自責
ひと際、男の手に力がこもる――
その、瞬間。
――ガンッ!!!
鈍く、重い音が部屋に響いた。
男の後頭部に振り下ろされたのは、
旅館の入口で見つけた、片手で持てる「ちょうどいい壺」。
それを迷いなく叩きつけ、男をその場に崩れ落とさせたのは――直哉だった。
「てめえ!
俺の親友に、何してくれてんだ!!」
怒声を上げ、直哉は倒れた男を睨みつける。
その背後には、息を切らした結衣の母の姿があった。
二対一。
そしてさらに――
その場に立ち尽くす、薬の影響がまだ残るなつみ。
外から、サイレンの音が近づいてくる。
赤色灯の反射が、障子越しに揺れていた。
――母が、通報していたのだ。
ほどなくして警察が到着し、
彼らとともに、一人の男が連れて来られる。
なつみの父。
すべてを悟ったかのような、その表情には、もはや抵抗の色はなかった。
「……あなた……
なんで、こんなことを……
なんて事……」
結衣の母の声は震え、父は力なく項垂れる。
その瞬間――
なつみが、咄嗟に父の前へと身を投げ出した。
「パパは悪くないの!
ただの病気なんだから……!」
必死に、縋るように叫ぶ。
「ねえ! ママ!
パパを……連れて行かないで……!」
それは、純粋な家族愛からなのか。
それとも、刷り込まれた恐怖と依存の結果なのか。
なつみの叫びに、母は答えなかった。
ただ、そっと――
震える娘を抱き寄せる。
「大丈夫よ。
もう、あなたを……こんな目にあわせたりしないわ」
そう囁きながら、母はなつみの背中を、ポン……ポン……と優しく叩く。
大きな瞳から零れ落ちる涙は、粒が大きく、止まる気配がなかった。
「うわあああああああ!
ママ! ママぁ!!!!」
なつみは、しがみつくように母へ抱きつき、決して離れようとしない。
その姿は――
あの日、直哉のアパートで見た彼女とは、まるで別人のようだった。
「……ごめんなさいね……
今まで……助けてあげられなくて……」
母はそう言って、なつみの髪を、何度も、何度も撫でる。
慈しむように、確かめるように。
そして――
「あなたも……結衣と同じくらい、愛してるわ。なつみ……」
涙を浮かべたまま、母は強く、強く娘を抱きしめた。
逃がさないためでも、縛るためでもない。
ただ――守るために。
その光景は、まるで一枚の絵画のようだった。
先ほどまで渦巻いていた狂気や暴力が、すべて嘘だったかのように。
神聖で、静かで、
胸の奥に、じんわりと温かさを残す――そんな瞬間だった。
父と、あの男は――
警察官に上着をかけられ、無言のまま連行されていった。
振り返ることは、なかった。
後日になって、すべてが明らかになる。
父は、先物取引に手を出し、会社の資金を使い込んでいた。
損失を埋めるために借りた金は、利息の高い、決して表に出せないものだった。
やがて支払いに行き詰まり――
そこに、あの男が現れた。
「かわいい娘がいるらしいじゃねえか」
冗談のような口調で投げかけられた、その一言。
それが、すべての始まりだった。
薬物に手を出したのも、その頃だ。
判断力を失い、逃げ道を自ら塞いでいくように。
なつみには、こう説明していたという。
――「会社の危機なんだ」と。
家族を守るため。
会社を守るため。
そして、これまで通りの生活を壊さないために。
なつみは、何も言わず、すべてを一人で背負っていた。
助けを求めることも、弱音を吐くこともできないまま。
ただ、家族のためだと信じて。
その小さな肩に、あまりにも重すぎる現実を乗せて。
しかし――なつみは、まだ受け入れられていなかった。
どれほど大好きだった姉が、もうこの世にいないという事実を。
葬儀の日も、火葬を見届けた瞬間も。
「結衣お姉ちゃんは死んだ」と、頭では確かに理解していた。
周囲が泣き崩れ、現実を嘆く中で、なつみも同じようにうなずいていた。
――でも、それだけだった。
胸の奥が、まるで凍りついたように静かだった。
悲しいはずなのに、実感が追いつかない。
涙を流すべき場面だとわかっているのに、心が反応しない。
(……お姉ちゃん、まだ帰ってくるよね)
そんな、ありえない期待が、どこかに残っていた。
学校から、バイトから、ふらりと帰ってきて、
「なつみー、ただいま!」と笑う――
そんな日常が、まだ続いている気がしてならなかった。
だからこそ、なつみの心は現実を拒んだ。
理解はしている。
けれど、受け入れてはいない。
結衣の死は、なつみにとって――
まだ「出来事」でしかなく、
決して「現実」にはなっていなかったのだ。
――そして。
事件の真相が明らかになり、すべてに決着がついた、そのあと。
なつみは、ようやく理解した。
姉・結衣は、本当に戻らないのだと。
父が犯した罪。
自分が抱え込んできた秘密。
守りたかったはずの家族の形。
それらが一つずつほどけていく中で、
心の奥に閉じ込めていた“現実”が、ゆっくりと姿を現した。
(……お姉ちゃん、本当に死んじゃったんだ)
その瞬間。
胸の奥で止まっていた何かが、音を立てて崩れ落ちる。
なつみは、その場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
堪えていたものが、溢れ出す。
声にならない嗚咽。
止め方のわからない涙。
「お姉ちゃん! ごめんなさい!!!!!!!!」
喉が裂けるほどの叫びだった。
声は震え、途中で掠れ、それでも止まらなかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ!
結衣お姉ちゃん!! うあああああああああっ!!」
喉が裂けるほどの叫びが、その場の空気を震わせた。
泣いた。
ただ、ひたすらに泣いた。
大好きだった姉を失った少女として。
守れなかった自分を悔やむ妹として。
そして――ようやく、現実を受け入れた一人の人間として。
その涙は、遅すぎたかもしれない。
けれどそれは、なつみが前へ進むための、最初の一歩だった。
武雄は、騒然とした空気の中で、静かに一歩前へ出た。
「おまわりさん。
あのへんの茂みに……あの人が、僕を刺そうとしたナイフがあると思います」
あまりにも落ち着いた声だった。
警察官は一瞬、言葉を詰まらせる。
「え……あ、はい……!
ご協力、感謝します!」
すぐに無線が入り、指示が飛ぶ。
「下だ!
庭の茂みに、凶器!」
数人の警官が一斉に動き出し、屋外へと駆けていく。
慌ただしい足音。
ほどなくして――
「ありました!
草むらの中から、刃物を確認!」
銀色の刃が、証拠品袋に収められる。
「凶器、確保!」
その報告を聞き、武雄はただ、静かに頷いた。




