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希求

――日曜。


「それじゃ、行ってくるわね」


そう言って、結衣の母は小さく手を振り、タクシーの後部座席へと身を沈めた。

ドアが閉まり、エンジン音が静かな住宅街に溶けていく。


なつみは玄関先に立ったまま、その姿を見送っていた。


今日から一週間。

母は「実家の祖父母の家に泊まりに行く」という名目で、この家を空けることになっている。


それは、夫にも、そしてなつみに対しても、もっとも自然で、もっとも疑われにくい外出理由だった。

長年の生活で培われた勘と経験から導き出された、完璧な言い訳。


――もちろん、その発案者は母自身。




タクシーが角を曲がり、完全に視界から消えると、周囲は驚くほど静かになった。

日曜の朝だというのに、家の中には人の気配がひとつ減っただけで、空気が別物に変わった気がした。


なつみは、無意識のうちに息をひとつ吐く。



玄関の扉を閉める音が、やけに大きく響いた。




「……行って、らっしゃい」


口からこぼれた声はひどく頼りなく、語尾は風にさらわれるように消えた。

伏せられた目元には、くっきりと影が落ちている。


そのとき――まるで待ち構えていたかのように、父が廊下の奥から姿を現した。


「ほら、行くぞ」


低く、感情の起伏を感じさせない声。

耳元に落ちたその一言に、なつみは何も言い返さなかった。


ただ、何かを諦めたように、表情を固くしたまま頷く。


二人が乗り込んだのは、あの白いレクサスだった。

静かに走り出した車が向かった先は――先日、動画の端に一瞬だけ映り込んでいた、あの料亭旅館。


「……」


車内に言葉はなかった。

エンジン音だけが、やけに現実的に耳に残る。




やがて目的地に到着すると、父はなつみを旅館に残したまま、何事もなかったかのように車を出した。

白い車体は、すぐに視界の外へと消えていく。


入れ替わるように、旅館の玄関から一人の男が姿を現す。

背広をきちんと着こなし、一見すると真面目で誠実そうな若い男だった。


その外見が、かえって不気味に映る。



なつみは、ただ黙って、その男を見つめていた。




部屋に入ってきた男は、口元を歪めたまま、ゆっくりとなつみとの距離を詰めてきた。

その表情は笑みのようでいて、どこか感情が欠けている。


やがて男は肩にかけていたカバンを開き、そこから小さなポシェットを取り出す。

布地が擦れる、わずかな音。


次の瞬間、なつみの視界に映ったものに、呼吸が止まった。


――注射器。


透明な筒が、やけに現実感をもって光を反射する。


「……っ」


後ずさろうとした瞬間、男の手が伸びた。

ガタガタと震えるなつみの手首を、逃がさないと言わんばかりに掴み取る。


力は強くない。

けれど、その冷たさが、逆に抗う気力を奪っていく。


(嫌……嫌……嫌ぁ……)



心の中でいくら叫んでも、声にはならない。

喉が凍りついたように、空気だけが擦れていく。




この恐怖も、この痛みも――

そして、薬によって歪められる感覚も。



彼女はもう、何度も、何度も味わってきた。


数えようとすることすら、とうにやめている。

両手の指では足りなくなった、その時点で。


「……パパの……会社の……為……」


絞り出すように呟きながら、なつみは左腕を差し出した。

そして、ゆっくりと目を閉じる。


――目を閉じていれば、すぐに終わる。

そう言い聞かせるのは、何度目だろう。


胸の奥に溜まったものを押し殺し、感情を切り離す。

それでも、絶望だけは、どうしても隠しきれなかった。



暗闇の中で、なつみはただ、終わりの瞬間を待っていた。






武雄はヘッドホンを外すと、間髪入れずにスマホを操作した。

グループラインに、たった一言を叩き込む。


《料亭だ》


その短い文字列に、俺と結衣の母は思わず息を呑んだ。


母がなつみのバッグに忍ばせたのは、あの一見ボールペンに見える盗聴器。



武雄は一切の迷いを見せない。


暗く沈んだ旅館の中へ、彼はそのまま踏み込んでいった。


足音ひとつ立てず、影のように階段を上がっていく。


「お客様!お客様!」


そんな声には見向きもしない武雄。


その動きは、まるで訓練を積んだ特殊部隊の隊員のようだった。




――そのとき。


ドアの向こうから、か細く、壊れかけた声が漏れ聞こえてくる。

悲鳴とも、苦し紛れの声とも判別できない、不快な音。




次の瞬間――


――ドン!


