覚悟
夜もすっかり更けて、街の灯りが静かに瞬いていた。
「そろそろ帰らないとまずくない?パパに“不倫だー”って疑われちゃうよ」
結衣のLINEに、母は苦笑しながら答える。
「確かに、いい時間よね……でもLINEはつながってるのよね?結衣?」
『そこのスタバが閉まるとWi-Fi止まっちゃうけどね』
「そうなの……それは残念ね」
『ちゃんと寝なきゃダメだよ、ママ!いっつも夜更かしするんだから!暗い所で本とか読んだらダメなんだからね!』
親子の会話は、まるで生きていた頃のように自然で、温かくて――それが逆に、胸を締めつける。
さすがに、そろそろ帰らねばならない時間。
「それじゃ、また明日来るからね、結衣」
『うん!待ってる!ママ!』
「俺が家まで送りますよ、結衣さんのお母さん」
『お願いね!直哉!』
俺と結衣の母は、花壇を後にした。
しばらく歩いたあと、ふと口を開く。
「すみません、今まで結衣さんの事を黙っていて。少し迷ったのですが」
「いいえ。結衣が寂しい思いをしなかったのは、あなたのお蔭。ありがとうね直哉さん」
「そんなことないですよ。何をしたわけでもありませんし」
二人並んで歩く夜道。街灯が、母の横顔を静かに照らしていた。
俺は、少しだけ迷ってから切り出した。
「実は……お母さんに協力してほしいことがあるんです」
「……協力?どんなことかしら?」
「もしかしたら――結衣さんを殺した犯人につながるかもしれません」
「!!!!」
母の足が一瞬止まる。けれど、すぐに歩き出す。
「詳しいことは、明日お話します。今日のことは、ご家族には黙っていた方がよろしいかと」
「こんな話、家族にできるもんですか。“結衣の幽霊と話してきた”なんて」
――なんて頭の回転の速い女性だ。結衣の母親なだけある。
「それでは明日、11時に駅前のカラオケ屋にしましょう。」
「カラオケ屋?……わかったわ」
そう約束して、実家の少し手前まで母を送り届けた。
夜風が少し冷たく感じたのは、気温のせいだけではなかった。
翌日――予定より15分ほど早く、俺は駅前のカラオケ屋の前に到着した。
人通りの多い昼下がり。けれど、俺の胸の中は静かに波打っていた。
5分ほどして、結衣の母が姿を現す。
「遅れてごめんなさいね」
「いえ、全然遅くないです。では、中に入りましょう」
カラオケ屋を選んだのは、これから話す内容があまりにもショッキングだったからだ。武雄とも相談し、彼女の心に配慮した上での選択だった。昨日みたいに道端で号泣するかもしれない、あまり目立ちたくは無かった。
個室に入り、ドリンクを注文したあと、俺は静かに切り出した。
「お母さん、まずはこの動画をご覧ください。これは、事件後に結衣さんのスマホから削除されていたものです」
タブレットに映された二本の動画。母は無言で見つめていたが、ある瞬間、画面を指差した。
「ここで止めて……これって、ウチの車よね」
一発で気が付いた、さすがだ。
「はい。失礼ですが、事前に御宅の車庫を確認した上でお見せしています」
動画には、はしゃぐ結衣たちを追い越していく一台の白いレクサス。その左後部には、小さな黄色いヒヨコのステッカーが貼られていた。
「これ……結衣が貼ったのよね。誕生日に、ステッカーが欲しいって言うから私が“好きにしていいよ”って言ったら、すぐ貼ったの」
母の声が震えていた。記憶と映像が重なり、何かが胸の奥で軋むような音を立てていた。
「この場所は、地図で言うとここからここに至る道です。僕も何度も歩きましたが、この曲がり角までがポイントです」
俺は紙にプリントアウトした経路図を広げ、母に見せた。
「そうね……このあたりなのね……それで?」
母の声は、静かに震えていた。
「はい。次の動画ですが……45秒の部分で止めていただけますか?」
「45秒ね……」
タブレットの画面に映し出されたのは、先ほど結衣たちを追い越した白いレクサス。だが今回は、道を外れて右側の敷地へと滑り込んでいく。
「うちの車ね……ここは?」
俺は、建物の全景を映した写真を母に見せた。
「…料亭………私は知らない店ね…」
