第 三 章 生きる喜び 生活が甦る 聖堂、そして、安堵とともに空腹を
「わしは」
その存在者は言った。
切れ長の象眼で、白い長い毛を、風もないのに、ゆらゆらと靡かせている。鼻が微かに動いた。巻いたり伸びたりして、物をつかむための、極太の綱のような、それが。
「マンモスではない」
瞼をゆっくり下す。だが、何かを思って、再び持ち上げた。
「わしはかつて人間であった。
修行によって、神の領域に近づき、神仙となり、聖なる神象となった」
以前のイリューシュなら驚き、疑ったであろう。しかし、今は違う。言葉の響きが深くて、その言葉を信じさせた。言葉の響きの真実を噛み分けることができるようになっているためでもある。
「今、死があなたに迫っているように見えます。神の領域に近づいたのに」
欣然と神象が笑ったように見えた。
「不死を希う者は死に怯える。わしはそうではない。死を超越した。だから、死を厭わぬ。それこそが真の不死だ。怯えていて、心楽しかろうか」
イリューシュが腕を組んで唸る。その後ろに、いつの間にかイユが来ていた。話が聞こえて、安全だと覚ったし、興味を惹かれたのである。少女アヴァも、彼女の後ろで、双眸を燦然とさせて。
そして、イユは問うた。
「敢えて死ぬの?」
象眼の眸がゆっくり動いた。緩慢に死に近づいている。静かであった。蜜蜂の亡骸のように。
「敢えて、ではない。ロゴスの声に聴従し。ダンマ(法)の導くままに。心の機らきのままに。
おまえは聞いたことがないか、非常な満足に達したときに、人がこう言うのを、『もう死んでもいい』と」
「あるわ」
「真の願いが本当に叶い、完全なる満足に達した人は、さように感じるものだ。仏陀は覚った直後、入滅しようとした。入滅、すなわち無余依涅槃、死だ」
ちなみに、解脱した聖者も肉体があるならば、生存のための呼吸や飲食の欲が残り、肉体的苦痛もある。それゆえ、この解脱の境地を有余依涅槃と呼ぶ。それらから解放される、死した後を、完全な涅槃とみなし、無余依涅槃と呼ぶ。
「そうなの」
イユはそれを閑かに受け入れた。手を当てる。優しく。
神象の瞼が微かに上がる。
「おお、これは。
神につながる癒し手。あゝ、魂の癒し手じゃ」
神象の開いた眸が、イユの背後の少女を見つける。
「何と、あなたは。
あゝ、そういう時代なのだ。時が迫っている」
「何? どういうことだ」
だが、神象はイリューシュの問いには応えず、再び瞼を下げた。
イリューシュは嘆息する。
沈黙の時間。風もなく舞う雪の粉の音丈が、偉大なる山脈と大渓谷、無際限なる紺碧の空に、永遠の鐘のように木霊した。
眼を閉じたまま、神象は唐突に語り出した。誰にともなく。
「間もなく逝く。
肉は既に乾涸び、繊維を残して空に散るであろう。毛と皮と骨が残る。それを使うがよい。
やがて、恐るべき虎狼たちが来るであろう。自らの身は自らで守るしかない。だが、真の恐怖はそれではない」
イユは驚き、
「え、何なの!」
しかし、イリューシュは平然と石の鉈(かつての石の短剣)を取り出し、
「おう、敵が来るってことか。闘うぜ」
神象の瞼が大きく開く、
「おお、それは」
イリューシュが訝しげに、
「これがどうかしたか。拾ったんだ。ちょっと不思議な、石の刃物さ」
神象の眼は睜かれたままだった。
「聖なる龍文が微かに泛ぶ。まさしく聖なる龍剣の一つ、まさか」
「ん? まさかって、何だよ」
「よく見せよ」
「ほらよ」
雑に差し出す。
「おお」
象の表情に泛び上がった宗教的な陶酔、崇高なる恍惚の表情。
イリューシュは眉を顰め、
「何だよ」
「聖なる龍肯の剣。最も偉大なる龍剣、龍肯剣に間違いない。これをどこで」
「洞窟で拾ったのさ、山の向こう側の」
「このイヴァント山の向こう側だと。洞窟……不可思議だ。この世とは、あゝ、実に不可思議だ」
「なぜ」
イリューシュは問い、イユも答を待った。
しかし、神象は息を引き取る間際であった。
「さあ、時が来た、さようなら、あゝ、何と言うことだ、素晴らしい」
瞼が自然と降りた。ゆっくりと。睫毛が風もないのに無言の微風に揺れる。
イユは涙を零した。
「ふ、逝っちまったな」
イリューシュは強がって、そう言ったが、二人ともわずかの間に、白き神象の聖者に親しい感情を抱いている。優しい、智慧深いその声に。
見る見る間に、彼の言葉のとおり、筋肉は空に消え、繊維丈が残った。毛皮と骨が建物のように構え立っている。
牙は城門の双つの塔のようであった。
