第 二 章 自己と他者が逢うと装飾が生まれる 普通に生きるための仮象
人間らしい気持ちが甦ったのは、イユも同じだった。
それまでは、恐怖という呪縛に心を虜にされ、怯えて逃げることしか考えられなかった。
寒さを凌ぐこと丈で必死だった。
人間らしい感情、人格、尊厳なんて、どこにもなかった。
イリューシュは言葉を続けた。
「でも、実際は、結構、ヤバかった。真っ暗な中、歩み出したんだが」
彼は落ちてからも、歩もうとしたらしい。後になって、それが危険な行為だったことが判ったが、そのときはまったく気がついていなかった。もし、光を観じなかったら、死んでいただろう。突然、背後に光を観じたのだ。気が変わってそちらへ向かうと、どうやら洞窟らしく、その中で、何かが微かに光っていた。
「それがこれさ」
石だった。石だったが、奇妙な石であった。まるで鍔のない短剣のように刀身と柄があり、ぼんやり光っている。蒼白い光で。
「偶然だ。こいつのお陰さ。
長い夜が明けて、薄明かりの中、外へ出てみると、肝が冷えたよ、何てったってさ、俺の行こうとしていた方向が、ほら、この奈落へ墜ちる断崖だ」
イリューシュの指差した方は数千m下までまっしぐら、垂直に墜ちる絶壁の峡谷だった。イユは身震いする。足がすくんで、それ以上は見ることもできなかった。
「もし、あのまま歩んでいたら、って考える丈でも、今でも手足の力が抜けるよ」
彼は笑った。吹雪の峡谷に虚しく響く。木霊する。この広大な空間、怖い。よく笑えるなとイユは思うが、イリューシュは急に真顔になって、
「あゝ、いい気分だ。久しぶりに笑ったような気がする。
話をすると安心するね。理性に血が通う。気持ちが呼吸する。人間性が帰って来るよ。
でも、いつから喪われていたか知らないけどね。
気がついたら、闇だった。その気がついた時点がどのくらい前なのか、何時間か前なのか、何日か前なのか、何年か前なのか、全然、見当もつかない」
だが、まだ安心してはいけない。
イユは生き残るために、意図的に不安を呼び覚ました。
「でも、イリューシュ、これからどうしよう。食べるものも、防寒具もないよ。また夜が来たら」
「ともかく、どうにも、こうにも、寒過ぎるや。とてもかくても、なあ、洞窟に戻ろうぜ」
「えっ」
ちょっと見遣る。髑髏の眼窩の空漠のような洞窟だ。深淵のようだった。少し怖かったけれども、寒ささえ凌げれば、未来なんてもう……、
そういう想いでイユも歩む。
イリューシュは入口から少し入ったところに、雪で壁を作っていた。一部壊してある。そこから出て来たらしい。
「蝶番のあるドアじゃないからね。出入りのたびに、一々崩して、また積み上げなくちゃならない。
まあ、雪はいくらでもあるけどな」
入った。雪を積んでイリューシュが再び壁を作る。虚しい作業とも言えるが、意味はある。必要でもある。
風がない丈で、暖かかった。あゝ、助かった。すごく安堵した。
暗いけれども、石の短剣が行燈のような明りをもたらす。その熱も感じられた。光と暖かさは原初的な喜びだ。
「何だか、この石、光と熱が強くなったような気がする、おまえと会って。
俺の心の喜びが反映するのかな」
イリューシュのつぶやきはイユには聞こえていない。彼女も又つぶやく。
「とても幸せ。最初の、あの長い絶望の夜を思えば、天国のように幸せだわ」
雲の裂け目から垣間見える紺青の瞳のように、強い希望が息を吹き返す。同時に、未来への気遣いが理性的なかたちで生じる。
そもそも、不安というもののすべては将来への不安なのだ。生存の畏怖も、存在の不安も、過去の事実が紐解けぬことへの焦燥も、すべて。
「で、どうするの。考える余地はないわ。きっと、行くしかないのね」
イユは話題を戻す。イリューシュは虚空を凝視した。二人はいつの間にかあたりまえのように命を託し合っている。
