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第   四 章  時々垣間見える現実、アガメムノンの悲劇

 幸せとは儚く、永く続かないものである。


 リンレイとともに暮らし、何日か過ごしていた。急斜を下って、高山特有の五葉の松、這松を伐って乾燥させ、薪にしたり、さらに下った針葉樹林で雪に埋もれた木の実を採集したり、神象の聖堂を住み易くするために手を加えたりして、時を過ごす。

 椀も作った、各々に。太めの枝が雪に半分埋もれて、落ちているのが見つかったのだ。重みで折れたのか。彼らには神が与えてくれたように思える。いつも近くに感じた。その太い枝を断って削って彫って、イリューシュが細工をする。

 又、イリューシュは自分の武闘的能力の低さを大いに感じ、リンレイから武の技巧を教わった。

 素が直で、かつ知識が零であったため、砂に水が沁み込むように吸収する。呼吸法を学び、坐禅も学んだ。大きな石の上に坐して何時間も瞑し、心を無にすべく集中した。単純な性格が功を奏し、疑うこともなく邁進し、又、テレビやゲームなど様々なものの刺激がないため、図らずとも、魂が希うがまま、存分に集中できた。


 リンレイが言った。

「イユが看破したとおり、ここは真如の世界ですから、精神的なものが直接、強さに繋がっていきます。

 武技丈でなく、瞑想で精神を清め研ぎ、呼吸で身体を整え、心と体の機らきが一致するように調整するのです。やがて体による武のみならず、心の機らきを武として機らかせられるようになるでしょう。この世界では、それが必要です、自分の信じるものを護るために」

「俺たちが何となく、ここでの経験で変化しているのも、そういうことか」

「そうです。そのうち、もっと如実に、眼に見えるような、大きな変化があるかもしれません」



 食糧や薪の採集に当たっては、リンレイが一人で行くか、全員で行くか、いずれかであった。イユやアヴァを残せないし、イリューシュ一人では、未だ道に迷う可能性があったからである。

 全員で下方にある針葉樹の森に入った時であった。

 雪を踏む、重たい足音。獣の唸り、生臭さ。

 餓えて、凶悪そうな狼であった。狼と言っても、なみの狼より遙かに大きく、シベリア虎くらいの大きさで、しかも、人面のシールでも貼りつけたかのような見掛けで、顔が人間である。リンレイは表情をさっと硬くし、鋭く囁いた。

「人狼です。堕落した人間が狼化した化け物です。身も心も、化け物です。さあ、どうか逃げてください。

 後は僕が闘います。少しの間、防ぐからその隙に逃げ果せてください」

 その表情に決死の覚悟を読んだイリューシュは、

「いや、おまえを犠牲にできるか。

 それに急斜面を数㎞、女やこどもを連れて逃げ果せる訳がない。闘う。それしか選択肢はない」

 イユがイリューシュの傍によって、イリューシュの背中にそっと手を当てた。

 光が体内にあふれるのを観ずる。

 イユが眼を伏せて、そっと咒を唱えた。

 前の世界の時だったなら、そんなことはバカバカしくて絶対にしなかっただろう。しかし、ここでは意味がある気がした。そういう確信が湧いていて、疑いようのないものとして、魂魄に存している。

「あうむあぼきゃべいろしゃのうまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやふうむ(唵阿謨伽尾盧左曩摩訶母捺囉麽抳鉢納麽入嚩攞鉢囉韈哆野吽)」

 

 黄燦する(もや)(かすみ)が幽かに漂う。蒔絵の金のような美しさ。おばあさんに教わった光明真言だ。おばあちゃんはどこかのお寺の娘だった。でも、何ていう名前のお寺でどこにあったのかは、思い出せない。今、そんなことは、どうでもいい。

 イリューシュは闘気が嵩じ、自然の鳴動に呼応するかに感じた。何かに気がついて、聖剣を懐から出すと、真言の靄霞が絡まって、輝きながら伸び、聖剣に彫られていた聖句がくっきりとする。

