第 五 章 危機を前に迷う余裕はない、心の機らきに遵え
アガメムノンは土石流の跡のように雪の上にしゃがんでいた。モニュメントのように、人が脆いことを告げる、継ぎ接ぎだらけの旗のようであった。
しかし、その双眸の奥底には、微かに叡智の光があった。それは失墜によって何かから解放された、生命の自由の兆しの萌芽であった。
とは言え、実存的には、トーガ(古代ローマで着用された上着。一枚布を巻いてドレープ(巻いた布を弛ませて做る襞)をつける)の上に虎の毛皮を巻いている丈で、とても寒そうに見える。
「中に入らないか」
ところが、アガメムノンの体が大きすぎて、あばらの間や、眼窩の穴からは入ることができない。背後は骨盤があって入れないし、あばらと骨盤との間には折りたたんだ足があって、やはり入り込めない。どうにも外れない智慧の輪のようであった。
「これ、ダメだよ、無理!」
イユは早くも匙を投げた。雪の上に尻を突いて空を見上げる。
マコトヤは他人事のようにニヤニヤしている丈だった。
「そうだなあ」
何かできないか、神象の周りを廻りながらも、同意する。雪を踏むザクザクという音丈がする、静寂のみであった。
「困ったなあ、本当に」
イリューシュも困り果てた。
「すまん。俺のような者のために」
すっかりしおらしい。
それを見ては、イユも可哀そうに想い、
「可哀相ね。虎だった時なら、大丈夫だったでしょうけど、人となって、その姿じゃねえ、凍えちゃうわ。きついよね。どうしようか。
この白い神象の聖堂もね、大きさは十分なはずなんだけど、入り口がねえ、ないのよねえ。どうしよう。
材料があれば、新しくテントみたいなものを作ってもいいのかも」
「ぽんぽんと気分で簡単に言うなよ、俺は棟梁じゃねえぞ。物事ってものはな、そうそう簡単にいくもんじゃねえんだぜ」
「あなたに言われたくないわ」
「本当のことだからな。地道に、よく考えなきゃ、実現しない」
「そりゃそうね。ねえ、こんな一般論、繰り返しても虚しいわ。何も解決しない」
埒の開かぬ会話にやれやれという顔で、マコトヤは、
「さて、さりとてもかくとても、入れてやることがあるべき姿なれども、実際、入らないものは仕方ない、か。うむ、実存は本質に先行してしまったなあ。さて、やはり別宅しかあるまいよ。解決できぬものを論じても、仕様がない」
イリューシュは現実とは面倒臭いものだなと頷きかけたが、はっ、とした。
マコトヤの言葉が終らぬうちに、いくつもの遠吠えが聞こえたからだ。不気味な、異様な、戦の法螺貝の響きのようにも響き、悲しげでもある獣の長咆え。背筋に寒気と戦慄が走る。
不安と緊張が空気を蓋った。
畏怖に由来する憤怒を覚えつつも、イリューシュは髪靡かせ、身に込み上げる魂魄の横溢を感じ、敢えて悠々と見回す。
「ちっ、もう帰って来やがったぜ。嘘じゃなかったんだな。嘘でもよかったのに」
呵々大笑。
リンレイが蒼白になる。
「人狼どもですね」
その言葉と同時に、白い雪の上に、白っぽい灰色の狼たち、虎のように大きな、禍々しい人狼どもが次々と現れる。
その中には、数十のオークの群れが混ざっていた。粗末な毛皮の鎧、黒く、毛の生えた、赤い眼と黄色い牙を持つ禍々しい亜人種。
さらには、巨魁なトロールも数匹。体に苔や草や低木を生やし、糞掃衣をまとった体は異臭を放ち、不揃いな歯と牙と小さな頭、落ち窪んだ暗く小さな眼、癡かさそのもの。さまざまなトロールの種族の中でも、最も凶悪な類だ。
「何て汚らしい、おぞましい者たちなの!」
イユが恐怖で半ば憤りながら叫ぶ。リンレイも杖を構える。
しかし、イリューシュは違うものを見ていた。
「おい、あれは何だ」
その時、アガメムノンはむっくりと起き上がった。危機に瀕して気魄が甦ったのだ。
イリューシュが指差すものを見ようとする。
その指の差す方向には、翼のある獅子、黄金の大蛇を絡ませた黄金の獅子がいた。咆哮が地を揺るがす。鬣はとても長く翼以外の全身を覆う。風もないのに棚引く。
アガメムノンは言った。
「おゝ、あれがマハールーシャだ。最も苦行した苦行者であった。いつしか生命の黄金の理論に囚われ、あのように変じたのだ」
「生命の黄金の理論?」
「生命は正しい。生命感が正義の基準であると考え、強く美しい者が正しいと言い始めたんだ」
「間違ってないな」
「しかし、それは自己肯定のためだった」
「仕方ないだろな。人の営みはすべてそれだ」
イリューシュは懐に戻した聖剣を再び取り出した。
アガメムノンも金の鋲が打たれた革の鞘から大剣を抜く。牙が太い剣になったのである。なったというよりは、戻ったと言うべきか。元々それは彼が軍人時代に有していた剣で、冗談のように大きく幅広で、半ば伝説となった『アガメムノン』という剣であった。彼の綽名の由来である。ギラリと照った。
マコトヤが言う。