「ここに居ても死ぬなら、行くしかない。わずかな儚い希望を繋ぐ絶望的な闘いだ。それでいいよな」
深刻なことを笑いながら言う。
イユも、そう思っていた。進むのは怖いけど、結局は同じなのだ。
ここに居ても、死ぬ。
救助は考えられなかった。自分たち以外に人がいるかどうか定かではないのだ。いや、いないように感じられた。この世界の広大さは、彼女たちが知っている世界の広大さとは、どこか違っている。
「ならば、明るい今のうちに」
「うん」
石の短剣で手足を温める。二人は雪を少し噛んで、沁み渡るような新鮮な水を飲む。
「たくさん噛むなよ。体温が下がる。俺たち、こんなに薄着なんだから」
そう言って、イリューシュが笑った。言われなくとも、わかっていた。言った方もそれをわかっていた。
再び吹雪の中へ出た。道はない。吹雪の中に飛び込んだものの、どうやって行けばよいか、イユにはわからなかった。
「路を造る!」
イリューシュは決然と言う。
「どうやって」
「どうやってもさ。えいっ!」
彼は石の短剣を絶壁に刺した。肉塊を刺したかのように、グサッと刺さる。角度をつけて上から斜めに刺したので、巌壁は上向きの角度を持って穿たれていた。そこに足を差し、その上を刺す。手を差し込む。壁にへばりつくように一歩ずつ。少しずつ進む。
「俺が来いと言うまで来るな。先の様子がわかってから帰って来る」
待った。戻って来た。
「だめだ。反対に行ってみる」
待った。さっきよりも長い。戻って来た。
「だめだ。真下に行く」
待った。さらに長い。戻って来たが、
「無理だね。ただ、永遠に絶壁だ。どうするか」
イユは言う、
「じゃ、真上に行こう」
「バカを言うなよ、俺はそこから来たんだぜ。おまえだって」
「わたしは真上じゃない。あなただって、上にいたときは、何も見えていなかったでしょ」
イリューシュは思慮し、
「そうだな。やってみるか」
今度はイユもイリューシュのすぐ後から行くことにした。待つのが嫌になったという理由丈ではない。
垂直の壁を穿って手掛かり足掛かりを作って攀じ登るのは恐怖が少なかった。下が岩棚だからだ。
しかし、決して楽ではなかった。雪と凍った岩に手が悴み、冷たい風に曝され、感覚がすぐになくなるも、必死で歯噛みして登る。
最初、すぐに墜ちたが雪を重ねておいたので、怪我もなかった。落下した高さも、それほどでもない。墜ちても大丈夫という体験を得たことと、墜ちた衝撃でアドレナリンが上がったためとで、その後は一種の興奮状態で登り切った。
「ふう」
「ここかな」
「たぶん、俺が最初にいたのがこの辺りだと思う」
そこは岩棚というよりは、天然の桟道のような場所だった。肩幅ほども幅がない。坐っていても落ちそうだった。しかも強風と雪礫。岩の剥き出しているところに坐ったが、ひえっ、と声が上がるほど尻が凍えた。
それには気がつかず、イリューシュは或る方角を見て言う、
「これって道のように見えるな。上に向かっているようにも……、おぉっと危ない。あゝ、ヤバかったなあ、まじで。……ちぇっ、手摺が欲しいぜ」
足を踏み入れて少し滑ったのだ。
「はあ……。夢のまた夢ね……」
「いいよ、ともかくも、上に向かっている、……かもしれない。だろ?」
「ふふ。うん、登ってるね」
「行くか」
「行こうよ」
足下は眼も眩むような数千mもの垂直の峡谷、細い道を絶壁に寄り掛かるように進む。吹雪は下から吹いていた。山にぶつかった気流が上昇し、雲を吹き上げるのだが、ここまでは来られず、雪丈が吹き上がっている。
「うわ、風がきつい。下から来るから、体が浮きそうだ。おい、足を滑らせるなよ」
「そんなのわかってるよ、必死なんだから話しかけるな」
雲に包まれて、何も見えない瞬間もあったが、それはほんの短い時間丈で、やはり雲がここまで吹き上げられることは、ほとんどなかったが、意識は朦朧としてくる。
