親友
「なぁ、直哉」
声をかけてきたのは、山口武雄。 小学校からの付き合いで、成績も性格も直哉よりずっと“まとも”な男だ。 両親は高校教師同士の職場結婚。育ちの良さが、言葉の端々に滲んでいる。
「最近さ、お前……ずっとスマホ見ながらニヤニヤしてるけど、何それ?」
「ニヤニヤなんてしてねぇよ。気のせいだろ」
そう言いながらも、スマホが「ヴッ」と震えた瞬間—— 直哉の口元が、ふっと緩んだ。
武雄はそれを見逃さなかった。 眉をひそめ、少しだけ首を傾げる。
(……やっぱり、何かあるな)
直哉の視線は、スマホの画面の向こう。 誰かと話しているようで、でも誰もいないようで。 その表情は、どこか夢見がちで——確かに、幸せそうだった。
「ほら見ろ、やっぱ彼女できたんじゃね?」
武雄の声は軽い。けれど、その目は冗談を言っている時のそれじゃなかった。
「彼女?……んなもんじゃねぇよ」
直哉はそう答えながら、スマホを握りしめる。 頭に浮かぶのは——最近、ナイフでめった刺しにされて亡くなった女子高生。 地縛霊となって自分に取り憑いた、結衣のことだった。
(ここで全部話したら、武雄は絶対……)
「直哉、お前マジで頭おかしいんじゃね?」 そう言って、両親か病院に連れて行かれる未来が、容易に想像できた。
「違うって言うなら……見せてみろよ、今の」
武雄はスマホを奪うつもりはない。 ただ、隣の席からチラリと画面を覗くだけで、相手が“女”だと分かってしまう。
スタンプ、絵文字、語尾のハート。 男同士のラインで、そんなものを連打するなんて——まずありえない。
「……気のせいだって」
そう言った直哉の口元が、スマホのバイブに反応してふっと緩んだ。
武雄はそれを見逃さなかった。 そして、何も言わずに、ただ静かに視線を戻した。
直哉は微妙に顔が赤くなりつつ、心の中でつぶやく――
(……これは説明できねぇ。)
当然の感想だった。
とは言え、直哉の頭の中はぐるぐると考えが巡る。
(このまま武雄に隠し通せるわけねぇし……でも全部話すのもヤバいしな……)
「な?図星だろ、直哉」
「ま、まぁ……あのさ、別に付き合ってるわけでもないんだけど、文通みたいなもんでさ」
「文通?ラインでか?」
「ああ、なんか向こうも楽しそうでさ」
「ふーん」
武雄は、直哉が必死に誤魔化していることをすぐに察した。
しかし、少年時代からの親友がちょっと嘘をつくくらいなら許容範囲、そう思ったのか、追及を7割くらいで打ち切った。
「ま、はじめはそんなもんだろ。進展したら俺にも紹介しろよ」
武雄の言葉は軽い。けれど、直哉の胸には妙な重さが残った。
「お、おう。進展したらな……わかった」
(どう考えても進展なんかありえないけど……まぁ、変に追及されるよりマシか)
「今日もバイトか?」
「いや、今日はちょっと用事があってさ」
「そうか。課題の提出週だろ?進んでんのか?」
「いや、全く手つかずでさ……」
「おいおい……大丈夫かよ」
武雄の声には、少しだけ心配が混ざっていた。 でも直哉は、苦笑いでごまかすしかなかった。
ここ数日、スタバが閉店してWi-Fiが切れるまでの時間は—— 結衣と動画を見たり、映画を観たり。 彼女が笑うと、つい自分も笑ってしまう。 その時間が、心地よくて、つい現実を後回しにしてしまう。
ゼミの課題に取り組めるのは、夜の23時以降。 バイトも欠かせない。 体力的にも、精神的にも、そして金銭的にも——かなりの負荷がかかっていたのは否めない。
でも、結衣との時間だけは、手放せなかった。
ハハハ、と笑う武雄の声。 それは冗談のつもりだったのかもしれない。 けれど、直哉の心臓は——一瞬、止まったような感覚に襲われた。
(俺が……憑りつかれてるって……?)