「嫌かもしれぬが、イユ、あなたは中に入った方がよいだろうなあ」
「いやよ、イリューシュが」
「さもありなん。思ったとおりのことを言う娘だ。大丈夫さね。二律背反する力が来るから。止揚さ」
「え?」
言葉と同時に、ミサイルのような火矢が次々と飛んで来て、狼たちを殺傷する。
「え、何なの!」
イユもイリューシュも驚く。
その矢の大きいことと言ったら、矢と言うよりは大昔、モーヴィーディックを狙った銛のようだ。太くて一メートル以上の長さだ。
「誰、どうして、味方?」
イユが矢の飛んで来た方向を見ると、山賊のような、異様な風体の男が二人。
一人は顎鬚を蓄えた巨漢で、熊皮を羽織った身に大中小の肩掛け革鞄をいくつも下げ、道具や武器を満載。鹿皮の太いベルトにも、さまざまなアイテムを下げ、袖なしの羽織にはいくつものポケットがあって、細かい器具が溢れんばかり。背負ったリュックも荷物がぎっしり。
独り軍隊と呼ばれるリヨン(璃与御)。
機械装置と言ってもよい、途方もない弩であった。野戦砲のように橇に乗せて、二頭の大羚羊に牽かせている。
ちなみに大羚羊とは、現象世界にはいない羚羊の種で、ヘラジカのように大きいが、ニホンカモシカのように山岳地帯の岩の崖を軽々と上り又下り、自由自在に移動する。
オタクらしからぬ朗々たる声で、
「そうら、喰らえ、うらあ、やっちまえ」
さらに物凄い大弩があった。
その矢の長さは五m。鉄製で数百㎏。それが三本同時に発射できる三連射式。梃子の原理と、大小の歯車の組み合わせで、鋼鐵の線を撚った特製の弦を巻き上げる機械だ。弓の長さは四m。これもまた、四頭に牽かせていた。到底、山賊の輩の製作ではない。
マコトヤが言う、
「ガリオレ(画璃緒呬)という男がいて、天才なのさ。元々は宮廷に仕えていた。彼があれを造ったのさ。正確に言えば、リヨンという男の企画を実際の設計にした、ってこと。
撃っているのがリヨンさ。武器マニアで、操作やメンテ、製作に通じている。しかも見たとおり莫迦力の持ち主だ」
超弩級の大弩の矢先には動物の脂が塗られた薄布が巻いてあり、火が点されている。火を点している無精鬚の痩せた男がガリオレだった。暗鬱な、どこか狂気を帯びた眼、濃い栗色の長髪は艶やかで毛が太い。元は立派であったと思われる革製の鎧を着用し、
「撃て、撃て、撃て」
狼たちは逃げ惑うが、マハールーシャ丈が飛び出し、砲撃のような矢をものともせず、イユらを直撃しようと雪を蹴散らせ、急斜面を猪突猛進し、向かって来る。
怒涛のような怒りを漲らせ、突如勇躍するアガメムノンは歯噛みし、胸を叩き、
「うぬ、来させるものか」
豪傑英雄の激突。振るう太刀を牙で受けてねじり折ろうとするも蹴り斃し、踏みつけつつも串刺しにせんとすれば、黄金の大蛇が絡み締める。あばらも折れそうな力なるも、アガメムノンの無双の怪力、引き離す。されども、それはまた獅子なるマハールーシャが離れ、間合いを取ることにも繋がり、必殺の機を逃す。
再び両雄激しくぶつかり合えば、天も地も震え、鳴動した。
イリューシュが心配するのは、
「大丈夫か。雪崩が起きるんじゃないか」
マコトヤは落ち着いている。
「この斜面、イヴァント峡へ落ちる広大なる斜面は、未だかつて雪崩なんぞ起きたことがない。神懸かりじみた偉大な奇蹟だが、事実だ。
壁のように南北に長く続く山を見よ。この山の嶺を」
イリューシュは何かを感じた。
「ううん、よく見りゃあ、こりゃあ、まるで長い龍の背だな」
ほぉ、とマコトヤはふざけた顔で感嘆して見せ、
「なるほどね。何かが、おまえにさように観ぜしめるという訳だね。ふむ、ふむ、まさに、そのとおり。この脈々と続く一個の山は龍神の背と呼ばれている。
またの名は東の壁。アカデミア天領の東の国境線であり、中心たる聖都アカデミアの東に当たるからな。東は青龍の方角だから、理に適う。
本来、盤石。実際、永遠に盤石、かつてはそう言われていたが」
そう揶揄して笑う。
「かつては?」
「さよう、かつては。
今や、物質主義が蔓延し、永遠であったものが永遠ではなくなった。まあ、それも時節ってもんだがね。
時間や空間さえも、絶対的に一定なものじゃない。延びたり、縮んだりする。相対的な存在なんだ。それと同じさ」
「少し筋が違わないか。意味が通じないぜ」
「構わんさ、些少な事など。
さても、物質主義は、神聖シルヴィエ帝国の台頭が最たるもの。
この国は、聖イヰ教を中心に、数千年前からあったが、四、五百年前から、大いに侵略征服制覇の国となって帝国化し、国土を拡大、北大陸の大半を占めるようになってしまった。
特に、ここ数十年、爆発的に科学を発展させた。
すべての国々が弓と剣と槍で、騎馬戦の一騎打ちをする中、巨大空母に音速で飛ぶジェット戦闘機を積み、大陸間弾道ミサイルで威嚇し、七十七億の人口を背景に、予備隊含めて十億の兵から成る軍を擁し、世界最強最悪の宗教軍事国家となっている」
