急転
結衣の家を出た後、すぐにスマホを取り出す。
「お焼香終わったよ、多分問題は無いと思う」
武雄に報告を入れると、すぐに返事が返ってきた。
「OK」
(……やっぱりシンプルすぎるだろ、お前は)
思わず苦笑しながらスマホを持ち直す。
3人のグループラインを開くと、画面いっぱいに結衣の「チラ」「チラ」「チラ」と連続したメッセージが並んでいた。まるで障子の隙間から覗き込んでいるみたいな気配が伝わってくる。
「今終わったよ、とりあえずそっち行くから」
そう送ると、間髪入れずに返ってきたのは――
「急げ急げ急げ……!」
そして怒涛のスタンプ連打。画面が一瞬でスタンプだらけになる。
(……一回でいいのに)
そんな風に思わなくもない。けれど、不思議と胸の奥にあたたかさが広がる。
――これが結衣なんだ。
やり取りの軽さが、かえって「生きてる」みたいで。気づけば直哉は、親近感と同時に妙な安堵まで覚えてしまっていた。
花壇に腰を下ろし、イヤホンを耳に差し込みスマホを手に持つ。
これで外から見れば、ただの大学生がビデオ通話でもしているようにしか見えない――人目を避けるのも、もう半ば本能になっていた。
「……でさ、やっぱりお母さん元気ないみたいだったけど」
『うんうん』
「結衣の言った通りだった。俺に“結衣の写真をくれ”とか言ってきたよ」
『でしょー!ほんと疑り深いんだから、あのお母さん!』
画面越しに結衣が大げさに叫ぶ。俺は苦笑しながら続けた。
「お線香あげてきたけど……どうだ? なんか変わったか? 成仏したくなってきたとか?」
『ううん、全然。なんで?』
「いや、何か効果でもあるのかなって思ってさ」
『ええええ!? 直哉、私に成仏して欲しいわけ!?』
「いやいや、そういうわけじゃないけどさ」
――ラインの通知がひっきりなしに鳴り響き、結衣は今日も元気に騒ぎ立てる。
生きていたら、やっぱり本物もこんなふうにやかましかったのだろう。
その日もたっぷり二人でおしゃべりし、帰路についた俺はメッセージを送る。
「んじゃ、また明日な、結衣」
『……うん。おやすみ、直哉』
当たり前の日常。何も変わらない、そう思っていた。
ーー俺と結衣が解れた、そのおよそ一時間半前。
夜道を歩く俺たちの前を、一人の夫人が通り過ぎていった。
帽子を深く被り、その顔は街灯の陰に隠れている。
ただ、その眼差しだけは鋭く、暗がりの中でも俺の背を射抜いた。
「……だから結衣さ――」
俺の口から漏れたその一言が、夫人の耳に届いてしまう。
「……結衣……? どうして……?」
息を呑む声。
それは――結衣の母だった。
そうだ。今思えば、そういう可能性を考えておくべきだった。
結衣の実家を出た俺を、母が尾行してくるかもしれない――と。
だが俺は、娘を失った母の行動を甘く見ていた。
「結衣が殺された」という真実に近づくためなら、どんな無謀にもすがる。
その必死さを、俺は読み違えていた。
そして運命の悪戯のように、彼女の耳に届いてしまった言葉。
「……やっぱり結衣がいなくなって、とても寂しがっていたよお母さん。
俺と結衣みたいに会話できたら、すごく喜ぶんじゃないかな?」
――その瞬間。
母の視界が揺れる。
めまいのような衝撃が全身を貫いた。
「……俺と結衣みたいに、会話? 一体どういうことなの……?」
震える指先をぎゅっと握りしめながら、母はその場で俺を呼び止めることも、締め上げることもしなかった。
次の信号を渡り、母は正面のスタバへと足を運んだ。
いつもと変わらぬ足取りだが、心の中では緊張がじわりと広がっている。
カウンターで注文を告げる。
「カフェオレ……アーモンドミルクで」
受け取ったカップを手に取り、テラス席へ向かう。
そこから、通りの向こう――偶然にも、あの大学生と結衣が話していた場所が見える。
その姿を見つめながら、母は静かにスマホを取り出した。
――今日は遅くなるから、食事は外で済ませてきて……
家族ラインにそうメッセージを送る指が、ほんの少しだけ震えた。
この一歩が、あとで大きな波紋を生むとは、母はまだ知らない。
テラス席に座り、カフェオレを手にしながら、母の目は無意識に道の向こうを追う。
そこには、微笑むはずの娘の姿と、そして何かを秘めた大学生の影があった。
――そこは紛れもなく、結衣がめった刺しにされて命を奪われた場所。
心の中で、母は小さくつぶやく。
「……一体、あの子は何を知っているの……?」
そう呟きながらも、母は手に持ったメモ帳をそっと開いた。
ページをめくると、そこには――
俺が結衣の母に語ったすべての言葉が、克明に記録されていた。
細かなエピソード、ささやかな会話の端々、笑い声のようなやり取りまで――ひとつ残らず。
さらに、さっき俺と結衣が交わした会話も、ページの片隅に加えられていた。