「はっ」

 リンレイが構える。端正な顔に冷凛なる殺気が走った。それを見て、イリューシュも何をなすべきか、心機を探る。俺が為すべき行動は何か。

 この石の剣で、どう攻撃すべきか。

 聞こえない。どこだ、魂の声は。

 あゝ、魂の声に、声に従え。どこだ。鎮めよ、心を、感情を。余分なものを削り落とした、本当の自分の声を。俺は……

「ええい、面倒だあ」

 彼は取り敢えず人狼の額に狙いを定めた。そこに魂の中枢を観じたのである。その刹那、人面の狼は怯んだ。

「俺の殺気にビビった? いや、そんなことはあり得ない、なぜ。わからん、なぜだ、なぜ、なぜ、なぜ」

 むしろ、自分が現実を把握していないことを危惧した。寄る辺のない暴濁流か大海の嵐に翻弄され、身も奈落へ堕ちんばかりのさなか、揉まれ揉まれて渦巻き彷徨うように。

 確かに、人狼が怯んだのは、リンレイやイリューシュのせいではなかった。百戦錬磨の人狼は彼らなど舐め切っている。

 あろうことか、その双眼はアヴァを見て震えていた。


 その隙を逃すまいと、イリューシュが飛び出し、剣を打ち込むも、人狼は軽く躱す。だが、避けた方にリンレイが待っていて、杖で頸椎を打った。非力だが、機をつかんで打つ側と撃たれる側の呼吸を合わせ、絶妙の時機に当てたので、大きな衝撃を与える。

 猛然と怒り狂った人狼。火に油を注いだ。飛び上がって、リンレイを斃し、蔽いかぶさる。

「やばいぜ」

 イリューシュが助太刀に入ろうとしたが、尾の一振りで吹っ飛ばされた。

「っつ!」

「あゝ、イリューシュ!」

 イユが走り寄ろうとする。

「来るな!」

「いや!」

 イリューシュは懸命に立ち上がる。来させないために。

「あふむゔさらだとゔむそわか(唵跋折囉馱都鑁蘇婆訶)」

 イユは無意識的に毘盧遮那仏の金剛界真言を唱えていた。応ずるように、聖剣が輝く。その光が人狼を刺した。 

「ぎゃわん!」

 人狼は霹靂を轟かせる雷霆に撃たれて跳ね、一目散に逃げた。

「待て!」

 イリューシュが叫ぶ、毛を逆立てて。アドレナリンが噴出し、興奮状態と恐怖の呪縛から解き放たれた欣喜とで、雀躍していた。

「止まって、イリューシュ、やめてください。やめて。

 ええ、そうです。追っても無駄です。追いつけません。道に迷う丈です。

 いや、むしろ、深追いすれば、待ち伏せがあるかもしれません。とても危険です。冷静に。

 勝ったと思う時が危ういのですから」

「ぅぐっ。そうか。そうだな。人狼って言ったな、何なんだ、あれは」

「文字どおり人狼です。人が狼化したと、さっき言いました。そのとおりです。

 ただし、彼らは独特です。この辺り特有で、他では見られません。人狼はどこにでもいますが、彼らのような者はいません。或る意味で、妙法に通じています。知恵に長けています。

 このアカデミア天領にしかいません。

 元は皆、沙門でした。真理の探究に固執し過ぎた亡者のような存在です」

「何だって? 沙門? アカデミアって、何だ? そう言えば、おまえも、師匠もそうだが、ここは沙門だらけだな」

「アカデミア天領という巨大な聖域で、このイヴァント山も有名な聖地なのです。だから、沙門がたくさんいるのです」

「沙門なのに、捻じ曲がった者がいるんだな」

「ええ。しかも、たくさん。この時代に、何かが大きく変化しようとしているのです。物質主義もその一つです」

 イユが嘆息した。

「哀しいわね。ここは違うと思っていたのに。真実の世界じゃなかったのね。そうなら、何で来ちゃったのかしら」

 

 

