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「……えっと、片桐直哉さんですよね?」


結衣にそっくりな少女――藤本なつみは、確かに俺の名前を知っていた。 表札には「片桐」としか書かれていない。 つまり、彼女は事前に俺の情報を調べてきたということだ。


その事実だけでも、十分に不気味だった。 だが、次の一言は――まるで心臓を撃ち抜かれたような衝撃だった。


「姉の……結衣のスマホを持っていますよね?返して頂きますか?」


言葉が出なかった。 俺はただ、目の前の少女を見つめるしかなかった。


「それでは、上がらせて貰いますね」


なつみは靴を脱ぎ、当然のように俺の部屋へと足を踏み入れる。


「おい、君。勝手に入るんじゃない」


「――あら、それはお互い様ではないですか?」


その言葉は、まるで全てを知っている者の言い草だった。 俺の心に、深く、鋭く突き刺さる。


この子は、一体何を、どこまで知っているんだ?


部屋の空気が、急に重くなった。 なつみは、結衣とは違う。 似ているけれど、違う。






直哉の部屋は、男の一人暮らしにしては妙に整っていた。 床に物は散らかっておらず、キッチンも最低限の清潔さを保っている。


「ふぅん……」


なつみは、少しだけ意外そうに部屋を見渡した。 嫌悪感を抱くほどの乱雑さはない。むしろ、どこか“誰かの気配”が残っているような空気。


冷蔵庫の横には、MCTオイル。 棚にはブロッコリーがぎっしり詰まったタッパー。 そして、甘いものが飲みたくなった時用のココア味のプロテイン。


それらは、まるで“誰か”の好みに合わせて揃えられているようだった。


「……まるで、お姉ちゃんが住んでるみたいね」


その一言に、直哉の心臓が跳ねた。




「プロテインの銘柄も……ほら、同じ。豆乳で割って飲むんでしょう?」


なつみは、まるで見透かすような目で直哉を見つめる。


冷蔵庫を開けると、そこには見覚えのある白いパック。 濃厚豆乳。 結衣がいつも使っていたもの。


直哉は、言葉を失った。


この部屋には、確かに“結衣”がいる。 もういないはずの彼女の気配が、生活の隅々に染み込んでいた。


なつみは、それを見逃さなかった。






偶然にしては出来すぎている――




「ねえ、あなたがお姉ちゃんの部屋に忍び込んでスマホを盗んでいったのは、わかってるの」


その言葉に、直哉の背筋がわずかに震えた。 だが、表情は崩さない。 冷静さを取り戻しつつある彼に対して、なつみの追及は容赦がなかった。


「知らないけど……お姉ちゃんと付き合ってたの? お姉ちゃんがあんなことになって、気持ちはわかるけど……泥棒はダメだと思うから。返してほしいだけなの」




なつみの声は、冷静で、どこか悲しげだった。


「今なら、返してくれたら警察には言わないでおいてあげるから」


直哉は黙っていた。 言葉を選んでいるのではない。 ただ、何も言えなかった。


その沈黙を見て、なつみは立ち上がる。


「返してくれないなら、勝手に探すわね」


そう言って、部屋の中を物色し始める。


勝手にデスクの引き出しを開け、勝手に俺のカバンをひっくり返す。


中身がバサバサと床に落ちるが片付けようともしない。




(なんて勝手な女だ……さすが結衣の妹だな)


直哉は心の中でそう呟いた。 けれど、結衣のスマホがここにないことは、彼自身が一番よく知っている。


なつみの手が、棚の引き出しに伸びる。 冷蔵庫の扉が開く。 ベッドの下を覗き込む。




この部屋には、確かに結衣の痕跡がある。 でも――スマホは、見つからない。


(どこにあるんだろう……)


なつみは黙々と動いていた。 その姿は、何かを探しているというより、何かを“確かめている”ようにも見えた。


「……結衣のスマホ、ほんとにここにあると思う?」




直哉の問いに、なつみは一瞬だけ手を止める。 そして、小さく首を振った。


「わかんない。でも……ここしか思いつかないから」


その声は、どこか寂しげだった。 家族の記憶。姉の痕跡。 それを辿るように、なつみは部屋の隅々を探していく。


直哉は、視線をそっと逸らしながら、なつみの動きを見守った。 彼女の動きに、無防備さと必死さが混ざっていて―― それが、結衣の“残されたもの”を探す空気を、より張り詰めたものにしていた。