「ダメ、絶対、ダメ。ああ、神様……、あ」
強風にあおられる。今度も堪えた。何十回目か、もう奈落に真っ逆さまと眼を固くつぶったのは。何度も何度もドキッ!とさせられ、心臓は疲弊しきっている。息は苦しく、指に力が入らない。
理性が「見るな!」と叫ぶのを聞かず、下を見た。
頭を動かすとバランスを崩しそうだ。命懸けだが、見ずにいられなかった。
「あゝ、何て高さなの」
こんな高さなのに、これっぽっちの足掛かり。何て脆弱で、不安で、頼りない。
怖くなって、一歩も進めない。岩壁は垂直なのだ。足場はとても狭く、のけぞって落ちそうだった。
「おい、もう少しだ、がんばれ、気力を振り絞れ、死ぬ気でやれ、死ぬんだ、捨てろ、肉体を超えて死力を出せ! 超えろ、自分の頭を踏んで登るつもりで凌駕しろ、上がれ。
そら、もうすぐだぜ、がんばれ、振り絞れ、もうすぐだ」
「うるさい、無茶苦茶言わないでよ、もうすぐって、本当なの! 嘘でしょ! 嘘言わないで、くだらない励まし要らない!」
「そうでもないぜ、そらよ、見なよ。どうやら頂上に着くらしい」
「え、ウソ! まじ? 吹雪いていて、何も見えないよ」
「まあ、よくわからない、上ってみなきゃな。でも、そんな感じだ」
「嘘だったら殺すわ」
「殺されずとも死ぬさ、……あゝ!」
凄まじい風。手が離れた。間一髪、剣を刺してぶら下がる。
「きゃあ」
叫んで、イユは眼を固くつぶった。いや、つぶろうとした。もう、瞼の筋肉が草臥れ切って、言うことを聞かない。
「大丈夫だ。いや、まじで、やばかった。
俺丈ならともかく、おまえを巻き込んで落ちるところだった」
「あなたが落ちたら、わたし、落ちなくても、死んだも同然よ、怖くて、何もできやしないわ」
「そうか? あゝ、ともかく、ラッキーだった。よし、もう少しだ。どうやら頂上らしい。ほら」
「ええっ、信じられない。頂上に着いたの? 絶対に、そんな日は来ないと思ってたのに!」
「大袈裟だろ、見ろよ。……ま、俺もそんな気分だったが」
登頂していた。斃れるように、二人ともしゃがみ込む。
眼の前に広がる大光景があった。
不思議なことに、尾根を一歩跨ぐと、風はない。静寂であった。
晴れていて、真っ白な雪の斜面がある。物凄い斜面ではあったが、垂直ではなかった。四十五度以上の角度は上から見下ろすと、垂直に近いように感じるものだが、さっきまで見ていた垂直を見ていたので、四十五度以上の斜面が緩やかに見える。
「ここ、降りられるかしら……。何だか、簡単にできそうな気がする」
「確かに。怖い気はまったくしないな」
「あゝ、でも、救われた感じ。爽やかだわ」
「力が入らない。動きたくないね」
「ねえ、おかしくない? こんなに高いところにいるのに、……空気が薄くないよ。変じゃない? 不思議だわ」
「傾斜がある。かなり急勾配だが、傾斜には違いない。俺たちのいた側は垂直なのに。変な山だぜ」
「すごい、ずうっと下の方に雲海があるわ。
ねえ、チョモランマよりも高いんじゃない」
「何でわかるんだよ」
「何となく」
「確かにもの凄い高さだ」
イユは不思議で仕方なかった。
「何でわたしたち無事なの。こんな高山で高山病にもならず、普段着で凍死もしない。頭がガンガン痛くなるくらい凍えて震えてるけど、指も感覚なくて動かないけど」
「本当だ。確かに不思議だ。
……やっぱり、ここは普通の世界じゃないんだ」
最後の言葉は彼に似合わず悲しそうな、囁きであった。
「わたしたちしかいないかも」
イリューシュも同じく考えている。だから、黙った。イユもそれ以上は言わない。彼がその可能性は考えたくないようだったから。言っても、意味がない。
空腹を覚えた。雪をゆっくり少しずつ噛んだ。休憩し、しばらく晴れ渡った空を見ていた。疲労困憊で動けなくて、力が入らない。