 黄昏の時の長い影のように草臥れ果てて、どうにか歩いて神象の聖堂に戻り、ようやく安堵する。ドカッと腰を下ろした。

「疲れたわ」

 イユがつぶやくように言う。イリューシュも顔にも疲労が泛んでいた。

 リンレイが気を取り戻したように問う。

「あの稲妻のような光は何だったんでしょう。イユが咒を唱えた時に、聖剣が強く光りました。人狼はそれに怯えた」

 イリューシュは考えるのも怠そうだった。

「俺にもわからない」

 リンレイはそういう応えが返ってくると思っていたのであろう、ただうなずいた。

「聖剣の神秘ということですか。僕は師匠から聖剣については何も聞かされたことがありません。いいえ、出さなくても結構です。

 その類のものって、意外に危険です。選ばれた者以外は触らない方が無難でしょうね。むろん、イリューシュは選ばれた人だと思います」

「そうかなあ」

 イユはもうわからないことだらけなので、疑念も起こらず、あまり興味が湧かなかった。ただ、ぼんやり炉の炎を見つめている。

 暖かい、幸せ……

「疲れたよ、くたくただ。いつも緊張が抜けないな。もう寝るか」

 平和な時であっても、漠然とした不安がつきまとう。早く時が過ぎて、何もかもが解決して欲しい。それまでは、あゝ、眠り丈が救いだ。

 リンレイも応え、

「そうですね」

 雪冷えと静寂の夜、神象の聖堂の周りを一匹か、もしくは二、三匹の獣が雪を踏む音が聞こえた。

 イユが最初に飛び起きる。アヴァはすやすや眠っていた。

「イリューシュ、聞こえる?」

「うん、聞こえてるよ。静かにしろ」

「だって」

「イユ、静かにしてください」

「わかってるわ、人狼?」

 誰も応えなかった。

 身を寄せ、息を殺し、音も立てずにじっとしている。短い時間であったが、かなり長く感じた。

 足音が聞こえなくなる。去ったようであった。

 それでも、彼らは息を殺し続けていたが、ようやくイユが囁く。

「去ったかしら」

 イリューシュは別のことを考えていたようであったが、

「らしいな、そっと見てみよう、いないと思うが」

「やめて、人狼よ、去ったと見せかけている丈なのかも」

「いつの間にか人狼のプロになったようだな。ふ、危険か。まあ、そうかもな。

 いや、見よう。見なくてはわからない。見たものを信じよう。敢えて、そう決断する」

 少し丈開けた。いない。

 もう少し開けた。心臓が早鐘を打つ。映画のように、いきなり怪物の顔が鼻先に出てきそうな、そんな予感がして、背筋に怖気が走った。

 いない。死角に入ったのか。

「ええい、面倒臭い!」

 外に飛び出す。雪上の足跡がある丈であった。広漠とした雪の斜面に、動く者は見えない。

 見上げれば、夜空は広大な宇宙で、光の速度でさえ何百億年もかかる無際限な深淵であった。

 この広大な野生の中、彼らはとてもか弱い、脆くて小さな存在である。



 食糧や燃料が蓄積すると、心にも余裕ができてくるものだ。樹木や針葉樹の葉で、インテリアなど作って、生活を楽しむ気風も出て来た。

 石を聖剣で削って、器や鍋も作る。煮炊きは可能だが、煮炊きする食材がなかった。マガダとリンレイが煎じて飲んでいたという茶の葉で、薬膳に近い茶を啜る。

 しかし、ちらちらと炎の燃える炉を囲んでくつろぎ、団欒する時にも、炉の火に踊る影のように、不安が揺らいでいた。



「ええ、そのとおりです。狼やオーク、もっと恐ろしい者たちがいます。師匠があなたたちに言ったとおりです」

 イリューシュは腕を組んだ。

「それもそうだが、何かあの時、それ以上の意味を感じたんだ。たとえば、もっと恐ろしものがいるような。

 お師匠さんはアヴァを見て、それを確信したらしい様子だった」

「さて、僕にはわかりません」

 そんな日々の或る早暁、眼を覚ましたイユは怯えた眸を震わせ、不安そうに尋ねた。

「ねえ、何の音? 人狼?」

 イリューシュも耳を澄ます、眼をきつくし。

「少なくとも、獣だ。低いうなり声で、口で息をしている。首を振って鼻で強く息を吸い込む音。うろうろと雪を踏む音がしている。たくさんいるな」

 しかも、牙の隙間から漏れる獣の唸り声に混ざって、人語が聞こえた。リンレイも杖を握る。耳を澄ましていたが、

「どうやら、いつぞやの人狼が仲間を連れて来てしまったようです」 



 リンレイの声も掻き消されるほど外が騒がしくなってきた。人間の言葉で、ぶつぶつ言っている。 

「神仙の肉を喰らえ。そうすれば、真理は我々皆のものだ」

「奴は死んだ。死ねば抵抗もない。今なら喰らえる。何で奴が真理を獲得したか、神は不公平だ。