部屋の静寂の中、冷蔵庫のモーター音だけが響いていた。




「お姉ちゃんとは、どれくらい付き合っていたの?」


棚の引き出しを開けながら、なつみがさらっと問いかけてくる。 まるで雑談の延長のような口調なのに、その言葉は妙に鋭かった。


「……ああ、結衣さんとは生前、少しだけお付き合いがあったくらいかな」


直哉は、棚の奥に目をやりながら答える。 その声には、どこか照れと後悔が混ざっていた。


「でしょうね。台所を見れば、わかるもの」


なつみはチラリとキッチンに目をやる。 そこには、結衣の偏食に合わせたケトジェニックな食材たちが、整然と並んでいた。




豆腐、アボカド、ナッツ類、糖質ゼロの調味料。 冷蔵庫の中も、まるで栄養管理表でも見ているかのようなラインナップ。


「お姉ちゃん、好き嫌い激しかったから。直哉さん、ちゃんと合わせてたんだね」


「……まあ、そういうの、嫌いじゃないし」


直哉は視線を逸らしながら答える。 でも、その言葉の裏には、確かに“誰かのために動いていた”痕跡が残っていた。




「だけど、彼女が亡くなるだいぶ前に会わなくなって、それっきりかな。お姉さんを亡くした君の気持ちはわからなくもない。だから、好きなだけ部屋を探すといい。 残念だけど、君の探しているものはここにはないと思うよ」


直哉は、あえて自信たっぷりに言い放った。 なつみはその言葉を受けて、無言で部屋を物色し始める。


靴箱。 冷蔵庫。 床下収納。 遠慮など微塵もない。まるで捜査官のような手つきで、次々と空間を開いていく。


直哉の視線は、自然を装いながらも一点だけを避けていた。 ――デスクの上のノート。


そこには、藤本結衣殺人事件に関する直哉の推理とメモがびっしりと書かれている。 もし、なつみがそれを開けば――すべてが露見する。


だが、なつみはそこには触れなかった。 ノートの存在には気づいているはず。 けれど、あえて開かない。


その“選択”が、逆に不気味だった。


(……見逃してくれてるのか?それとも、後で読むつもりなのか?)


直哉は、心の中で警戒を強めながらも、表情には出さなかった。


この部屋には、結衣の痕跡がある。 そして、真実も――隠されている。






あくまでも「スマホを探している」名目でこの部屋にあがりこんでいるなつみには、少々気にはなっていたがデスクの上のノートを開くという行為には至らなかった。




「お姉ちゃんとは、どれくらい付き合ってたの?」


なつみの問いに、俺は少しだけ間を置いて答えた。


「半年くらいかな。コンタクト落としたって言うから、一緒に探してあげたのが最初だった」


(生きてる時はコンタクトつけてたって言ってたしな)


結衣から聞いた“生の情報”を、さりげなく織り交ぜる。 なつみの表情が、ほんの少しだけ揺れた気がした。


「ちょっと、そこどいてくれる?」


ベッドに座っていた俺を押しのけ、なつみは枕カバーの中にまで手を突っ込む。 敷布団の下、マットレスの隙間、すのこを外してベッドの下―― その捜索は、もはや刑事ドラマの域だった。


「おいおい、好きなだけ探していいとは言ったけどさ……」


(エロ本とか隠してなくて良かった……)


心の中で、俺は本気で安堵した。 もしベッドの下から大量のエロ本が出てきた日には―― 結衣と同じ顔をしたこの少女に、思い切り軽蔑される未来しか見えない。




それが結衣とは“別人”だとわかっていても、俺にとっては精神的なダメージが計り知れない。


なつみは、無言で捜索を続けている。 その背中に、結衣の面影が重なるたび、俺の心臓は跳ねた。


この部屋には、確かに“何か”がある。 でも、それはスマホじゃない。 もっと、ややこしくて、もっと重たいものだ。




そして、たっぷり1時間ほどの捜索が終わりスマホは発見されなかった。


俺はと言うと、なつみの侵入の事は隠して結衣には普通にラインの返事を返し、武雄には「妹が家探ししにきたぞ」「本当か!」と状況報告を欠かさない。


そう、俺は報連相のできる男だ。




律儀にも、荒らした部分をきっちりと片付け、原状復帰の義務を果たした少女――藤本なつみ。 その手際の良さに、直哉は少しだけ感心していた。


なつみはデスクの椅子に腰かけると、静かに問いかけてきた。


「ねぇ、お姉ちゃんのこと。好きだった?」


その言葉に、直哉は一瞬だけ目を伏せる。




(ああ……この子は、俺と結衣が本気で付き合ってたと思ってるのか)


この子の勘は鋭く地頭も良さそうに見える。


このまま10年もすればさぞかし手ごわい女性に成長するのだろう。


でも、そういう“人生経験”はまだ年相応なのだろう。




「うん。こんなことになって、寂しいけどさ。やっぱり一度はお付き合いした仲だから」


ブブブ……


スマホが震える。 画面には、結衣からのスタンプ攻撃。


『返事よこせ!返事よこせ!返事よこせ!』


(ちょっと黙ってろ、結衣)


心の中でそう呟きながら、直哉は目の前の少女に集中する。


なつみの話しかけ方は、世間話のようでいて―― その実、尋問に近い。




何か矛盾があれば、そこを起点にグイグイと突っ込んでくる。 言葉の選び方も、間の取り方も、まるで“探偵”のようだった。


(この子……本気で何かを探ってる)


