右手
「じゃあ次は誰の番だ」
カウンター席しかないバーでオカルト好きの常連客3人が順番に怖い話や不思議な話を披露していたが、皆が持ちネタが無くなったのか、次に話そうとする人はいなかった。
「じゃあ次はマスターで」
そう名指しで指名された女性マスターは困り顔になった。
「私、そういう話は苦手なのよね」
「そう言わずに、何でもいいからお願いします」
常連の中で1番若い、皆から”坊ちゃん”と呼ばれる男がおねだりをするように甘えた声で言った。
「そう言われてもね......。そうだ、市さんならなんかそういう話があるんじゃない」
話を振られた市さんとは、カウンター席の一番端っこで一人静かに水割りを飲んでいる初老の男性だ。常連の3人以外で今店にいる唯一の客だった。店には半年ほど前から来るようになり、たまに来ては、今日と同じように端の席に座り一人静かに水割りを飲んでいる。
「市さんは元刑事さんなのよ」
マスターがそう紹介すると、市さんと呼ばれた男性はチラッと視線だけをこちらに向けた。
「刑事だって、スゲェ、俺初めて会ったかも、刑事に」
興奮気味に坊ちゃんが言った。
「元だ。今はあんた達と同じただの一般市民だよ」
市はぶっきらぼうにそう答えた。
「よければ何か現役のときに体験した怖い話などをご披露いただけると嬉しいのですが」
常連客の一人、40代くらいで身なりの良いスーツ姿、皆から”先生”と呼ばれる男が、市に向かい頭を軽く下げてからそう言った。
「でもあまりグロい話は私は遠慮したいけど」
もう一人の常連、派手な黄色の服を着けた年齢不詳の皆から”ミセス”と呼ばれる女が横から口を挟む。
「怖いかどうかはわからないが、不思議な話なら一つだけある。それでいいなら」
市は正面を向いたままそう言うと、グラスを左手に取り、グラスに残った水割りをグイッと呷った。
そしてグラスをテーブルに置くと、マスターの方に軽くグラスを滑らせた。
「同じものを。あちらの3人の奢りでな」
そして市は3人に向かって自身の体験した不思議なことを話し始めた。
ある暑い夏の日、深夜の公園のベンチに男が一人、何をするでもなく俯き加減に座っていた。その男になにか不審なものを感じた警邏中の警官が声をかけた。男は怯えた様子で「俺は知らない......」と繰り返し言うだけだった。
その様子に絶対に何かあると確信した警官は、男に近くの交番への同行を持ちかけると、男は素直に従った。
交番に着いた後、男に氏名や住所を確認したいと言うと、それにも男は素直に応じた。
先ほどまで居た公園のすぐ側にあるアパートに住んでいる23才のAであった。
話を聞いている間、Aの様子を伺っていた警官は一つ気になることがあった。Aは公園にいたときから今もずっと左手で右手の手首を握っている。交番で水をコップに入れて渡したときにも、その左手で握ったままの右手で受け取った。
警官は、男に右手がどうかしたのかと聞いてみるが、男は何でもないと答える。
ただあきらかに動揺した様子を見せ、何かがあるのは間違いないように思えた。
警官は根気強くAに話を聞いた。するとAはやがて「俺の言うことを信じてくれるか」と警官に訊いてきた。
「ああ、信じるよ。信じるから隠していることがあるなら話してくれ」
警官が優しくそう言うと、男は左手で抑えた右手を警官の前に突き出した。
「右手が.......、この右手が勝手に文字を書くんだよ」
警官は最初それがどういう意味なのか分からなかった。だがAにさらに詳しく話を聞くと、言わんとしていることが分かった。
Aの右手はAの意思に反し、勝手に動くらしい。そしてそれは文字を書くよう動くというのだ。
警官は、ならば実際に文字を書いて見せて欲しいと言うと、Aはそれに対して躊躇いを見せた。
警官が躊躇う理由を聞くと、Aは泣きそうな顔をしながら警官に懇願した。
「書いた文章を見たら、あんたたち警察は俺が何かをしたんだろうと疑うだろう。でも誓って俺は何もしていない。さっき俺のことを信じてくれると言ったよな。なら、この右手が書く文章を見ても俺のことを信じてくれ」
警官がAに紙とボールペンを渡すと、男は右手にボールペンを持った。
するとボールペンを持った右手は勢いよく紙に文字を書き始めた。Aの様子を見ると、ただ右手が文字を書くのを眺めているように思えた。
そして少しの間そうしていると、Aは唐突に左手で右手を掴んで抑えた。
「あとは同じ内容の文章を永遠と繰り返し書くだけだ」
そう言って文字が書かれた紙を警官に見るように促した。
警官はその紙を手に取った。
紙には震えたような字が書かれていて、所々で読みづらい箇所があったが何とか読めそうだった。
そして、その紙に書かれた内容を読み終えた警察官は驚いた。
『俺は※※※※。俺は殺されて埋められた。場所は●●内にある○○。犯人を捕まえてくれ』
Aは、「俺は何も知らない。一週間くらい前に突然右手が勝手に文字を書き始めた」としか言わない。
警官はこれは自分だけでは判断できないと思った。イタズラと言い切るには手が混みすぎている。もし本当に殺人事件ならば大事だ。
連絡を受けて、所轄署の刑事二人がAに事情を聞きに来た。だがAの主張は変わることはなく、右手が勝手に書いているだけで自分は知らないと繰り返すだけだった。
事情を聞きに来た刑事のうちの一人がその場所を掘ってみようと言いだした。
もし掘ってみて何も出なければ、そのときはイタズラと判断すればいい。
埋められたという場所は、海の近くにある野鳥を観察することができる公園内だった。