 平等が正しい。真理は民衆のものだ」

「喰らえ、奪え。あの毛皮の下だ。入って存分に喰らえ、がさつに、自由に、本音で素直に。あゝ、遠慮はいらない、俺ら大衆が崇高だ」

「あゝ、憎き奴、自ら真理を獲得して我らに寄越さぬ奴、誰にでもわかるべきだ、真の真理とは。それを知る我らこそ真の真理の体現者であるべきだ。

 さあ、待てぬ、諸君、入ろうぞ」

「独占者、専制君主に等しい、この瞋り怨みを知れ。復讐だ。行くぜ」

 リンレイが言う、

「ほら、こういう感じなんです。

 おぞましいという以外の何者でもない。論調は一応の筋らしき旋律を持っていますが、正しい動機がありません。論が正しければよいというものではないのです。人間は清み明けき心がないといけません。そうでなければ、自分も他人も不幸になる。人間の求めるものは幸福です。

 真理の探究も、それです。時に、悦びが幸福であり、時には、ただ、単に無事でいられることが幸福です」

 イリューシュは驚いた。

「まさしく、そうだな。

 いや、驚くべきことだ。到底、元が沙門だったとは思えない。すべてに異叛している。

 見当違いな怨み、嫉妬だ。こんな自分勝手な瞋りがあるのか。とんでもない浅ましい奴らだ」

 そう言って、飛ぶように移動し、聖剣を針に、乾燥した筋肉の繊維を糸にし、主な出入り口である毛皮の切れ目を縫い合わせた。数秒後に、はたと思い至って、眼窩の洞を垂れ幕のように閉じている瞼の皮をも綴じる。

 縫い目から覘く。まだ未明の、黎明の兆候の時、朝を孕んだ雪の空気。きっと、晴れだ。などと意識が勝手に暢気なことを想うが、見えているのは恐るべき光景であった。

「人狼だ。何て禍々しい。おぞましい悪鬼のような、憎悪と嫉妬しかない陰険な人間の顔をした狼だ」

 イユも覘こうとするが、

「きゃあ!」

 激しい衝撃で弾き飛ばされた。

 狼たちが中に入ろうとして、猛烈に毛皮の壁に体当たりをしている。しかし、毛皮は頑丈に骨にくっついていて、獣どもが噛みついて引っ張っても、びくともしなかった。彼らの顎の力を以てしても、引き剥がせない。

「怖いよ、イリューシュ」

 がくがくとイユが震えた。イリューシュは落ち着きを取り戻す。

「どうやら、入って来られそうもないな。これも神仙の加護か」

 しかし、安心も束の間。

 物凄い咆哮が天地に轟く。狼どもが激しく動揺し、口々に喚く。

「しまった、奴だ。来やがった。已むを得ん、撤退だ、出直しだ、後でボスとともに来ようぜ」

 それを聞いて訝しく思い、イリューシュはリンレイに尋ねる。

「いったい、何が来たんだ」

「大御所です。説明しても、わからないと思いますよ。どうぞ見てください」

 イリューシュは再び隙間から覘く。

「何が来るんだ、あいつらが怯えるなんて」

 小さな隙間から覘いた途端、

「ぅわっ!」

 思わず退く。



 巨大で獰猛な眼が、こちらをにらんでいた。その凄絶な闘気たるや。雪が溶けて蒸発しそうであった。存在の威圧感が、地の底から轟く重低音のようでもある。

 そして再び、物凄い咆哮、すぐ近く、眼の前ぐらいの距離で聞こえ、毛皮がびりびり振動した。

 同時に凄まじい体当たり。さすがの巨神なる象の骨も大きく揺らぎ、崩れそうになる。

「やばい、これは、やばい」

 イユも怖くても覘く。巨大な白虎だ。長い牙が剣のように外に出ていた。象のように大きい。

「どうしよう、イリューシュ」

 怯えて泣きそうなイユの顔を見た途端、激烈な闘志が沸き上がった。その沸騰した熱い滾りは豪火となって、臍下丹田から顱骨頂までをぶち抜く気魄へと変ず。

「くっそう、破れかぶれで闘うか」

「無茶よ」

 しかし、イリューシュは聖剣を出す。まぶしい!

「あゝ」



 驚いたことに、出した瞬間に剣は光を放って成長した! 見るうちに、普通の剣の大きさになる。彫も浮き上がり、又は凹み、その見事さ、とても石には見えなかった。

「まただ。大きくなった。ずいぶん、立派になったぜ」

「え、以前にもこんなことがあったんですか。それにしても、見たこともない細工だ。とても美しい。いや、神聖ですらある」

「最初は短剣に似た石だったのに……。

 いや、今は、そんなことを言っている場合じゃない。逝くぜ」

 リンレイが慌てて、

「いいえ、その剣に何か力があるのは体験で知っていますが、戦うのは無理です」 

「そうよ、やめてよ、無茶だよ」

 イユも言う。

 すると、外から、

「おや、何と人間の匂いがするではないか。まさか簒奪者か。いや、そうに違いない。ええい、憎し、憎し!