「到底、太刀打ちできないじゃないか。
むしろ、彼らが世界制覇していないのが不思議なくらいだ」
「アカデミアの力ってもんさ。
知っているかもしれんが、ここは真如の世界ってことになっている」
「知ってる。
リンレイも言ってたし、俺たち自身も、俺たち自身そのもので、それを覚っていた」
「精神の高貴と正義と真理への通暁が最大に力を振るう(はずの)世界だ。
アカデミアの真理の灯火が潰えない限り、物質科学実証主義が絶対専制君主として権威を天下に振るうことはあり得ない。
実証主義は有効な思想だが、大いなる欠点がある。我らが見る世界が、確かに見たままであるということを前提にし、それを無条件に是認している。
しかしながら、それを証明することは、論理的な思考法に依っている限りに於いては、論理的な思考法に起因して、未来永劫に不可能になる」
「へえ、何でだ」
「論理思考は規定する。実証とは、客観的な、かつ証明済みの方法によらなければ、信用に足るものではないとする。だからさ。
ところが、我々は思考と観察が正しいかどうかを証明していない。しかしながら、思考と観察を使うしか、証明の方法を持っていない。
ふ、笑える。どうにもならない」
「なるほど、絶対無理だな。
論理思考は論理思考の法則によって、絶対矛盾のアンチノミー(二律背反)に陥っている、ってことか。ふうん、言われてみれば、そうかもな。
で、アカデミアがそれを超越して屹立しているという訳か」
「この東の壁をジェット戦闘機が越えられないのも、高さや上昇気流のせい丈ではないってえ訳さ」
「龍神のご加護か。
いつかは行ってみたいものだな、アカデミア」
「あゝ、それまで簒奪されないことを祈ろうぞ」
「何だって?」
ぐわっちゃ! ごん! ぐをゎわん! 重くて硬い物と物とが激しくぶつかり合う音にすべてがかき消される。
「どぅおっせぇええいいい」
「ぅうおりゃあああああ」
アガメムノンとマハールーシャの闘いは、あたかも関羽雲長と張飛翼徳とが闘うかのようであった。ぶつかるたびに天地が揺らぐ。
その間に弩のミサイル攻撃で、忠誠心のないオークは逃げた。標的になりやすい、巨大で愚かなトロールは斃れて雪に沈む。
人狼は射程距離を推し測った。退いて遠巻きに見ている。近づいてくる様子はなかった。
イリューシュは訝しる。
「しかし、何であいつらは俺たちの味方をするんだ、あの弩の二人」
「リヨンとガリオレのことかな。味方じゃないね。山賊の一味だが、伝説の聖なる剣を奪うために、山賊を離脱して来た。それ丈さ。二人丈のものにする気であろうよ」
「伝説? そいつあ、知らなかったな。でも、何で聖剣のことを知っているんだ」
「むろん、小生が教えたから」
「何で、おまえは知っているんだ」
「マガダが夢に出て、告げた」
「何て世界だ。
やい、その言いっぷりじゃ、奪いに来るであろうことも予測できてたんだろ? なぜ、奴らに教えた」
「マハールーシャが来るから。アガメムノンじゃ、役不足の可能性がある。ま、そんなふうにも思ってみた訳だね」
「マガダの肉…ないけどな…を狙う奴らと、聖剣を狙う奴らをぶつけたって訳か。何でもお見通しだな。諸葛亮孔明みたいな奴だ」
「光栄だ。
アウフヘーベン(止揚)さ。相剋する者を対立させ、昇華する」
「孔明じゃなくてヘーゲルか」
「さ、そういう訳だ。では、いよいよ鉄を金に変える賢者の石の出番でござあい」
「何だって? 錬金術か?」
「ふ。わからぬか。さあ、剣を抜いて。では、イユ、聖句を唱えよ」
「え?」
「イリューシュの持つ、あの聖なる龍肯剣は、あなたの聖性によって昇華する。あなたがあの剣のフリダヤ(心臓)ってえ訳だ。
又は補完し合っている。小生にも詳細不明だが。研究途上ってとこかね、かんらからから」
笑うマコトヤ。
イユは眼を瞠った。
「どういうこと?」
「いや、わかっているはず」
「でも、何をすれば」
「陀羅尼を、どうぞ。真咒、真言、マントラमन्त्र、心咒、明咒、神咒、いずれにせよ、魂が希うものを、機らきを心鏡に映し、噛み選りわけて味わい、呼び覚まし、唇に乗せて空に泛べよ」
イユは遠くを見た。遙かなる彼方を、この世を超えた彼岸を。振り向くと、アヴァと眼が合った。幼女の双眸は光線を当てたダイヤモンドのように燦燦としていた。あゝ。彼女はわたしを導き援ける、神の精髄。観自在菩薩の御魂。言葉にならない神代の考概で天啓を授ける。
イユは覚った、何をなすべきかを。
「ぐゎふてゐ」
つぶやく。
「ぐゎふてゐ」
二つ目は、ようやくつぶやく感じであった。
堰を切ったように言葉が続く。
「ぷわらぐゎふてゐ、ぷわらさむぐゎふてゐ、ぶをでひゐ、すゔわあふわあ」
読み方は人口に膾炙したものと異なるが、これは「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」、すなわち、般若波羅蜜多心経の陀羅尼であった。