母の目はそれらを追いながら、頭の中で無数の可能性をシミュレートしていく。
――もしもこの情報を組み合わせたら……
――この言葉の裏に、何か秘密が隠されているのでは……
母の呼吸が、わずかに早まる。
メモ帳に広がる文字列のひとつひとつが、娘の行方と真相への糸口のように感じられた。
――そして俺も結衣も結衣の母も知らぬ間に事態はすでに急転していた。
翌日。
武雄から一本の連絡が入る。
「おい、ビンゴだ。MP3送るけど……心して聞けよ」
届いたのは、複数の音声ファイル。
結衣の実家に仕掛けた盗聴器が記録していたものだった。
壁の向こうで言い争っているような、くぐもった声をかすかにマイクが拾う。
「……もう……やだって……言ってるじゃん……」
途切れ途切れの声が、ノイズ混じりにスピーカーからこぼれ落ちる。
震えるなつみの声は、感情が抑えきれないぶんだけ鋭く、マイクに痛いほど拾われていた。
「……そ……そうじゃ……必要なんだ……」
返ってきた男の声もまた、どこか切羽詰まっている。
言葉を重ねるたび、空気が張り詰めていくのが、音だけでもはっきりとわかった。
「だからって! なんでアタシなの!」
甲高い叫びが、録音機材を震わせる。
次の瞬間、男の声が感情を爆発させた。
「うるさい……! ……出せ!」
「嫌よ! もう、それ……嫌なの!」
そこから先は、言葉にならない音が続いた。
何かがぶつかり、衣擦れのような雑音が入り混じる。
聞いているだけで、胸の奥がざわつく時間が流れ――
「あ……ああ……もう……いや……に……」
かすれた声を最後に、唐突に静寂が訪れた。
そして、何事もなかったかのように。
MP3プレイヤーは、無機質な沈黙を残して再生を終えた。
「おい、これって……まさかな」
「だよな、なんてことだ…なつみさん」
電話越しに、震える声で告げる武雄。 その言葉は、怒りというより、呆れと悲しみが混ざったものだった。
武雄は、少しだけ沈黙してから答えた。
「この先の話だけど……結衣さんには伝えるか?」
その声は冷静だった。 まるで、感情を切り離して処理しようとしているように。
「それは……難しいな……」
直哉の言葉に、武雄の心臓が早鐘のように打つ。 冷静を装っていたはずなのに、胸の奥がざわついていた。
(結衣さんに、あれを伝える……?)
幽霊である彼女に、家族の闇を突きつける。 それは、彼女の魂をさらに縛ることになるかもしれない。
でも―― 真実を知らずに、彼女は成仏できるのか?
武雄は、スマホを握りしめながら、答えのない問いに沈んでいった。
「でも、あんな事になってるなつみさんをほっとくわけにはいかないだろ!」
武雄の声には、これまで聞いたことのない熱が混ざっていた。 怒りとも焦りともつかない感情が、言葉の端々に滲んでいる。
直哉は、スマホを耳に当てたまま、深く息を吐いた。
「とりあえず……だ。話を整理するぞ、武雄」
その声は、電話越しでも落ち着いていた。 今にも結衣の実家に駆けつけそうな武雄を、言葉で押さえ込むための冷静さだった。
「これは、あくまでも現行犯だ。身内の問題だし、なつみさんだって親の方につく可能性もある」
その言葉に、武雄は黙り込む。 受話器越しに、荒い息づかいだけが伝わってくる。
「あと……できればあれば最高なのは、お母さんの協力だ」
直哉の声は、静かに、しかし確信を持って響いた。
「昨日も母親がいない時を見計らって……ってことだよな、直哉」
「そうだ。だから、事情を話して、俺たちとお母さんが同時に踏み込むのが一番だ」
その言葉に、電話の向こうで武雄が息を呑むのがわかった。
「でも……こんなのを聞かせるのか? 結衣さんを失ったばかりのお母さんに」
沈黙が、長く続いた。 その静けさが、武雄の戸惑いを増幅させる。
(……そうだよな。言葉にするだけで、壊れてしまいそうだ)
結衣の母親は、まだ“喪失”の中にいる。
(たしかに……母親からすれば、家族全員に裏切られた気分になるだろう)
電話越しの沈黙の中、直哉は静かに言葉を紡ぐ。
「そんなお母さんの味方になり得るのは……誰だ?」
「結衣……さん……だが……信じてくれるかは、わからない」
武雄の声は低く、迷いを含んでいた。
「わからん。でも、下手な行動も起こせないのは確かだ」
「こないだの動画のこともある。まずは資料整理からだな」
「そっちは任せておけ。直哉は結衣さんに、それとなく……気付かれないように聞き出せないか?」
「無茶だ。聞き出した時点で、全部バレる」
「だが……結衣さんの協力も必要だ」
「問題山積だな……でも」
受話器越しでも、互いの決意が声に滲む。
「――結衣は」
「―――なつみさんは」
「「俺が守る」」
電話越しでも、その声には揺るがない覚悟が込められていた。




