薄曇り
それから3週間――
ひとしきり泣き続けた結衣は透明の体を揺らしながら、道行く人々に声をかけ続けた。
「すみません! 話を聞いてください!」
けれど、通り過ぎるのは皆、無関心な顔ばかり。無関心どころか結衣自身を認知する事も無い。
スマホに夢中な高校生、帰宅途中のサラリーマン、笑いながら歩くカップル――どれも結衣の声を聞こうとはしない。
「……お願い、私の声を……」
必死に手を伸ばしても、誰の肩にも触れられない。声も届かない。
心の中で叫んでも、通じない。空気のように、ただすり抜けるだけ。
結衣の胸は、日に日に重くなっていく。
三週間……、誰にも気づいてもらえない日々。
半透明の体に漂う孤独は、冷たく、逃れられない牢獄のようだった。
「どうして……誰も……見てくれないの……ママ……」
涙がぽろりと頬を伝う。
無力感、孤独、絶望――そのすべてが結衣を押し潰し、三角座りで泣き続ける日々を、夜の街は静かに包み込んでいた。
「私の姿が見える人! いませんか……!」
その時、ワンワンワン!と犬の鳴き声が飛び込む。
「!」
結衣の半透明の体に反応して、犬が吠えている。
「私に……反応してくれた……!」
しかし喜びもつかの間、犬はすぐに飼い主に引きずられ、連れて行かれてしまう。
「おい! ミルク! 何吠えてんだ、行くぞ!」
結衣は小さく肩を落とす。
「・・・・」
おなかがすくわけでも、眠くなるわけでもない。
ただ、ここにいるというだけの牢獄――透明で、静かで、誰にも届かない世界。
「どうして……こんなことに……ママ……」
結衣は三角座りをして、ひとり、ひたすら泣く日々を過ごした。
夜風に揺れる街灯も、通り過ぎる人の笑顔も、もう自分には届かない――ただ孤独だけが彼女の精神にまとわりついていた。
その日、夜道を歩いていた直哉は、ふと何かの気配に足を止めた。
背中をぞくりと走る寒気。視界の隅で、淡い光がふわりと揺れる。
(……またか)
子どもの頃から、こういう“見えないもの”を感じる体質には慣れっこだった。
でも、そのせいで友達には誤解され、家族にも時折呆れられた。
「ホラ! そこにいるだろ!」
幼い頃の記憶がフラッシュバックする。
「何もいないじゃないか! 嘘つき!」
友達の怒った声。泣きそうになりながらも、手を伸ばす自分。
「でも多分女の人が、こっちを向いて……!」
どんなに見えても、人には決して理解されない。
その孤独な半生を経験した直哉は、いつしか“誰にも話さない”ことを選び、普通の大学生として、できるだけ目立たずに生きてきた。
しかし今日、直哉の前に立つ「何か」は、いつもと違った。
必死に何かを訴えようとしている――その切実な気配が、胸に突き刺さるように感じられた。
「……誰だ?」
声をかけると、半透明の空気の揺らぎが、そこに「立って」いた。
「見て!わたしを見て!!!!!!」
いくら叫べどもその声は音にならず直哉には届かない。
「お願い!話を聞いて!私に触れて!!!」
ぼんやりとした輪郭。空気のゆらぎが少しだけ濃く、まるで霧が白く色づくように、かすかに形を成している。
幼い頃から幾度となく遭遇してきた、あの感覚――
(……幽霊……だ)
心臓が一瞬止まった。
幽霊は珍しくない。
けれど、人間の形を大体保ったまま、あんなに必死に何かを訴えている姿は初めてかもしれない。
結衣――子供の頃からあきらめの悪い少女だった。
何度も心が折れそうになりながら、この三週間もの間、ただひたすらに「私を見て!」と叫び続けた。
その強い願いが、今、直哉の前で形を持って現れた。
直哉は思わず「それ」に向かって手を伸ばした。
目の前には何もないはずの空間。
だが、結衣にとっては――
「頭……触ってくれた!」
直哉の手が自然になでる体勢になると、結衣の胸は一気にほぐれた。
涙がぽろぽろと溢れ、透明な体を小さく震わせながら、彼女は声を震わせる。
「あり……がとう……お兄さん……とっても……寂しかったよぉ……」
しばらく、結衣はグスグスと泣き続ける。
直哉はそれとなく彼女の状況を察し、脇の花壇に腰を下ろした。
電子タバコに着火して一服すると。
「……落ち着け、何か伝えたい事があるのか?」
その言葉を聞いた瞬間、結衣の胸の奥で、長く押さえ込まれていた何かが弾けた。
孤独で重かった時間が、一瞬でふわりと溶け、希望の光が差し込むような感覚――。
初めて、自分の存在を受け止めてくれる人がいると感じた瞬間だった。
「!!!!!私を見てくれている! 私に話しかけてくれている!」
三週間もの孤独と無力感――誰にも届かない叫び、通じない声――が、まるで一瞬で溶けていくようだった。
重く胸を締め付けていた絶望が、ふわりと空気に溶け、心が軽く、宙に舞い上がるような感覚。
まるで、水をかけた綿あめがふわっと消えてしまうみたいに、心の棘が消え去った。
「私が見えますか?聞こえますか?お兄さん!ねえったら!」
結衣は口を動かすが、声は届かない。文字通りの沈黙。
「ねえ、聞いて……お願い……!」
結衣は必死に手を振る。だが直哉は視線を落とす。
(だめ……全然届かない……!)
次に結衣は、直哉の肩を押して触れようとする。
しかし、幽霊の体では直哉の身体に触れる事はできない。
「ほら……!わからない?こんなに触っているのに!」
結衣は直哉の顔に手を当てているが直哉は、ただ目を細めて首をかしげる。
「……ん? なんだこれ?」
微妙な空気の揺らぎを感じている程度。
見える程に触れる事ができないのが幽霊という奴なのだ。
違う、そうじゃないの! 私は話したいの……!あなたに触れてみたいの!
焦った結衣は、自分の体を直哉の腕に押し付けてみる。
わずかに手が触れるだけで、ぶつかる衝撃はほとんどゆらぎとしてしか感じられない。
「まだ……届かない……!」
ついには、目の前に飛び出してじっと直哉を見つめる。
「ねぇ! 私……!」
何かの気配がにじりよってくる、それを感じた直哉は驚いて一歩後ろに下がり、目を細くする。
結衣は頭を抱え、半透明の体を小刻みに揺らす。
(ちょっと触れるくらいしかできない……どうして伝わらないの……!この鈍感男!)
直哉は困惑しながらも、結衣の必死な視線を感じている。
ゆらゆらと揺れる、空気のようなもの。
だが、それはただの空気ではなかった。確かに――意思を孕んでいる。
「……お前、俺に何か伝えたいんだろ?」
直哉の問いかけに…世界が震えたように感じた。
「そう!そうなの!ーー伝わったぁ!!」
結衣の胸が大きく跳ねた瞬間だった。