イリューシュの懐から光線がはみ出る。まるで衣の下に、太陽を隠してでもいたかのようであった。出す。
「っうわあっ!」
一瞬、すべてがホワイトアウト、いや、ゴールドアウトした。光が落ち着くと、剣は鉄に変じている。
すべての衆生は驚愕した。それまでは、アガメムノンとマハールーシャはこう言って争っていた。アガメムノンは、
「すべての価値はツクリモノだ、捏造だ。捏造という言葉も、空虚という感覚も、無という考概も。
名を冠すべき当の本質はない。それそのものがそれたるべきイデアはない。無のイデアもない。無ですらもない、現実丈しかない。
恐るべき空莫、あゝ、空莫などと生易しい、実にリアル、現実であった。執著を持つ者は一秒とても生きられない、堪えられない。現実、この道なき道しか道はない。平常道、名もなきこの道しかない。
臨機応変せよ。一向に『生の横溢』などと言うは、片鱗でしかない」
「およそ愚かなことを。
ならばこそにあらずや。ならばこそ、心が真に希うものに遵いてあれ。信ずべきは心の機らき。生けとし生けるものは生を求める。欣求する。渇仰する。単純な事実、太く強い真理。
一度、是非を諸とも捨てよ、畢竟、考概を捨てよ。その枷から解脱し、自由の空気を胸いっぱい、吸えよ、味わえよ。解放されたるの爽快を覚えよ。さすれば、自ずと道は晰らかならん。睿らかならん」
重機装甲戦闘車輛のようにぶつかって斜面を揺るがし、闘いつつも大論理をもぶっつけ合っていた二人の超弩級の大豪傑は、聖剣の光にぶっ飛んだ。
「ぅわっ」
「ぁひゃあ」
その滑稽なさまを見て、腹を抱えて笑うイリューシュ。
「あはは、おかしい、おかしい、英雄も所詮は人か。あはは、その吃驚した顔。聖人も酢を吸えば酸っぱい顔をするというが、まさに、さもありなん。
ちょっと、聞けよ。
古代中国の南北朝から隋の時代を生きた禅僧、慧可は疑念を解けずに煩悶していたが、嵩山の少林寺にインドから来た達磨大師がいると聞き、大師に自らの覚悟を見せるために腕を切り落とし(雪中断臂)、命懸けで問うた。
だが、心が苦しくて堪らないと言う慧可に大師は「ならば、その心とやらを出して見ろ、たちまち解いてやる」って感じのことを言ったらしい。すると、どうだろうか。摩訶不可思議、慧可は苦しみが解け、頓悟したらしい。
同じ科白を言っても、時ところが違えば、効果はなかっただろうよ。それが機らきというものだ。今、俺もそれを実践してやる。
俺は何も知らんし、わかっちゃいないけどな。だが、結局、そういうことなのさ」
呵々大笑。大股で歩き、雪上をずかずかと進み出て、豪傑の間に立った。
聖なる龍肯剣を挙げる。それは既に立派な鉄の長剣となっていて、複雑精緻な彫で燦燦とし、神剣と言うに相応しかった。
「そりゃっ!」
剣を雪に突き刺して立てる。
「どうだ」
アガメムノン、マハールーシャは、それぞれ聖剣の東西に立っていたが、崩れるように雪に膝を突いて埋めた。
「マハールーシャよ、正しく聞けば、おまえの言うことは正しい。正しいも、間違いも、とてもかくも、であるが」
「アガメムノンよ、正しく聞けば、おまえの言うことと俺の言うことは同じだ。同じも、異なるも、とてもかくても、であるが」
その不可思議な有様を遠く見ていたリヨンとミカエロは勇躍し、
「そら、聖剣だ。奪えや、奪え、あははは」
イユがそれを見て焦る。リンレイも杖を構え、
「あ、ダメだ、来ちゃうよ」
マコトヤは微笑み、
「まあ、見ていなされや」
イリューシュも微笑して待った。
熊皮を羽織った武器オタクのリヨンが弩を持って、イリューシュに狙い定めつつ、歩み寄りながら、
「さあ、その剣を寄越せ。じゃなきゃ、撃つぜ」
「やれるもんならやってみな、なーんて、安っぽいセリフは言わないぜ。ふ。そうかい。ほらよ」
イリューシュは剣を雪から抜いて、巨漢リヨンと瘠せた黒髪無精ひげのミカエロの前に擲った。
「いい子だ、へ、もらったぜ」
ところが、二人とも聖剣の傍にいざ近づくと、途端に崩れるように雪に膝を突き、感涙を滂沱のごとくし、
「あゝ、素晴らしい」
「心が清み明けく」
と言った切り、しばらく諸手を突いて臥せっていたが、
「このようなものを俺らごときが扱えません。どうかこの身を、聖なる龍肯剣を護るお役に立てさせてください」
イリューシュは心得顔で欣然と微笑んだ。
「よかろう」
そして、人狼の方を見遣る。
「おまえらは、どうだ」
すると、その言葉に呼応するように、いかなる愚劣者にもわかるように、聖なる龍肯剣は自らに於いて自らを顕示し始めた。自由自在ということ。光あふれ、こぼれ、漲り、満ち、終に光を花火のように打ち上げた。