 ぅぬああ、おのれっ、おのれっ、我こそが究竟究極ぞ、完璧ゆえに、一切と矛盾せぬ全方向の真実真義、すべてを網羅する全知全能、ありとしあらゆる何もかもとてもかくてもなるに、何奴が神仙の真義を奪いたるか」

 イリューシュとイユは顔を見合わせた。リンレイも、わかっていたことだけれども、歎息せざるを得ない。

 イユが言う、

「無茶苦茶ね。もし彼の言うとおりなら、それは誰の、いや、誰と限らず、何者の手にもあるわ。そんなもの、奪えるかしら。何者にも奪えない、どのようにも奪えないわ。

 だって、奪えないことができないから。あゝ、草臥れる。彼って、言ってることが矛盾してるよ」

 そんなことも知らず、猛虎は延々と恨み節を。

「あゝ、この憤り、さても憎し、憎き奴們(やつばら)かな。我こそが神象の肉を喰らうべき者、正統に正義の法の血脈を継ぐべき者ぞ。

 おお、愚か者には悟り難し。

 (おろ)かな者が喰らうなかれ。その身肉が炎に炙られ爛れるぞよ。

 人に悟り難い、完全にして完璧なる真実真義には一切の遺漏がない。万能万全だ。人の誰もが、いや、草木にすらも理解され、それゆえ誰にも知覚し得ない。それでこそ完璧だ。完全なる真理は、完璧で差異なく、教わらずとも誰もが知り、それゆえ誰にも知覚し得ぬ。無空なるぞよ。

 いかなる者も、人も岩も水も星も土も草も蜥蜴も知り得る真理をぞ、いかに知覚し得ようぞ。真の無空ぞ。我こそこの究竟究極の真実真義を知る大聖者なるぞよ」

 イリューシュは呆れた。

「どこが聖者だ。行動がまったく矛盾だ。真理に憑かれた亡者だ。ただ、権威・権力が欲しい丈だ。ただの自己肯定欲だ」

 

 

「待て、アガメムノン」

 そう呼ぶ声があった。(あざ)やかな白虎は訝しげに眉を顰めて振り向き、相手が誰だかわかると、低い、唸るような声で応える。古代ギリシャの王の名を持つ虎は、

「ほう、これは。いずこからともなく現れて、森に住むようになった沙門マコトヤ・アマヤス(真兮天易)ではないか。

 奇天烈な聖の聖なる狂人よ、何用だ。俺の邪魔をするなよ」

 確かにその人物は奇天烈であった。

 まず到底、沙門に見えない。



 頬髯を広げ、口髭を蓄え、顎鬚が臍まで垂れている、腰まで届く長い髪に、いつも同じフェルト地の尖がり帽(つばが子供用の傘くらいに大きいウィザード・ハットだ)をかぶり、ハリガネのような脚には十六オンスデニムの破れたリーヴァイスを穿く。弛んでずれ下がった蛇側のロング・ブーツ、羽織っているのは青いパステル・カラーの繻子で縫製した儀装用のミリタリー・ロング・コート(よれよれだ)、大きな襟とカフスを着けて、口髭で見えぬ唇にキャラバッシュ・パイプを銜え、片眼にモノクル(片眼鏡)をした、顎(見えないけど)と鼻先とが細く尖った若い男。



 髪をかろらかにさらさらと靡かせ、奇人とも言える聖者は、

「小生、敢えて言うぞ。敢えてな。敢えて、だ。

 さても生命を得てこそ、叡智も受け継がる。生命は生の奥義である。明晰なる魂である。死肉を食らって何とするや。しかも、既に骨と毛皮を遺すのみ。慮れよ、偉大なる聖人が血肉を残すものかは。