額と肩が特に高い。眼球のない眼窩には、瞼の毛皮が蔽いかぶさっていた。骨盤と後脚が後方を囲むように組まれ、その上にも毛皮がかぶさっている。
雪上に聳える骨が柱や梁のよう、毛皮が屋根や壁で、古代の家のようにも見えた。毛皮の皮の部分が骨に押さえつけられて、雪の下まで届き、岩山の地に固定され、微動だにしない。
「これって、もしかして、ここにしばらく避難できるんじゃないか」
イリューシュの言葉にイユも頷き、
「使えって、こういうことだったのね」
「何もかも、お見通しだったってことか」
毛皮のわずかな切れ目を、カーテンのようにめくって入ってみると、暖かい。足下は雪だが、筋肉の繊維が幾重にもなって、藁を敷いたようで、氷冷の刺すような厳しさを和らげていた。見上げると、あばらの太い骨はヴォールト(穹窿)のようである。龍肯剣が汒ぼうっと光って、燈明のようになった。
「すごい、快適よ、何て贅沢なの!」
「ってほどじゃないと思うが、今までが今までだったから、かなり控えめに言っても、天国だな」
「すごい幸せ」
暖かい丈ではない。明るく、乾いて、清々しい。
聖なる気が満ちていた。
聖者のブレスだ。神の祝福のごとくに。きよらさやか。
森林浴の快さであった。イユは思う、しあわせ、でも、初めてイリューシュの洞窟に入った時ほどではないけれども、と。
「骸とは思えないな」
「あゝ、何だか、とても気持ちいい。生臭さなんて、欠片もないわ。爽やかよ。ねえ、イリューシュ。神象の聖堂と呼ぼうよ」
「あゝ、いいよ。さてと」
イリューシュは外に出て、雪を掘り、いくつか穴を開けて、ようやく戻ってくると、両腕に、いっぱいになるほど玄武石を持っていた。
「足りるかな」
そう言いながら、炉を組み上げる。
細く砕けた骨を擦り合わせて、摩擦熱を起こし、あらかじめ短く切っておいた繊維に火を点ける。空気が乾燥しているので、繊維はとても乾いている上、油分が仄かに残っていて、よく燃えた。
「うわ、あったかーい! げほっげほっ、煙い!」
「そうだな、一酸化炭素中毒になっちまうな。煙突かあ。難しいな。あ、そうか」
急角度の傾斜であることを利用することを思いつく。登り窯の原理だ。炉の後部を、斜面を登るようなトンネル型に造って延長し、傾斜地を煙が上るように造る。
炉の開口部の上の方を、半分ばかり組石でふさいで、低い位置のみ小さく残し、煙が斜面を昇り易くする。
「調理には向かないが。まあ、いいだろ。暖が取れりゃなあ。
……料理しないしな」
「だって、材料も、道具もないよ」
「へえ、ありゃあ、するんだ。凄いな」
「どういう意味」
アヴァは表情を変えず、じっと、ただ、虚空を見つめていた。
暖かくなれば、眠くなるものだ。しばし、緊張から解放されたせいもある。喧嘩しながらも、いつしか安らかで健やかな眠りへと、はらりと落ちた。
ふと、イユは目を覚ます。
夜も深くなっていた。外でしくしく泣く声がする。
「イリューシュ!」
「あゝ、聞こえてるよ。何だろうな」
「幽霊?」
「だったら、いいんだが。少しは賑やかになる」
イリューシュが外に出る。
すると、雪明りに、とても小柄な人物が膝を突いて祈り、慟哭しているのが見えたが、その人はイリューシュに気づくなり、
「ぅわあっ!」
と叫んで、後方十mくらいまで、一気に跳躍した。
「凄いバネだな。しかも、しなやかだった」
そんな暢気なことを言っていると、相手は、
「何者だ」
「ここに住んでる者さ」
まだ一日も経ていないが、イリューシュはそう言ってやりたい気分だったので、そう言った。
毛皮をめくって、イユが顔を出す。
「大丈夫?」
それを見て、小柄で痩身の、おかっぱ頭(禿)の少女のような少年、と思われる人物は吃驚し、
「何! どういうことか。あゝ、空洞だ? まさか、貴様ら、師匠の肉を喰らったのか。聖者の肉を喰らうと力が備わるなどという迷信を信じて」
「何、それ! 聞いたこともない。違うわよ!」
「ええい、黙れ」
「自然に風化したのさ、一瞬でな。さすが聖者だ。おまえ、弟子らしいが、それもわからんようじゃ、まだまだだな」
イユが眼を丸くし、
「イリューシュ、あなた、いつから阿羅漢(アラハント、涅槃に至った聖者)になったのよ」
「いいじゃねえかよ、おまえ、どっちの味方だ」
「だって、おかしいでしょ」
「まあな」
それを見ていた小柄で細身の禿者は腹が立ったらしい、
「戯れるな、貴様らを成敗する」