聖剣の光輝はイリューシュの頭上で、炎となってから、直径十mの円形と三角形と菱形と四角形の三次元的な組み合わせで成される、聖なる黄金の紋を象った。その周りを衛星のように、聖句がいくつも廻り、中央には龍文字で構築された龍肯の文字を安置し、荘厳した。
驚くべき奇跡が起こる。
人狼は皆畏れ、崇高さに打たれ、崇拝して平伏し、見る見る間に人の姿に戻った。人狼は沙門に還ったのである。しかしながら、狼の野性をも多分に残していたので、人狼沙門とも呼ぶべき存在となっていた。
マハールーシャは黒い髪と黒い鬚を伸ばした野蛮な大豪傑の人となって、聳え立っている。ぎょろっとした大眼玉で、非情冷厳な荒神のごとく昂然と頭をもたげ、野性に渦巻く黒髪を、暴流のごとく靡かせ、天を衝く威風たるや、人に非ず、明神か神霊のごとしであった。そんな魁偉な大偉丈夫がイリューシュとイユと聖剣の前では、怒れる神の前に平伏す人のように狼狽えるのは、滑稽なほどである。
かくして、イユとイリューシュはたちまち多くの仲間を得た。仲間ではあるが、畏怖と崇神の念とによって、アガメムノンもマハールーシャ以下も、ガリオレもリヨンも、皆、イユとイリューシュとを鬼神であるかのように畏れ奉った。
そのような畏怖も、崇敬も、面倒臭そうに振り払って、イリューシュは首を捻り、マコトヤに尋ねた。
「何だか煩わしいことになったなあ。
いや、さても、それはともかくも、さっきの話が気になっているんだぜ。説明してくれるんだろうな、俺やイユが無関係ならともかくも」
「あゝ、そうだとも。お前たちが無関係なはずもない。すべてを話しておかなければ、いけなかった。そう、むろんだ、話そう。
そもそも、シルヴィエは常にアカデミアの征服を画策していた。当然であろうぞ、物質世界で頂点に立っても、このIEでは、精神世界で頂点に立たなければ、根本からの把握、心底からの納得、真奥の獲得、神髄の会得ができないゆえに。
実際、先の大戦で物理的に圧倒的に有利な状況下にありながら、シルヴィエはアカデミアの守護者であるクラウド連邦に壊滅させられている」
「復讐、野望、いいね」
マコトヤは肩をすくめた丈だった。言葉を続ける、
「最近、コプトエジャ(世界最古の国。古王国と呼ばれ、各国から崇敬されている)の友人の手紙でわかったことだが(それもあって、ここに来たのさ)、彼ユリアスは言う、『アカデミアの大いなる力となるアイテムを彼らは狙っている。それも何十年も前から、計画されていた。この時代に出現することも知っていたようだ』、と。
小生も天文占星で、その動きを朧に感じてはいた。我がアマヤス(天易)家は代々天文占星の家柄だからな」
「それって」
「そうだ、聖剣のことだ」
「そもそも」
「この聖剣は何だと、イリューシュ、おまえは問うか」
「そのとおりぜよ」
坂本龍馬を真似たつもり。
「教えよう。一般論だがね。シルヴィエなどは、恐らく、もっと具体的な情報を持っている。そういう前提で聴くがよい」
マコトヤは雪上の戦いが先ほどまであった場であるにも拘らず、大学の講堂で特別講義を行う学長のように威を糺した。
「この広大なアカデミア天領の極北に、アカデミアの坐するイデア山以上に神聖と言われる山がある。それが眞神山だ。世界一高い山で、標高四万四千四百四十四m。
全面垂直の絶壁で、そう、通常の山のように円錐型ではない、立方体に近く、麓も頂上も、水平に切ったときの面積は同じだ。(ちなみに、アカデミアのイデア山もそれと似ているが)
その頂上には磐代があり、天之眞神巖と呼ばれるが、そこに龍の形をした縦の亀裂があり、それは彝龍之裂と呼ばれている。※イ(彝)は不可説の聖なる語(文字)である。
永遠不動で絶対に毀たれることのない巖だが、もし、それが缺し、人の手に渡る時、聖なる剣になると言われていた。それが龍肯の聖剣だ。
聖なる龍肯の真理に基づく神聖を帯びた剣。龍肯とは、龍のごとき肯定という意味だ。人間のそれではない。
龍のごとくに大いなる、無際限な肯定という意味で、人間には理解できないとされている。
もっともなことだ。無際限な肯定は人間には知覚し難い。二律背反するものが互いに矛盾なく肯定される。一切と対立しない、矛盾しない、差異がない、(結果的に)特性がない。あたかも、現実に於いて、すべてが現実として存在するように。
知覚し得ないそれを知覚し得るかたちで顕現し、具象せるもの、それが龍肯の聖剣である」
「ただ、洞窟で拾った丈だぜ。信じられないな。だって、なぜ、あそこにあったのか。眞神山は、きっと遠いだろ? 飛んで来たのか?」
「逆に、それがいかにも龍肯的とも言えなくもないが。
確かに、眞神山は、ここから遙かに離れている。しかし、悠久の時間の流れの中、さまざまなことが起こったはずなのだ。現実は現実でしかない。
摩訶不思議の因縁で、長い歳月を経て、洞窟までたどり着いても、まったくあり得ない話ではない。起こったことは、まさに起こったのだ。