 マガダの生命は、もはやそこにはない」

 神象となった聖者の名は「マガダ」ということをイリューシュは知った。リンレイに訊かなかった自分らも迂闊だったが。

 疑り深い狡猾な面持ちで、猜疑に満ち、アガメムノンと呼ばれた白い巨虎はマコトヤをねめつけた。

「なるほど、一理あらん。俺も阿羅漢に至らんとする修行者、どうしてそれを解さずにいようか。浮足立った狼どもに、狼に堕ちた修行者どもに唆されてしまったわい。

 ふむ。おまえの言うことも、もっとも。しかれども」

「しかれども?」

「しかれども、かつての修行者仲間の亡骸を不法に占拠する者を見逃してはおけまいぞ。さにあらずや」

 マコトヤはわざと、さも驚いた表情を做り、

「まださようなことを。

 中に人がいるというのか。ふ。

 もし、そうならば、死に際のマガダがこの厳しい環境を凌ぐため、自らの亡骸を使うよう殊に勧めたものであろうよ。

 アガメムノン、聖なる遺志に逆らうか」

「マガダがさように言ったかどうかは見てもおらず、確信できるものかは。それが科学の精神、正しき明晰判明なる精神ぞ」

「疑ごうてばかり。論ばかり正しくとも、あまりに執拗なるは既に不正だ、小人。論など、おもちゃと同じ。如何ようにも構築できる」

「真偽正悪を糺すは求道者の務め。はてさて、何を言わんや」

 イリューシュが毛皮をめくって出て来る。

「やい、黙って聞いてりゃあ、浅ましいことばかり言いやがって。俺はな、マガダから使ってよいと言われたから使っているんだ。そこのマコトヤという人の言うとおりさ。

 やいやい、アガメムノンとやら、仲間の肉を喰らおうとしたくせに、何を言うか。いやさ、おまえが言わんとすることは、もうわかる。

 証言は証拠にならない、言う丈は誰でも自由にできる。この俺がマガダに言われたのは俺とマガダしか知らない、確かめようがない、だから、疑わしい、とな。へ、おまえが言いそうなことさ。

 俺の眼を見よ。真実が燃えているぜ。それでも疑うなら、もう何もない。論争は無駄。いざ勝負だ」

 そう言って、龍肯の聖剣を懐から出した。アガメムノンが眼を丸くした。

「おお、それは、まさしく」

 しかし、言葉を止め、狡賢くイリューシュの顔や眼の色を観察し、吟味し、分析した。

「そんな奇妙な石を、どこで手に入れた」

「ああ、これか。拾ったんだ。洞窟で」

「どこの洞窟だ」

「この山の向こう側さ。垂直の絶壁の途中だ」

「そんな馬鹿な、あり得ない」

「なぜ」

「いや、何でもない」

「何か知っているな」

 イリューシュは嘲笑にも似た笑みを泛べる。アガメムノンはますます訝しがった。眼を細めるも、(とば)けて、

「いや、何も知らん。知るものか、何を戯けたことを。知って堪るか、いや、絶対に知らんぞ、疑うな」

「疑っているのはおまえ丈だ、臆病者」

「何を!

 いや、その石だ。いや、どうだ、どうせ拾ったものなら、俺にくれないか。ただとは言わん、うまいトナカイの肉をやろう。塊でな」

「肉持ってんだ? 破戒僧かよ。

 そんなもの、いらないぜ。自分で狩る。依拠しない。自在がよい。自らを由とし、自らに因って在る。そうでなきゃな、楽しくないぜ」

 と言っても、狩りはしたことがない。

「それならどうだ、俺のこの見事な尻尾をやろう。この美しい(あざ)やかな模様を見よ。高く売れるぞ」

 彪とは虎の毛皮の縞模様が鮮やかなさまを言う。

「へえ、商売がこの世界にもあるんだ。人もたくさんいるのか。もしかしたら村や町があるのか」

「むろんだ、なあ、そんなことはどうでもいい、これでどうだ、俺の毛皮をやろう」

「それじゃ、おまえは生きたまま皮を剥がれ、終いには苦痛のうちに死ぬ丈じゃないか。おかしなことを言う奴」

「そんなんことは構わん。それが欲しい」

「本音が出たな。バレバレだぜ。

 へえ、そんな価値のあるものなんだ、これが」

「た、頼む」

 イリューシュは呵々大笑した。

「そこまで言うなら、可哀そうだ。くれてやろう。どうせ拾ったものだ」

「イリューシュ!」

 イユが慌てて止めようとするも、イリューシュは無造作に虎の眼の前、雪の上に、ぽいっと投げた。白虎が飛びつく。

「よせ、慮った方がよい、アガメムノンよ」

 マコトヤのその忠告も遅い。聖剣を牙で捉え、口に咥えた途端、アガメムノンは、

「ああ!」

 と叫び、昏倒した。

 イユが、

「これって、聖なる物を邪悪な者が触っちゃって、どろどろに溶けちゃったり、石になっちゃったり、塩になっちゃったり、燃えちゃったり、炙られ爛れちゃったりする、っていうパターン?」