雪を蹴散らし、杖を振り上げて襲い掛かってくる。技の切れ、タイミング、スピード、呼吸、すべて理に適い、巧みだった。行雲流水のよう、と言えば喩えとしては可笑しいが、そういう風情でもある。イリューシュは小柄で年下の少年らしき人物に軽々とあしらわれ、転げ倒れる。
「くっそうっ!」
急ぎ立ち上がった。
再び撃たれ、ふらふらと回転しながら、どっと倒れる。
「もうやめて! あなたの誤解なのよ」
イユが叫ぶも虚しかった。
「あははは」
禿が笑う。容赦なく、舞うように杖で打った。
その動きを、雪明りでどうにか捉えるも、イリューシュは追いつけない。機らきを読まれているからだ。彼の動きは、すべて予測されていた。
「畜生!」
歯噛みした。
禿が杖を大きく振りかぶり、襲い来る。するつもりはなかったのに、無意識に聖剣を懐から出した。
「何!」
もう、だめかと思っていたイリューシュは相手が弾かれ、昏倒するのを見て、吃驚する。しかし、驚いてばかりもいられない。我に返り、禿の少年を取り押さえた。小柄な細身で喚く、
「放せ、畜生、下郎め、卑怯者!」
捉えてしまえば、腕力が上のイリューシュが有利だ。抑え込まれて、禿は口汚く罵ったが、虚しかった。
「沙門の端くれならぬ言葉を。おまえこそ成敗してやる」
そう言って、蹴りを入れる。息が止まって蹲る禿を、イリューシュは神象の聖堂の中へ引き入れた。
「やい、おまえに訊くが、この辺じゃ、どうやって食糧を手に入れているんだ」
イユも、それを思い出した。
「そうだわ、おなかペコペコよ!」
イリューシュは振り返って笑い、また禿に視線を戻し、
「な、女こどもが腹空かせてるんだ、沙門の端くれなら教えるのが筋だろ。
ところで、おまえ、名は?」
禿は中に入った瞬間から、様子を見て、意外そうな顔だった。幼女アヴァ、十四歳の少女イユ……辛うじて少年イリューシュが禿よりも強そうだ(実際、強かった)が、どう見ても弱者の集まりだ。師匠の肉を貪り喰うふうには、到底、見えない。
「僕はリンレイ(玲羚)」
「ちょっと、待て。じゃ、女か」
「そうだ」
「手荒なことして悪かったな、今更だが。沙門だから、男女差を消しているのか。まあ、いいや。
とにもかくにも、誤解があるようだから、説明してやる。いいか?」
イリューシュは説明し、リンレイは納得した。
「食糧は秋に溜めた木の実しかない。肉を食う気なら、野ウサギやシカなどがいるが、僕たちは沙門なので、食べなかった。
木の実でよければ、分けるが」
「ありがたいね。早速、取りに行こう。いや、悪いが、取りに行ってもらえないか。彼女らを、置いて行くのも、連れて行くのも危険なので」
「わかった」
出る前に振り返り、
「僕が逃げないと思っているのか」
「まあな」
「ふ」
リンレイは二十分もしないで帰って来た。さまざまな木の実があり、ほとんどのものは炒ってあった。イユはクルミを頬張り、歓喜した。
「おいしい! 幸せ!」
「うわ、まともなもの食べてなかったから、凄いうまい。こんなに複雑で深い味だったのか、木の実って」
「まともなものって言うか、雪食べた丈で、食べ物を口にしてなかったわ。クルミって、何でこんなにおいしいの。
あゝ、木の実の油脂って、最高! サーロインステーキみたい。滋味深くて体から力が湧いてくる!」
「確かに、元気になるよ。俺たち、前の世界では、あたりまえのように、いつも栄養のあるものばかり食べているから、効果を感じることが少ないけど、やはり、医食は同源なんだ。
あ、自分のことばかりでごめんな」
イリューシュはアヴァの前に差し出し、
「せっかくだから、好きなものを選べよ」
松の実を一粒食べて、飲み込むと、アヴァは首を振る。もういらないという合図だった。イリューシュはうなずく。初めての意思表示だった。イユは横眼で見ていたが、気がつかれないようにすぐ視線を戻す。リンレイも心が温かくなった。自然に笑みが出る。厳しい修行に明け暮れていたので、何かほっとした気分になり、懐かしさが込み上げる。
イリューシュはリンレイの様子を見ていた。
禿と言って思い出すのは、『平家物語』の少年密偵の集団だが、彼女は少女だ。踝の腱が筋硬く、きりっと締まって、冷凛とし、まだとても青い、少年との区別も定かではない、女の子だった。
それでも、炎に当たって、仄かに頬に血の気の差す横顔は、女らしかった。
流麗な顔立ちだ。繊細で壊れそうな。その頬の上で、揺れるオレンジ色の炎に、黒い影が舞い踊る。宴の踊り子のように。
リンレイは木を削った椀を一つ持っていた。雪を溶かし、火で熱くした石を入れて、白湯として、皆で回し飲みした。温まる。
至福の晩餐はかくして平穏に終わった。