不可解ではあっても、それが何であろうか。事実、それが眼の前にある丈だ」
半信半疑の顔で、イリューシュは考え考え言う、
「超絶の力を得るために、この剣を欲していると言うのか、奴らは」
「だろうね。少なくとも、超絶の力があること丈は確実だ」
「もし、この剣がその剣ならば、奴らがこれを求めるのも、あり得ない話ではないが」
「神聖シルヴィエでは、百年以上前から、聖剣について研究機関によって多方面に調査研究されている。しかも、簒奪者はシルヴィエ丈ではない。スパルタクス帝国の動きも同じだ。
スパルタクス帝国はシルヴィエの情報を、どこかでキャッチしたか、或いは意図的に情報をつかまされ、利用されているのか、いずれかであろう。彼らスパルタクスのアカデミア侵略の理由も聖剣なのだ」
「侵略? そんなことが起こっているのか。何てこった。巨大な力が二つまでも。
どうしてよいのか、見当もつかないな。コプトエジャの手紙にヒントはないのか」
「彼も詳細を知る訳ではないからな。無理であろう。コプトエジャの長老や王ならば、もっと何かを知るかもしれないがな。
このことは、秘中の秘らしい。数十年前にシルヴィエの調査団が非公式に古王国コプトエジャに来たこともあると言うが。
むろん、聖剣に関して調査したらしい。調査の結果、シルヴィエが何を知ったか、それはユリアスにはわからないようだ。
王族でも深奥の一部のものしか知らないとのこと。ユリアスは王族だけれども、庶子だからな。限界がある。彼の身の安全を思えば、無理強いはできない」
「不詳不明か。ふふ、ともかくも、かなりヤバいって訳だ?」
「さよう」
「ふ」
鼻先で嘲りながらも、イリューシュは突如、表情を曇らせ、
「イユは」
少し悲しげな声であった。
「ついてないな」
青い空を見上げる。
ただ、青い丈だ。
「おい、聞いたかい」
ゼイゼイと雪を掻き分けながら、なりふり構わず逃げまくる老婆のような顔のオーク。その醜さ浅ましさ。涎、洟水、長年の汗が腐敗した体臭、糞のような息の臭さ。兜はずり落ちて、耳に掛かっている。
「あゝ、確かにな」
相方も太腿に尿を漏らしていた。もう一人の極端な金壺眼のオークも、
「俺にも聞こえたぜ」
オークの聴覚や嗅覚は動物のように鋭い。百数十m離れた場所で、逃げ惑っていようとも、イリューシュとマコトヤの会話は聞こえていたのである。
「おまえ、知っていたか」
出張った頬、天狗鼻、縮れ髪のオークが豚鼻のオークに訊くが、豚鼻は、
「へっ、知るもんか」
老婆のようなオークは窘めるように、
「だがな、凄い宝のようだぜ」
豚鼻も同意する。
「ちげえねえ」
天狗鼻もそう同意し、金壺眼も、
「だな」
「ともかくも、今は生き延びようぜ」
老婆のようなオークがそう言って話を打ち切る。
「言われなくとも体が解ってらあ、俺の指示なんざ、必要ねえのさ」
さて、そんなことは知らず。イリューシュたちは考え、歩む。
黒き長髪のガリオレが進み出て来て、言った。
「山賊どもが(昨日まで自分らも山賊でしたが)間もなく来るでしょう。我々のいなくなったことに気がついて、何事が起ったかを悟るでしょう。
畜生にも劣る彼らにすら、知性はあるのです。知恵があるのです。何て始末の悪いことか。
たとえ、剣のことは知らなくとも、あなた方を見れば、襲って来るでしょう。女性がいれば、尚更です」
「では、防備をすべきだな。一足す一は二。当然のことだ」
「大樹で塀を作りましょう。どうです」
そう言葉を挟んできたのは、さっきまで人狼だった男だ。リカオン(利哥御)という名で、むろん、元は沙門であった。出家前は将兵であったが、学生時代は建築を学んでいた。途中退学し、放浪生活の後、軍に入った変わり種である。
口髭を伸ばした細い顔のリカオンは言葉を続け、
「物見のできる櫓を立てて、門は一か所に限りましょう。当面は、それがよいでしょう。それから、小屋も。マガダの亡骸丈では全員が入れませんから」
イユが訊いた。
「でもさ、道具は」
リカオンは腰の袋から鑿を取り出す。石を割ったり、削ったりするためのものであった。
「かつて、我々が普通に沙門だった時代、山上で生活するための鉈や斧を全員が使っていました。それが今もあります」
マハールーシャは得意げにアガメムノンに言った。
「どうだ、大したものだろう、俺の部下だ」
マコトヤは欣然と、
「ミカエロと組んでやらせよう。彼も逸材だ」
アガメムノンとマハールーシャは怪力を生かし、大きな岩や大木を軽々と運んだ。人間重機だ。
慣れてくると、マハールーシャとアガメムノンは二人丈の木材運搬リレーを始めた。直径二m長さ三十m以上はある丸太をアガメムノンが百m先にいるマールーシャに投げて渡す。次にアガメムノンは全力で走って、マハールーシャの百m上に待ち構える。この間、五秒ほど。急斜面の二百mを五秒で駈けるのである。そして、マハールーシャが丸太をアガメムノンへ投げる。かくして巨大な丸太が五秒で二百mを移動した。これを繰り返すのである。