二人肩をならべてしゃがみ、ただ、ぼうっと眺めていた。
イユは気がつく。
「ねえ、何となくなんだけど、イリューシュ、あなた、少し変わってない?」
「え? 変わり者さ、それがどうした?」
「やめてよ、漫才じゃないんだから。
さっきと変わってないか、って聞いてんのよ」
「何、ばかなことを。
ほら、何もないぜ」
そう言って立ち上がり、諸手を広げる。
イユはじっと見つめる。真剣な眼で。この人と命懸けで、ここまで来たんだと気づきながら。
安堵した今、初めてそれをしみじみと感じる。初めて会った時の悦び、この広大な世界に独りでいたときだったから、たとえ、どんな人と会っても幸福だったあろう。そして、洞窟に入った時の暖かさ、幸せな気持ち。
でも、彼が何か変わって見えたのは、自分にとって特別な存在であるということ丈ではない。
まるで、この感覚は、いったい……。まるで、いにしへからあるような、不思議な感覚であった。
「そうね、でも、何となく」
オーラを帯びているよ、その言葉を出せなかった。いかにも、バカらしくて。
しかし、イリューシュも何の違和もなく感じていた。何か堅守すべき、聖なる約束のようなものを。喩えて言えば、この人を護りたい、というような。
「熱っ!」
懐が熱くなっていることに気づいた。イリューシュは石の短剣を出す。
「あ!」
短剣は長めの鉈くらいの大きさになっていた。光も強くなっている、朝日を浴びた湖面のように。それとともに幽かに黄金の霧を帯びていた。
奇跡のように美しい。二人とも、しばらくは言葉が出なかった。だが、心の奥に何かが湧き上がる。これも不思議ではないという、根拠のない確信が。どこかにいるであろう、見えない、神性を帯びた存在を覚えた。
「見ろよ、この石」
「間違いないわ、変わった。何で?」
薄っすらと彫のようなものすら、見えた気がする。
「おまえ、俺にわかると思うか」
「おまえって言わないでよ、イユって、名前があるのよ」
イリューシュは笑いながら、わざと顔を顰め、不愉快そうな眉をふざけて作る。
「初めて聞いたけど」
「初めて言ったかもね。憶えてないわ、そんなことは」
だが、笑顔はすぐに止み、考え込んで深く清んだ、神秘的な表情を為す。イリューシュはその移り変わりに吃驚し、
「おい、何なんだよ、どうしたんだ、いきなり」
山のこちら側は風もなく、無音だった。真っ白な雪が時折、スローモーションのように粉となって巻き上げられているのは、なぜだろう。清み切った、瞑想的な明晰の世界。
「ねえ、ここって特別な聖域だと思わない」
「え?」
「神様がいる感じがする」
「何だよ、急に」
「ねえ、わたし、思い出したの」
「何を」
「ぼんやりした、ただ感覚的なイメージ丈なんだけど、わたしが(わたしたちが、かもしれないけど)かつていた世界のことを、少し思い出したの。
何となくだよ、ぼんやりした、没骨法みたいな感じで。微かな輪郭が朧に。
思い出したくない思い出……のような気がする。そこは……
不正で、真実のない世界。力があれば、悪であっても勝利の美杯を楽しみ、豪奢と逸楽を堪能できる醜い世界。
物理的法則が謳歌する、力丈の弱肉強食の世界、悪の世界」
「そう言われれば、そうだった気もする」
「わたし、真実の世界に生まれたいって願っていた。それ丈は思い出せるの。あなたも、そうじゃないの、イリューシュ」
遂にイリューシュも深い表情を泛べた。叡知の面持ちを。
「醜い、不実不正義の世界だった。そうだ、思い出したよ、俺も希っていたということを。でも、それ以外はよく憶えていない。いや、思い出せない」
「そう、実は、わたしも、そうなのよ。はっきりしたと感覚と感情とはあるのに、具体的なことが、まったくないの。でも、きっと、これよ、これが答の一片だわ。ともかくも、わたしたちは、真実の世界に生まれ変わったのよ。
そう思わない?