その言葉が、妙にリアルに響いた。 結衣の存在。彼女との時間。 それは確かに、日常を侵食している。
(そうかもしれないな……)
武雄の観察眼には一目置いていた。 彼は、いつも何気ない一言で核心を突いてくる。
そして——直哉が少しずつ痩せていっているのは、紛れもない事実だった。
それもそのはず。 結衣が指定してくる食事は、ローカロリー・低糖質が基本。
これまで炭水化物まみれだった俺の食生活は、彼女によって完全に改善されつつあった。
たまに女の子らしく、パスタやスイーツを混ぜてくることもある。 でも基本は——サラダ、魚、鶏胸肉、卵。 半ケトジェニックな献立が、俺の胃袋を静かに支配していた。
そして何にでもブロッコリーがついてくるのが、結衣らしいポイントだった。
甘いものに目がない、少々変わり者の女子高生。 でも、健康面への気遣いは怠らない。
そのギャップが、俺にはたまらなかった。
こんな食生活をしていれば数日で結果が出る、痩せて来るに決まっている。
(……そういえば、体がちょっと軽くなった気もするな)
そんな事を思っていると
「それじゃ、明日は休講らしいから、お前も課題進めとけよ。留年したくないだろ」
「ああ、そうするよ」
そう言って別れた二人――次に再会するのは、ほんの数時間後のことだった。
スタバのテラス席。 武雄はノートPCを開き、来週提出の課題に黙々と取り組んでいた。
画面にはレポートの下書き。 キーボードを叩く指は迷いなく、表情は真剣そのもの。
「ふぅ……もうちょっと良い資料があれば楽なんだけどな……」
ぼやきながら、氷が溶けて半分水になったカフェオレを一気に吸い込む。 味は、まあ……微妙。
ふと視線を上げると、道の向こうの花壇に直哉の姿が見えた。
テラス席とはいえ、生垣越しに彼を見つけられたのは、武雄の鋭い観察眼の賜物だった。 ノートPCの画面から目を離すことなく、周囲の動きは常に把握している。 それが彼の“癖”であり、“武器”でもあった。
「おいおい、何やってんだあいつ……」
直哉はスマホを両手で構え、誰かと話している。 まるで恋人とビデオ通話でもしているかのような、柔らかい表情。
だが——どう見ても、普通ではない。 相手の姿は見えない。 直哉の視線は、空間の“何か”を見ているようで、見ていないようで。
武雄は眉をひそめた。
(……明日、もう一度直接聞いてみるか)
そう思いながら、武雄は再び課題へと意識を戻した。 キーボードを叩く音だけが、テラス席に静かに響く。
しかし——1時間後。 ふと目を上げると、花壇の向こうに直哉の姿がまだあった。
スマホを両手で構え、誰かと話している。 まるで恋人とビデオ通話でもしているかのような、柔らかな表情。
(マジで妙だな……こんな時間まで何やってんだよ)
武雄はため息をつき、小さくつぶやいた。
「……ま、静観してやるか」
その理由は、ただひとつ。
直哉の顔が——これまで見たこともないほど、幸せそうだったからだ。
「何かあったら、どうせ言ってくるだろうしな……あ~~~あ、彼女できたか~、羨ましいわ~~~」
そうぼやいて、武雄はノートPCをパタンと閉じた。 カフェオレはすっかり水になっていた。 テラス席を離れ、アパートへと向かう足取りは、いつもより少しだけ重かった。
その間も——
花壇の向こうでは、直哉がスマホを両手で構え、誰かと話し続けていた。 その表情は、武雄が今まで見たこともないほど、幸せそうだった。
彼の隣にいるのは、女子高生の地縛霊——結衣。 この世に未練を残し、誰にも見えず、誰にも触れられない存在。
けれど、直哉だけは違った。 彼は、彼女の声を聞き、言葉を交わし、笑い合っていた。
それは、常識では測れない関係。 でも——そこには本人もまだ気づいていない“幸福”があった。
後日直哉がこの時の事を振り返った時に。
(あ、結衣といて俺幸せだったんだ)
そう思った事がある。
武雄は振り返らず、静かに自宅への道を歩いていた。




