クジラ
波間に塗装が所々はげたベンチが二つ、背を向けて浮かんでいた。
一方には、スーツを着てパーマをかけた、日に焼けていない若い男が、海の向こう側をぼんやりとした視線でながめながら、白い手袋の上の指で煙のたゆたっているタバコを挟んでいる。
「田端美知さん・・・・・・ですね?」
顔を向けずに聞いた。というより、確認した。
返事はない。
もう一方には、二十代前後の女性が座っている。肩までの黒髪で、俯き加減。ノースリーブで白と青のワンピースを着込み。ミュールは片方だけ足にはまっていた。
左側の片方は、近くの水面に浮かんでいる。
太陽が照らす海はガラスが砕けて行くように輝き、近くに、巨大な生物の影が見える。
「あお~、あお~、あお~い林檎はだれのもの~」
未知は小さい声で歌った。
「いつから、ここに?」
二十代に見える男は煙を眺めながら、また尋ねた。
「・・・さあ、いつの間にか。貴方こそ何時から?」
「あなたが、居たときから」
「全然気づかなかったわ」
「先に来たのは私です」
「そうなんですか」
「ちなみに、そちらはペンキ塗り立てですよ」
言われても未知は驚かなかった。
群青色に手が染まっている。それをまぶしい太陽に向けると、黒く見えた。
「ベンチ以外、何もないのね」
自然なしゃべり方だった。
「ご気分はどうです?」
未知は海を見回し、どんよりと泳ぐ黒い固まりに目をやった。
「複雑ねぇ。でも、良い雰囲気だわ」
「そうですか・・・帰りの事とか考えないのですか?」
男は苦笑いしたようだった。
「考えてませ~ん」
水面を軽く蹴る。
「少しは考えてください」
「だって」
未知は両手を広げた。
「どうすればいいの?ベンチの孤島なんて。持ってこれるもの一つも選んでないわよ?」
両足をばたばたさせて、海の水を叩く。
「そうですね。いずれの事ですし」
男はタバコを吸った。煙が細く吐き出される。
お互い、顔も見ようとはせずに喋っていた。
そうする必要もないように。
「どうしてここにいるかも?」
「おぼえてませ~ん」
黒い固まりが寄ってきたかと思うと、遠のいた。
「田端未知さん、貴方は死にました」
「・・・・・・そう」
答えはそれだけだった。
「密室殺人の被害者が貴方です」
「へぇ。平凡な人生の最後は華々しかったのね」
声には悲しみも驚きもない。
「警察が調べてますが、侵入者跡も無いし、ドアの鍵は全部掛かっている」
「死因は?」
「包丁で、胸を十数回刺されていたようです」
「へー。面白い。犯人の当てはないの?」
「一人暮らしでしたね。近くには実家がありましたが。家族も知人もアリバイはあります。それに死亡推定時刻は、午前一時半頃です」
「部屋に変化は?」
「有りませんでした。というより、家具も少なく、ベットとテレビぐらいの簡素な部屋でしたね」
「冷蔵庫はあったわよ」
付け加え、続ける。
「開けてびっくり、人肉がぎっしりと」
「してませんでした」
あっさり否定される。
ペンキが上腕を汚す。
「今、警察は必死になって手がかりを追っているところですよ」
男は、二本目のタバコに火を付け、口に咥えた。
「最後に会うのが僕ですいませんね」
「今度はあたしから質問いいかな?」
未知の声は聞いている訳ではなく、聞かせるものだった。
「あなた、名前は?」
「・・・・・・比岸洋介です」
男は躊躇無く答えた。
「幾つ?」
「二十一ですね」
「どこに住んでるの?」
「田舎ですよ。ど田舎」
嫌そうな口調で繰り返す。
「大学生?」
「・・・・・・ええ」
「部屋、何もないところでしょう?」
「・・・・・・良く当てましたね」
少し間をおいた洋介の声はタバコを吸った。
「人はいましたか?」
「いました・・・・・・」
「名前は?」
「胡池諭斗という、同い年の男です」
「一時半頃、何をしてたの?」
黒い魚影がぬらりと、彼の足元に寄ってきた。
「雑談?」
「お酒は入ってました?」
「いえ、入ってません」
「おもしろい事を教えて上げる。あたし、貴方が死んでいるの、知ってるの」
煙が立ち上る。
お互いが黙った。
しばらくして、未知が口を開いた。
「知ってる?死神っているのね」
「貴方がそうだ言いたいんですか」
「貴方がそうだと言いたいの」
「・・・・・・」
洋介は黙った。
「でも、ここでお互いが告白し合っても、死神がもう一人増えるだけ」
「増えませんよ」
素っ気ない答えだった。
煙が散って行く。
「何しろ、僕が貴女ですからね」
洋介は言った。
初めて、未知が悪戯のように後ろを振り向いた。洋介は猫背で組んだ足に頬肘をたてて動かない。
「諭斗とは、ただの痴話喧嘩だったの。毎度のことよ。それが、あの晩爆発しただけ」
「彼には、合い鍵が渡してあるわ。そして、あたしの部屋の下に住んでる。これで密室は崩れたわね」
洋介はタバコを吸った。太陽が海を照らす。
「それで良いんですか?」
「いいの」
もう片方のミュールも、流れていってしまっていた。
「お仕事ご苦労さま。死神の仕事は私が引き継ぐわ」
「・・・・・・お役御免ですか」
口調は平坦なものだった。
「それとも、本当に私になる?」
「長いこと、ここにいたのですが・・・・・・」
洋介は、それから言葉が続かなかった。
「これからは、私が、いてあげる」
言った未来の背中はペンキの跡が付いていた。まるで、羽根のように。
「貴方はもう、こんなところで、一人でいなくても大丈夫よ。余計な事は訊かないわ。貴方も、あたしみたいな目にあったのでしょ。それなのに、いつまでもここにいるのは、それこそ地獄よ。さあ、行くべき所にいきなさい」
洋介は、暫く動かなかった。タバコを捨て、水面を足先で掻き回す。
すると、今まで水中を漂っていた鯨が飛び出し洋介の身体を飲み込んだ。
飛沫がかかった未知は、ははと笑う。
太陽も落ちてきた。
「胡池諭斗ねぇ。変な名前」
ベンチに一人になった未知は呟いた。
すっかり夜になると、わずかに寒くなって来る。
どっこからか、鳴き声が聞こえてきた。
鯨が鳴いているのだ。
多分、洋介の代わりに。
了