 皮肉な笑みのマコトヤは、

「いや、その可能性はない。ないが、念のため、アガメムノンを止めた。結局は、止めて正解だったようだ」

 虎の表情は安らかだった。

 見る見る姿を変え、凛々しい若者に変ずる。

 イユが尋ねる。

「もしかしたら、これが虎になる前の、元の姿ってこと? まあ、古代ギリシャの彫刻みたい。イケメンね」

「葡萄酒色なす海」

 マコトヤがそう口ずさむと、イリューシュの頭に、黒地に線画が神話を描く古代ギリシャの壺絵が想起される。

「さよう。

 元々の姿だ。なかなかの美青年、身の丈は普通の人の倍以上。怪力は天下無双で、五百㎏もある猛牛を、片手で持ち上げて、投げ飛ばしたこともあるという。

 軍人だった頃は、一人で千人の兵を斃すほどの猛者だったと聞く。

 世界最強のうちの一人だろうね。

 祖先は元々、北大陸の南沿岸部の王族で、誇らしい王家の面影を残している。ふむ、名に相応しいという訳か」

 歴史を思慮しつつ、マコトヤが静かに言葉を紡いだ。

 その説明に違わず、金髪を豊かに垂らす、胸板の厚い、丸太のように二の腕が太い若者だった。筋骨の太さ、頑丈さは丸太や巌の類である。突然、吃驚したように眼を開けた。

「俺は、いったい」

 立ち上がる。見上げるように大きかった。

「闘わなくてよかったぜ」

 イリューシュがそうつぶやくと、マコトヤすらも笑った。イユが突っ込む。

「もう、何言ってんの、虎のときの方が獰猛そうで怖かったわ。大きさだって、たぶん変わんないんじゃないの」

 アガメムノンはぼんやりしている。空虚な眼が雪の上の聖剣の上に留まると、

「ぅわっ」

 叫んで後ろへ飛び退いた。

「ぅわあああ、た、助けてくれ、赦してくれ、あゝ、何てことを、俺は」

「どうした、何があったんだ」

 イリューシュは訊く。

「恐ろしいものを見た」

「何を」

「荒野だ。何もない侘び寂びた場所だ。とてつもなく広くて、どこまでも透明で、果てがない。果てがないものを初めて見た」

「果てがない?」

 イリューシュのその疑義には、マコトヤが応じ、

「なるほど、それを見たか。よきかな。何、わからない?

 そう、たとえば、空に果ても仕切りもないが、どこまでも続いているとは言っても、我々の眼には青い壁がある。

 同様に、無限の透明とは言っても、それを頭の中に思い泛べるときに、我らは自然に、無意識的に、銀色の背景を置く。本当に無限の透明を想像できやしないもんさ。

 だが、それを見てしまったら、どうなると思うか」

「なるほどね、何となくわかった。確かにそうだ」

 イリューシュが同意する。

 アガメムノンには、それは聞こえていないかのようであった。

「上下もなかった」

「上下がない?」

「左右もなかった、前後も」

「何だか最近、経験したな。おまえはその経験なしで、ここまで来られたのか」

 イリューシュがそう言うと、マコトヤがまたも補足し、

「人によって、異なるさ。時代によっても。

 選ばれた者にしか超えられない試練もある」

 これもまたアガメムノンには聞こえていないようであった。

「初めて見た。どこにも確かなことはなく、頼れる場所もない。溺れるよりも、途方もない溺れ、足掻き、藻掻き。足掻いても、藻掻いても、あゝ、何もつかめない、手応えもない」

 イリューシュは腕を組んだ。

「つまりは、現実を垣間見たってことだ」

 筋骨たくましい巨漢は大きな手のひらに顔をうずめた。

「あゝ、真実も真義も真理も虚しい。何もかも現実でしかない。現実、どこまでも、捉えられない無色透明の。

 あゝ、悟りも名誉も虚しい。龍肯の聖剣など得ても、何の足しになろうか。魂の救いは、どこにもあり得ない。在りようがない。在り方があり得ない」

 

 

 

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