鈍い衝撃音とともに、扉が蹴り開けられた。

武雄はスマホを構えたまま、躊躇なく部屋へ突入する。


「なつみさんから離れろ!!」


その叫びは、張り詰めていた部屋の空気を一刀両断した。








視界に飛び込んできたのは、意識が定まらない様子のなつみを抱え込み、力任せに押さえつけている男の姿だった。すでになつみの服ははだけ、ほとんど用を成しておらず男は上半身裸になっていた。


――畳の隅に転がっているのは使用済みの注射器。



男の背中には大きな入れ墨が刻まれており、堅気の人間ではないことは一目で分かる。


「な、なんだお前は!」


振り返る男を、武雄は一歩も引かず、鋭く睨み据えた。


「なんだじゃねぇ!

なつみさんから手を離せ、このクソ野郎!」




武雄にしては珍しい、感情を剥き出しにした怒声だった。


なつみは焦点の合わない目で、小さく呻き声を漏らす。

その虚ろな様子を見た瞬間――



武雄の胸に灯った怒りは、もはや抑えきれるものではなくなっていた。




武雄は、ためらいなく男の顔面へ拳を叩き込んだ。


「ぐっ――!」


「なんだてめえ! 邪魔すんじゃねえ!」


怒号を上げる男に、武雄は一歩も引かない。




「うるさい!

今すぐ、なつみさんから離れろ!」


もう一度、短く、鋭い一撃。

男の頭が大きく揺れた。


「ク……貴様……!

ただで済むと思うなよ……!」


吐き捨てるように言うと、男は体当たりするように武雄を突き飛ばし、ふらつく足でそのまま部屋の外へと逃げていった。


「……っ」


武雄はすぐになつみのもとへ駆け寄り、壁にもたれさせるように身体を支える。


「大丈夫ですか! なつみさん!」


頬を軽く叩き、意識を呼び戻そうとする。


「あ……ああ……」


かすれた声を漏らし、なつみは反射的に武雄へとしがみついてきた。

その視線は定まらず、意識は明らかに正常ではない。




――まずい。


(……ドラッグか)


武雄は即座に状況を理解した。

なつみをそっと離し、ベッド脇に落ちていた毛布を引き寄せて、その身体を包む。


その瞬間――


背後に、気配。


ゆっくりと振り返った武雄の視界に、

先ほど逃げたはずの男が、見下ろすように立っていた。


逃げ場は、ない。男の手には短刀が握られている。





――絶体絶命。





男の声は、もはや人のそれではなかった。

喉の奥から絞り出される咆哮は、獣の唸りに近い。


白目を剥き、口元から涎を垂らし、裸のまま刃を握り締めて立つ姿――

理性という名の枷は、とうの昔に砕け散っている。


彼もまた、薬に溺れていた。

正常な思考など、残っているはずもない。


「お前も始末してやる!

俺の時間を邪魔する奴は――コロス!!!!」


狂気に満ちた叫びが、部屋の空気を震わせる。


その刹那、武雄は叫ぶように問い返した。


「結衣さんを殺したのも……お前なのか!」


その一言が、空間を切り裂いた。


次の瞬間――

酩酊しているはずのなつみの瞳から、透明な涙が、つっと零れ落ちた。


「……あ……あぅ……お……ねえ……ちゃん……」


泣いているのか、笑っているのか。

その表情は判別できない。


けれど、そのかすれた声だけは、はっきりと伝えていた。



――助けて、と。

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