だ。
「トイレの左上に丸くて小さい窓があるから、そこが光ってたら注意ね」
――結衣の言葉が脳裏に蘇る。
ドアの左上、小さな丸窓。直径わずか一センチ。そこに灯りが映れば、誰かが中にいる証拠。
「……角度が悪くて見づらいな」
こんな時のために仕込んでおいたのが、スマホ。
iPhoneのズーム機能を駆使し、肉眼では見えにくい光の有無を確認する。
(……よし、暗い。中は空だな)
靴を脱ぎ、息を呑みながら床を踏む。
台所から階段へ、ソロリ……ソロリ……。
一歩一歩に心臓が跳ね上がる。
(見つかったら終わりだ……大学も、未来も、全部……おじゃんになる)
冷たい汗が背を伝う。だが――結衣との約束は、守らなければならない。
時折、視線がこちらを射抜くような気配に足を止めつつも、直哉は振り返らない。
ただひたすら、上へ、上へ。
そして――二階へ到達。
結衣の部屋の前で息を吐き出す。
「……成功だ」
ドアノブを静かに回し、忍び込むように部屋へ潜入した。