わたし、感じるの、ここでの過酷な経験で言葉ではない叡知を体験で獲得したわ。だから、変化したの。
何の証拠もない、確認もしていない。けれども、叡知が身体に生じて、明確にそれを直観するわ、疑いようもなく。これが本当の知識、智慧なのよ、きっと。
真実の光燦に満ちて、揺らぎようがない、神的で崇高な確信。真の存在。懐疑を差し挟まれることもない真の叡知。
わたしたちがあの世界で知っていた真理はすべて脆かった。疑うことがいくらでもできた。すべてが無条件で、何の根拠もなく信じられていた。そんな脆弱なブロックで構築された体系の建築だった。
すべての認知(認識・意識)の素粒子、つまり、すべての証左(すなわち論理的証左)の構築要素である‶考概〟は、すべて思い込みで、それだからそれなんだというトートロジー(同義反復)的な無意味さで、つまりは無条件な是認の下、感覚的な擦り込みで馴染ませて、納得という心的現象を起こさせた結果でしかなくて、何の証左にもならない、ただの現象だった」
イリューシュは驚嘆で眼を瞠ったが、それは彼女の論への驚愕でも賛嘆でもなく、強く神々しく語る彼女への愛おしさ、潮のように高まり熾る、守りたいという切ない感情であった。
「おまえ、いや、イユ、哲学少女だったのか、愕いたな」
「何でよ、失礼過ぎるわ」
呵々大笑し、
「俺もストリートのギャングだったが、重ねて穿いていたジーンズのポケットには、いつもニーチェが入っていた。ストリートの哲学者さ。
読む本は、時には、ハイデガーになった。気が向けば、プラトンやアリストテレスを読むこともあったぜ。まあ、そりゃ、どうでもいいや。
ともかくも、ふうん、何となくわかったよ」
二人は生れて初めて、真実を語り合える友に出会ったのである。
眉を顰めて、イユはからかうように、
「ほんとかなあ、何がわかったのよ」
だが、イリューシュはイユの揶揄など聞いていない。言ったら、言いっ放しだ。歩き出す。イユも歩くしかなかった。
どこまでも続く広大な雪の斜面、何もない。
いや、あった。
「おい、あれなんだ」
百mほど先にある、五十㎝ほどの、不自然な、雪の盛り上がり。小さくて、ここに来るまでは、気がつかなかった。イリューシュが走った。イユは声を上げる。
「待ってよ」
近づくと、雪をかぶった、小さな女の子だった。赤いチェックの頭巾をかぶっている。毛織の厚手の服。防寒とは言えないが、イユたちよりはいくらかましな格好だった。
「おい、おまえ、どうしてここに。まさかと思うけど、独りで? 独りで、ここまで来たのか」
少女はイリューシュを不思議そうに見上げる丈で応えなかった。イユが訊く。
「あなた、お名前は」
最初は六、七歳に見えたが、よく見れば、十歳か、十一歳くらいか。イユは自分が十四歳であることを思い出した。何となくイリューシュも同じ歳だと思っている。
「アヴァ・ロキタ・イーシュヴァラ」
「え」
アヴァは「普く」、ロキタは「観る」、イーシュヴァラは自在なる者。すなわち、アヴァローキティーシュヴァラと言えば、観自在菩薩の名に他ならない。