直哉は、そう確信した。




「ところで、どうして君は俺が結衣さんのスマホを盗んだなんて思ったんだい?」


俺は、あえて逆に問いかけてみた。 なつみの目が、わずかに揺れる。


(……おそらく、この子は結衣のスマホを処分しようと思って、結衣の部屋を探した。けれど、見つけられなかった。 先日、カメラの前を横切って正面玄関を突っ切った時に映り込んだのだろう。 そこから探偵でも使って、俺の部屋まで辿り着いたのかもしれない)




なつみの行動は、あまりにも必死だった。 その姿が、俺の仮説を裏付けているようで――逆に、冷静になれた。




「それは……あなた、お姉ちゃんと付き合ってたって言ってたでしょ。前にお姉ちゃんから聞いたことがあるの」


なつみの言葉は、あまりにも堂々としていて――逆に、俺は驚きを隠せなかった。


「結衣さんに聞いたのか?」


「うん。まだ元気な時にね」


(――嘘だ。俺が結衣と知り合ったのは、彼女が死んで3週間後だ)


その矛盾を突くことはできた。 でも、今それを指摘しても、何も得るものはない。




「まだ犯人は捕まらないんだね……なつみさんは、何か知ってることはあるかい?」


会話のペースが、少しずつ俺に傾いてくる。


「警察の人にも聞かれたけど……全然思い当たらないわ」


その答えに、俺は違和感を覚えた。


(妙だな……)


なつみの言動は、どこか“整いすぎている”。 矛盾を含んだまま、感情の揺れもなく、まるで“用意された台詞”のように。


彼女は何かを隠している。 それは、スマホの在処か。 それとも――もっと深い、結衣の死に関する“何か”。


俺は、なつみの目を見た。 その瞳は、結衣と同じ形をしていた。 けれど、そこに宿るものは――まるで別のものだった。




大好きな姉が、ナイフでめった刺しにされて亡くなった。 犯人はまだ捕まっていない。 その事実だけでも、なつみの心は引き裂かれているはずだ。


なのに――


以前、姉と付き合っていた(と思っている)俺の部屋に、単身で乗り込んできて、スマホを探す。 普通に考えれば、あり得ない行動だ。


俺が犯人かもしれない。 そう疑って当然の立場なのに、彼女は俺を“物取り”程度にしか見ていない。


その瞬間、俺の中で何かが繋がった。




――つまり、この子は俺が犯人じゃないことを知っている。


――つまり、この子は、結衣を殺した犯人を知っている。


確信めいた何かが、稲妻のように俺の脳を貫いた。


なつみの言動。 堂々とした嘘。 整いすぎた反応。 そして、スマホへの執着。


全部が、“何かを隠している”証拠だった。




全てを覆い隠したまま、結衣の妹と会話を続ける俺。


「悲しいよな、あんなに良い子だったのに」


瞬間、間があったように感じた。


「うん、とってもいいお姉さんだった、大好きだった」


俺はさらに一手を打つ。


「もし、お父さんやお母さんが許してくれればなんだけど……お線香、あげに行ってもいいかな?」


「……!」


なつみの瞳がわずかに揺れる。 この問いは、断りづらい。 さて、この娘はどう出るか――


少しの沈黙のあと、なつみが口を開いた。




「構わないと思うけど……一応、聞いてみるね」


「ありがとう。こんな変な出会いではあったけど、僕も結衣さんの冥福を祈る機会がもらえて感謝してるって、ご両親に伝えてくれないか?」


「……わかったわ。今日は押しかけて疑っちゃって、ごめんなさい」


言葉は柔らかい。 けれど、その奥にあるものはまだ読めない。


連絡はLINEで、ということでお互いQRコードを交換する。 画面に表示された“なつみ”の名前が、妙に現実味を帯びていた。


「それじゃ、また連絡しますね。部屋散らかしちゃってごめんなさい」


「うん。ご両親に、よろしくお伝えください」


そう言って、俺はアパートのドアを開ける。


(こいつ、片付けとかしていく気ねえな)と心の中でつぶやくと


なつみは一礼し、静かに去っていった。


ドアが閉まる。 部屋に静寂が戻る。




『もー!返事返事返事!』


LINEの画面が、結衣のスタンプで埋め尽くされる。 怒り顔、連打、謎の文字列。 まるで画面の向こうでゴリラが群れで暴れているかのような騒ぎっぷり。


俺は、スマホを片手に静かに返事を打つ。




「結衣、武雄。来週にでも、結衣に線香あげに実家に行ってくる」


それだけを、淡々と送った。


武雄からはすぐに既読がついた。 結衣からは――スタンプの嵐が止まった。


『……え?』


『ほんとに?』


『ちょっと待って、心の準備いるんだけど!?』


画面の向こうで、結衣が急にテンションを切り替えているのがわかる。


俺は、スマホを伏せて、静かに息を吐いた。

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