「凄え」
イリューシュの驚愕をよそに、アガメムノンは言う、
「いや、独りで担いで走った方が、もしかしたら、速いかもしれませんが、それも何百回かやると、多少疲れるので」
「ま、そりゃあ、そうだろうぜ……」
丸太は立てられる。
そのために、春も夏も秋もなく、数千万年来、積もり続けた深い雪を除け、氷の層を打ち砕き、太い鉄の棍棒によって、雪の下の岩(岩盤)を砕き潰して穴を作った(アガメムノンやマハールーシャがやると、岩はまるでチーズみたいに簡単に加工された)。
そこに、太い杉の大木の下三分の一を嵌めて立ち上がらせ、神象の聖堂を大きく囲むように、いびつにならべた(わざとじゃなくて、急傾斜という地形のためと、環状にする余裕がなかったせいである)。
土のように踏み固められないので、補強のために丸太の基部に大きな石を積み上げる。こうしてできる塀は、城壁と言ってもいい、その高さは雪から出ている部分丈でも、十四、五mはあった。
塀(城壁)の上部には人が歩けるように桟を設けた。ただし、アガメムノンを筆頭に巨漢たちは歩けなかったが。
城砦の門は一つ丈である。
黒く真っ直ぐな、柱のような細長い尖った石を左右に、分厚い樫材の板で扉をつけ、樫材の閂を備えた。なお、石は元々モニュメントのように、その場所に立っていたものである。
石板に『龍肯』と刻んだ。文字の原版はマコトヤが書いた。二つの字は熱く滾り、光と炎のようであった。
扁額のように門の上に掲げる。これが後に奇観で有名になる龍肯砦、又は龍肯城砦の始まりであった。
それ丈ではない。門の左右に物見台兼櫓を建てた。リヨンはそこへ大砲台のように、あの超弩級の大々弩を据えつける。
同様に東・南・北側の各々の塀の上にも置いた。
「近いうちに本物の大砲を据え置こう。そんなに先の話ではないさ」
彼は櫓に立って腕を組み、そうつぶやく。
さらに、塀で囲った敷地内に、太い丸太で、岩よりも頑丈な丸太小屋を三つ建てた。
一つは聖堂を保護するようにマガダの骸を大きく蔽って建てられ、マガダの部分を除いて、板が二重に敷かれた。巨大なワンルームで、当面、イユたち以外(マコトヤ、アガメムノン、マハールーシャ、リヨン、ガリオレ、リカオン)は神象の聖堂を囲むように雑魚寝した。後には、板で仕切りを作って小部屋を設けることとなる。そのときに、部屋はちょうど、マガダを囲む円陣のようになるのであった。
もう一つは、人狼たちの居住すべき三階建ての大きな別棟の家であり、斜面に建つため、西側の正面では三階に見えるフロアが東側では一階であった。
なお、最後の一つは倉庫である。食糧と薪が入った。
いずれも、床は木製だが、板を敷いた丈ではなく、箱型にして、中に空気のスペースを作り、地面の冷気が直接来ないように工夫されている。
建築と同時に、すぐに調達部隊が編成され、薪や食糧を集めに出た。飲料水については周囲が雪なので、熱源さえあれば不自由しない。
窓はどれも小さかった。ガラスがないので、厚さが四十センチ以上ある氷を窓に嵌める。内側が暖かくても、外は氷点下なので、融けてなくなることがなかった。見通しは利かないが、採光にはなる。
最大の喜びは風呂であった。人狼たちは温泉から運んだ水を沸かす。大石を削った湯船に満たした。
「素敵」
イユは歓喜する。
飛びつくように駈け寄った。暖かい湯に手を浸す。
「あゝ、じんじん痺れるように気持ちいいわ。あゝ、暖かさ、忘れていたわ。もういつも指先と足先が冷たくて。あゝ、素敵。血管が広がる……。火に当たるのとは、全然、違うわ。とても幸せ。あゝ」
そしてさっと振り向く。
「お風呂に入るから、いなくなって! ねえ、カーテンとかないの」
一人の人狼が進み出た。
「屏風があります。杉の枝を編んだやつです。すぐ持ってきます」
確かにそれはすぐ来た。六曲一双で、ぐるりと、石風呂を囲む。
「凄い。じゃ、遠慮なくいただくよ」
思えば、ここに来てから、服を脱いだことがなかった。
「あーーぁあ」
人狼たちは驚く。慌てて訊いた。
「どうかしましたか」
笑い声。
「あはははは、大丈夫。気持ち好過ぎたのよ」
その後はお湯のしずくの音、湯の面を打つ音、しぶきの音。そして楽しげな鼻唄。
「石鹸があれば最高なのにね」
人狼沙門たちは蒼褪めた。
「申し訳ありません。気がつきませんでした」
「いいのよ、別に。あゝ、最高」
たっぷり一時間は浸かっていた。
まるで、生き返ったように艶やかに、血色もよくなり、双眸は生命にあふれ、生き生き溌溂とし、眩く輝いて見えた。誰もがその美しさに見惚れる。
「うーん、ドライヤーが欲しいわ」
「それは、ちょっと。電力供給のシステムがありませんから」
石鹸(オリーブオイルを煮詰めたもの)は、翌日、来た。