何も気がつかないイリューシュは、
「おい、このまま坐っていたら、凍え死んじまうぜ。いったい、いつからここにいるんだ。って言う以前に、どうやって、ここまで来られたんだか、不可思議だが」
少女は双眸を睜いたまま、見つめる丈で表情すら変えない。その瞳の輝き方が異常で、ブリリアントカットしたダイヤモンドに、最高に乱反射をする角度で、太陽光を当てたかのように、強烈に燦燦と煌めいていた。
イユは不安を覚える。
「イリューシュ、やめようよ、何かおかしい、放っておこうよ」
眉を上げて驚く。
「何言ってるんだ、放っておけないぜ。数少ない人間だぜ、仲間だぜ」
「だって、おかしいよ」
「いや、連れて行く」
イリューシュは抱き上げた。少女は抵抗もしない。むしろ、当然のような顔に、イユには見えた。胸に痛みが走る。何、これ? そう思うも束の間、イリューシュがすたすた行くので、慌てて追いかける。
「待ってよ! わたしは放っておくの?」
「何言ってんだ、おまえは小さな小さなお子様じゃないだろ」
そういうことじゃないの、と言いかけて止まる。何で止めたんだろ、自分で不思議にも思ったが、実はわかっていることにも気がついていた。
「なあ、おまえ、どこから来たんだ」
面白がらせてやろうと、イリューシュなりに考えて、肩に担ぎ換えて話しかけても、応じない。絶壁を攀じ登っている間に鍛えられた腕っぷしは幼い女の子の体重などものともしない。
「言葉が出せないのかな。あまり訊いちゃ悪いか。イユ、おまえ、どう思う?」
「知らないわよ」
「まだ怒ってるのか」
「怒ってなんかいないわ」
「なら、いいや」
……ったく、もう!
青い空は静かだった。碧い瞳のように美しい。
しばらく、歩いて下るうちに、また何かが目に留まる。
「何もないように見えて、いろいろなものがあるんだな。ほら、イユ、あれを見ろ。何だろうか」
眼が痛いくらい、まばゆい純白の急降下の斜面。
何の凹凸もなく、広くまっ平に十数㎞を一気に下がっていたが、急傾斜の途中に一つ、まるで引っ掛かるかのように、小山のような、いびつな盛り上がりがあった。
白いが、雪ではない。
長い毛のようなものが、さらさらと靡いているのがわかる。
風がないのに。
「何だろう、異様だけど、崇高な感じだ。強く惹かれる。まるで、聖なる遺物のように。あゝ、行ってみようぜ、逝ってみよう」
イリューシュの双眸が強い燦々たる光で耀き、誰に言うともなく言って、ずかずかと雪を踏む。
「待って、待ってよ、わたしも行くわ」
雪も微かに積もっているが、雪と見紛うほどに、白くてとても長い毛がゆらゆらと揺れている。毛と言っても、人間の髪の毛ではない。何十倍も太かった。
「牙がある」
イリューシュが足を止めた。アヴァを肩から、そっと下ろし、歩み寄ろうとするイユを手で制し、
「いや。俺丈で行く。
ここで待ってろ」
牙はとても長く、大きくアンダースローのように湾曲してから、先端でやや下向きに内側へ向かって小さく湾曲していた。
「マンモスだ、白いマンモス」
その時、ぎょろっと大きな眼が開いた。雪が粉のようにさらさらと落ちる。