たしかにここならば野鳥保護のため敷地内への立ち入りが禁止されているから見つかる可能性は低い。死体を隠すには最適の場所と言えるかもしれない。
正式に許可を取り、埋められたと書かれていた場所を掘ってみると、実際にそこから人の白骨と化した遺体が見つかった。
そして、その頭蓋骨には陥没した跡があり、頭部を殴打されて殺された可能性が高いことがわかった。
警察はすぐさま捜査に乗り出した。もちろんAが最有力容疑者となった。
紙に書かれたものは、犯人しか知り得ない内容で犯行の自白と思われたからだった。
そこまで話して、市はいったん話すのを止めて新しく作られた水割りに口を付けた。
「でも、当然Aが犯人ではないんでしょ。これでAが犯人だったら全然おもしろくないし」
坊ちゃんがそう言うと、隣に座るミセスもウンウンと頷いている。
「その男の右手が勝手に動くというのは、自動書記という心霊現象ですね」
先生がそう言うと、市は一瞬だけ戸惑ったような表情を浮かべ、そして俺にはそういうのはわからんとばかりに首を振ると苦笑した。
「ただ、そこの若い兄ちゃんが言うことは当たっているな。Aは犯人ではなかった」
坊ちゃんは、市に褒められたと思ったようで、嬉しそうな顔をしている。
「やっぱり。でもどうしてだろう。アリバイがあったのかな」
「なかなか鋭いな。Aにはアリバイがあった。それも完璧なアリバイが。どんな名探偵でも絶対に崩せないアリバイがな」
早々にAが犯人との前提で捜査が始まっていたが、発見された白骨の検死が終わりその結果が報告されると、捜査関係者の間には動揺が走った。
その遺体は死後20年ほど経過していることがわかったのだ。
そしてAが書いた紙に書かれた名前から、行方不明者のリストに合致する名前の男が見つかったのだが、その行方不明者の捜索願が出されたのは21年前だったのだ。
白骨遺体のDNA鑑定はこれからだったが、状況からこの行方不明者が白骨遺体の人物である可能性が高かった。
そうなると、年齢から20年前の殺人事件の犯人がAである可能性はゼロだった。
またAの家族、たとえば親などが犯行に関わっていて、それをAが知ったということも想定されたが、Aの一家は20年前には仕事の関係でフランスに住んでおり、日本に戻ってきたのは10年ほど前だった。Aの家族にも犯行は無理だった。
そして捜査は完全に暗礁に乗り上げ、その後進展することは無かった。
結局、事件は未解決事件として捜査が終了することになった。
「という話だ。自分も長いこと警察官をやらせてもらったが、こんなわけのわからない事件はなかったな」
「市さんはその事件の捜査に関わっていたの」
マスターがそう聞くと、市は深く一回頷いた。
「そうだ。俺が警察官を辞める前に関わった最後の事件だよ。Aの取り調べを担当していたのが俺だった」
そう言って、市はコップを左手で取ると、残った水割りをグイっと一気に呷った。そして常連3人に向けて「もう一杯いいか」と訊いた。
「もちろんいいですよ。それにしてもたしかに不思議な話でしたね。そのAという男はその後はどうなったんですか」
先生はマスターに市に水割りのおかわりをお願いした。
「Aは容疑者から外れたことで警察からは解放されたが、右手に宿った怨念からは解放されなかった。その後もずっとAの右手は犯人を捕まえてくれと文字を書き続けた。Aはそのために普通の日常生活も送ることができずにずっと病院に入院していたが、数年後に自殺してしまったよ。非常に後味の悪い事件だった」市はそこで一息つくと続けて言った。
「しかし、それで終わりではなかった.......」
「えっ、どういうことですか」
先生がそう訊いたが、市は黙って俯くと、いつまでもその先を言おうとしなかった。皆が不審な様子で市を見ていると、市は出された水割りを一気に呷ると席から立ち上がった。「えーと、お帰りですか」
マスターが尋ねると、ああ、と答えて会計はいくらかと訊く。
横から先生が「面白い話を聞かせていただいたから今日は私に奢らせてください」と市に言った。
市は嬉しそうに、今日初めて笑顔を見せた。
「そうかい、悪いな。遠慮なくお言葉に甘えさせてもらうよ」
そう言って、市は店を後にした。
「なかなか面白い話を聞けましたね」
坊ちゃんは市の話を聞けてほんとうに楽しそうだった。
「でもやるせない話よね。そのAという男は何も悪いことをしていないのにそんなことになってしまって」
そう言ったミセスの顔は、少しだけ悲しそうな表情をしていた。
「おそらく殺された男の執念......、いや、怨念と言ってもいいかもしれないそれは、犯人に復讐するまで消えることはないのでしょう」
先生はそう言って、目の前に置かれたすでに気が抜け温くなったビールを見つめた。
すると突然先生は何かを思いついたのか、少し興奮気味に言った。
「マスター、一つ気になることがあるんだけど」
「なに」
「市さん、店にいる間ずっと右手を上着のポケットに入れていたけど、あれってどうしてかな」
マスターは、少しだけ困ったような様子をみせた。
「言ってもいいのかな。実は市さん......、右手が手首から先が無いのよ。刑事だったときに事故に巻き込まれたと本人は言っていたけど」
「どういうこと」
ミセスと坊ちゃんは困惑した様子で先生に尋ねた。
「もしかしたらAが自殺したあと、市さんの右手にその殺された男の怨念が宿ったのかもしれない。そして市さんはその怨念から逃れるために自分で右手を......。いや、考え過ぎかもしれませんが......」
だが、それを聞いた皆が、市さんの様子を思い出し、もしかしたらそうかもしれない......そう思うのだった。