「一本目の動画で結衣さんたちを抜いた車が、途中のコンビニに一度停車して……その後、再び結衣さんたちと並んだタイミングで、この料亭…旅館に入ったと考えています」
運転席からは見えづらい位置だったかもしれない。だが、助手席に座っていた人物がいたなら――しかも、どうしても目立ってしまう姉を含めた女の子が3人並んで歩いていたなら、見逃すはずがない。
「そんな……まさか……!」
母の声が、かすれた。
俺は一度深く息を吸い、言葉を選びながら続けた。
「お母さん、次の録音は……正直、お聞かせするべきか迷いました。でも、今日お時間をいただいたのは、この音声をお聞きいただくためです。とてもショックを受けるかもしれません」
沈黙が落ちる。
母は、ゆっくりと目を閉じてから、頷いた。
「……聞くわ。お願い」
覚悟を決めた母の前で、俺はスマホの画面をタップした。
再生されたmp3の音声が、静かな個室に流れ始める。
音声が流れ始めた瞬間、空気が変わった。
父と娘――その関係が、常軌を逸していることはすぐに分かった。薬物の影響を思わせる言動、そして抵抗する娘。
「うっぷ……!!!おぇ……」
結衣の母は、言葉にならない呻きとともに、その場で嘔吐した。
俺はすぐにティッシュと水を差し出したが、彼女の震えは止まらなかった。
当然だと思った。これが“母親”にとってどれほどの衝撃か――想像するだけで、胸が痛む。
俺は、少しだけ目を伏せた。
この録音を聞かせるべきだったのか。
彼女にこんな苦しみを与えてまで、真実を突きつける必要があったのか。
少しだけ、後悔していた。
けれど――この痛みの先に、何かを変えられる可能性があるなら。
結衣の魂が、まだそこにいるなら。
十分ほど、ただ時間が過ぎていった。
すすり泣く声も次第に収まり、結衣の母は震える指先を膝の上で強く組み、ようやく顔を上げる。
「……すみません、こんなものを聞かせてしまって」
直哉が頭を下げると、彼女はまだ涙で濡れた目元を拭いながらも、毅然とした声音で答えた。
「いいのよ、直哉さん。確かに胸は苦しいけれど……知らずに過ごすよりは、ずっとましだから」
「……本当に、すみません。お母さん」
気がつけば直哉は自然にそう呼んでいた。その真っすぐな眼差しに、彼女の表情がわずかに和らぐ。
「……それで。結衣は、このことを知っているの?」
「いいえ。僕たちの推理が正しければ、結衣さんにはあまりに辛すぎます」
母は小さく息を呑み、視線を遠くへさまよわせる。
「……そうね。何となくだけど……私にも見えてきた気がするわ」
「それで、僕と友人の武雄は……こんなこと、もう辞めさせなきゃいけないと思ってるんです」
直哉は真剣な眼差しで結衣の母に向き合った。
「どうか協力してもらえませんか? お母さん」
母はわずかに瞼を伏せ、息を整えてから静かに答える。
「……そうね。私にできることがあるのなら、協力するわ」
その言葉に安堵が広がったちょうどその時、外で待機していた武雄が顔を出す。
彼は直哉と母が話している間、ラインで大騒ぎする結衣をなだめていてくれたのだ。
「初めまして、結衣さんのお母さん。直哉の友人の山口武雄と申します」
「こいつの協力があったからこそ、今回の件も明るみに出せたんです」
「……まぁ。結衣がお世話になっているのね」
「それじゃ、直哉に変わるよ」
スマホを渡しながら軽く頷き、武雄はその場を切り替える。
直哉が結衣の相手を引き受けると、今度は武雄が結衣の母へ計画の全容を説明し始めた。
母は一通り聞き終えると、ふっと小さく息を吐き出した。
「……わかったわ。でも、不思議ね。二人とも赤の他人の私に、どうしてこんなにしてくれるの?」
「結衣のお母さんだから……かな」
「結衣さんは、僕たちにとって大切な友人ですから」
その真っ直ぐな言葉に、母の瞳からまた涙が零れた。
「そう……なのね。結衣……」
しばしの静寂のあと、母と直哉は結衣の花壇へと歩き出す。
親子の尽きることのない会話に耳を傾けながら、直哉の胸には温かさと切なさが入り混じっていた。