イリューシュは人狼沙門たちを手伝いながら、登り窯式の暖炉を、大きくするとともに、普通の煙突式のものへと組み建て替えた。
棚を作ったり、椅子を作ったりもする。
「家をいじるって、こんなに楽しいことだったのか」
また、身につける物も然り。
特に革製品だ。人狼沙門たちからタンニンで鞣した革をもらって、鞘が作れないか、と考えた。
最初の頃の悲惨な状況と比べれば、天国の絶頂のような快適さで、何とも居心地のよい家であった。世界を征服した皇帝でも、これほど幸せではないだろうと、イユは思う。
アヴァは指で雪の上に円を描いて、所望した。
「何だよ、それは」
イリューシュは十数分後に、それが鏡であることを理解した。
「手に入るかな」
「お安い御用で」
リカオンはその日のうちに調達して来た。
アヴァが鏡をどうするつもりなのか、幼いとは言え、やはり女の子なのだな、などと見ていると、棚を指さし、その指を動かして空いている壁を指す。
「棚を作れとな」
イリューシュとリカオンがあっという間に端材で作ると、アヴァは鏡を置いて自分を映し、合掌して礼拝した。
「自分を拝んでいますよ」
さすがのリカオンも気味が悪そうであった。
「あゝ、言われなくとも、見ればわかるよ」
イリューシュもあ然としていた。
その頃、イユは満ち足りた表情で、〝我が家〟の外観をうっとりと眺めている。
倉庫の一部は、自然の冷凍貯蔵庫とした。狩猟で集めた動物の肉(野兎、雉、猪、羚羊、鹿、野牛など)や川魚を保管する。木の実などは、乾燥した普通の部屋(普通の部屋は、どこも乾燥していた)に保存した。一冬分以上の山積みの薪も同じくである。
食糧もまた、千人いてもあふれあまるほどだった。
しかも、人狼沙門たちは獲物の毛皮を売って、その現金収入を資本とし、村人から塩やチーズやミルクなどを買い、持って来てくれる。オリーブオイルやパスタなども、時々あった。
今も料理人が作るそれらを食べたばかりである。人狼沙門の中には料理が得意な者がいて、典座と呼ばれ、主として皆の料理を作った。ちなみに、禅宗に於いては、食事も修行、料理も修行であるため、飯炊きなどと軽んじられることはない。典座は重要な役職である。それゆえ、典座は古参の人狼沙門の職とされた。
ちなみに、塩については、後に(と言っても、城砦竣工から数日後だが)採取できるようになる。廃坑となっていた塩坑から、採取できることを発見したからであった。
さて、アヴァとの一件が片づくと、イリューシュはアヴァ丈に作ってイユに何もしないことが後ろめたく思う。
余った革で、手袋を作った。イユに渡す。彼女は瞼に涙を溜めた。
「おい、何だよ、まさか感激?って訳じゃないよな?」
「だって、イリューシュがわたしのためになんて、信じられない」
「俺って、そんな奴か? すまなかったな」
「バカ、嬉しいのよ、当たり前でしょう。もう!」
イリューシュの懐に飛び込んだ。笑って、
「ありがと!」
イリューシュは、なぜ照れ臭いのかもわからずに、ただ、照れ臭くていたたまれずも、笑いで誤魔化し、
「あはは。いや、何だか、よくわからんけど、まあ、よかった、よかった。めでたし、めでたし」
などと、面白くもない冗句を言った。
そうして一日が終わる。イユとアヴァとイリューシュとリンレイは以前と変わらず、聖堂の中で寝た。部屋の中の部屋に寝るような感じであったが、見ようによっては、宮殿などの寝室によくあるような、天蓋つきのベッドに見えなくもなかった。ただし、スプリングもクッションもないが。
数日は静かであった。
イリューシュは相も変わらず、武術の稽古と狩り以外は、家で家具を作った。家具に木目の美しさを出すなど、凝り始める。芸術は必然的な欲求らしい。
その起源は動物の巣作りにも遡れるし、又誇らしげな花の美しさにも繋がるとすれば、決して個人の意思ではなく、全体の意思であるとも言えるものであった。
暖炉に当たりながら、革紐と木の枝で弓と箭を作る。
そんな姿を見ると、イユも充たされた気持ちになった。
かくして、何日かが過ぎる。
暖炉を囲んだ食後の団欒、オレンジ色の炎。
「恐らく、敵は我々を見つけている。様子を窺っているんだろうねえ」
マコトヤは暢気そうに言った。ガリオレも同意し、
「間違いなくそうだ。見つけたけれども、これほど作りこんだ砦だ。安易には近づけないのだろ」
暢気にイリューシュが、
「じゃ、安泰か」
と言うと、ガリオレは顔を顰め、
「まったく逆です。
勢力を集めて来るでしょう。山賊の党がいくつも集まってくるでしょう。恐らく、聖剣のことは漏れています。
マハールーシャが率いて来たオークらはバラバラに逃げ出しています。それを訝しがって、事情を聴取した党がいてもおかしくない。きっと、聞き出しているでしょう。
オークやトロールには、忠誠も守秘義務もありませんから」