第 二十二 章 究竟凄絶狂奔裂
イユとイリューシュは聖なる大憲法をアカデミアに奉納し、その後は饗応され、一泊し、翌朝、爽やかな気持ちで、仲間とともに聖なるアカデミアを出発し、イヴァント山への帰路に就いた。
吹雪のときもあったが、静かな蒼穹もあった。珍しいことだ。神々の祝福か。
平和な旅で、二人とも、終始にこやかだった。
当座、旅逝くはイユとイリューシュとアヴァとリンレイとアガメムノンの五名である。最初期のメンバーだった。他の仲間は雑務があるため、まだアカデミアに滞在していた。
さて、明日にはイヴァント山の麓というときになって、天候が荒れ始めた。強い風に低い雲、雪礫が弾丸のような猛吹雪であった。まだ午前中だというのに昏い。
「ここまで来てこんな天気になるなんて」
リンレイが呟く。イリューシュが笑う、
「慌て急ぐ必要もない。休憩するか、何なら、野営してもいいぜ」
アガメムノンも顎を摩り、
「実際、イヴァントは慣れ親しんだ山とは言え、高度といい角度といいナメていい山ではない。イリューシュと二人きりなら構わぬが、イユやアヴァもいて、その危険を犯す愚を行う意味もあるまい」
アヴァが上空を見上げていた。
リンレイが釣られて、見上げる。
イユも。
「あああっ」
イリューシュが眉を顰め、
「どうした、リンレイ」
リンレイは固まって応えられない。
イユが震え指差し、叫ぶ。
「あれよ、イリューシュ、あれを見て!」
小刻みに震える指尖の示す方向を見れば。
黒いシルエット。
轟然と大巖の上に立ち、こちらを睥睨している。
蛇のような縦裂の瞳孔を炎のように爛々と滾らせ、黒く燃える龍神の絡む剣を持つ大豪傑。殺戮女神ジン・メタルハートであった。
「バカな、奴は死んだはず」
アガメムノンがそう呻く。
イユが声を震わせ、
「やっぱり、人間じゃないのよ」
イリューシュが舌打ち、
「ち、面倒臭え。やるっきゃない」
聖剣を抜く。
メタルハートは嘲笑いつつ、傲然と宣う、
「我に死はない。ただ、勝つまでは。おゝ、今日こそ絶世なる究竟窮極空前絶後の眞なる戦い、さようにあればこそ我もまた、我が眞究竟眞実義を示めさん」
その全身から今まで殺戮した人間の怨霊が噴出し、強く濃く現象した。
「今日のこの〝聖〟なる日のために我が命を滾らせようぞ」
何百万という怨霊、その苦悶の表情がくっきりと浮かび上がる。
誰もが震え上がる光景だ。
だが、イユを護るべくイリューシュは意志の力を統合してレジストし、はっきりと言う、
「俺らの生きている姿もこれと何が変わるであろうか。人を恨んでは苦しみ、その苦しみから逃れ解かれるために恨みを晴らそうとする。人は幸せになりたい。恨みを晴らすために憎み憤る魂の根源には、生存が在る。
恨みを晴らすことを、俺は否まない。正しいかどうかは知らない。ただ、否まない。
だが、すべてを赦すことは悪を赦すことではない。悪を赦さないことを赦すからだ。
どっちつかずの中道・中庸でもない。どっちつかずを非難し、拒否し、悪と見做すことを肯定するからだ。つまり、唾棄し、罵倒するからだ」
その時、
「あっ!」
イユが思わず声を上げた。
魂魄も牽き裂けるかと思われる現象が立ち上がる。
メタルハートの身体が放つ怨霊のなか、一つの家族と想われる魂魄をメタルハートがつかみ、引きちぎった。怨霊は既にその怒り憎しみの苦しみで魂を苦しめているが、さらに靈身を裂かれて苦しみ、さらに凄まじい怨霊と化した。
天地を切り裂くような怒りに襲われたイユ、
「貴様、ジン・メタルハート、絶対に赦さない」
激越な憤りが全身から噴出する。止めども尽きぬ噴火のようであった。メタルハートはせせら笑っている。
逆にイリューシュは静かな炎を湛えていた。心を亂して敗北しては、本末顛倒と思うからである。
『死を齊しく生と觀じ、生を死とぞ睿らめる』という、甚深究竟の瞑想を試みるのであった。
「生死が事実として在るか否かを確かめる術はない。〝事実〟という在り方が人の想うような〝事実〟というものであるならば、それは差異のない、無色透明、無味乾燥だ。
死を死たらしめ、生を生たらしめるものは受想行識であって、実体ではない。すべての事実が無色透明ならば、死も同様だ。ならば、死を死たらしめるものは死への恐怖だ。生きたいという渇望だ。それが生存だ。死への恐怖とは生存だ。生存が死への恐怖だ。
もしそうならば、死のイデア・本質は存在しない。
従って、死は死であって死ではなく、生は生であって生ではない。色即是空、空即是色とも云われるゆえんだぜ」
アヴァが声を発す、
「なまはさるゔぁじゅぬぃやあや」
その毛^声が光となって聖剣を照射する。
聖なる剣は崇高なる燦めき、さやかかろらな光、すみあけし、きよらあきらかな浄火の、すがすがしき煌めき、聖の聖なる蒼白き光明、時折、太陽のごとく赫奕とする。その睿らかさに因って、怨霊たちは苦しみから救われ、苦が寛解し、世俗の価値観を超え、解脱した。
それでも、動揺も見せぬメタルハートは、
「ふ、さもありなん。このようなこども騙しが貴様らに通用するなどと期待してはいなかったわっ。ふぅぬううううんっ」
ジン・メタルハートは臍下丹田に息吹を込める。黒い霧のような瘴気が立ち込めた。
全身に悪辣な氣を籠らせ滾らせ、生存の根源的な力である破壊衝動的な、全方向的無差別な、無方向的な無明の、闇雲な全否定を爆裂さす。
それは凄まじく、普くすべてを否定する。この否定は際限なく、すべてを否定する。
否定するおのれをすらも否定し、餘すことがない。全網羅の否裂である。
否定ということじたいをも超越的に否定し、それゆえ、全肯定にすらも至る。されど又、それすらをも否定し、すなわち、全部でなく、一部のみ否定することとなる。或いは、一部をのみ肯定する。しかも、それをも牽き裂き、一切拒裂へと還り咲く。永劫円環をなして無限に未着地、未解決の途上。
自らの尾を噛む蛇の矛盾、メビウスの環のような解決不能の未遂不收、死という空絶絶空(空は絶する(ゆえに)空を絶する)、儼なる狂裂の非情無味乾燥なる〝現実〟であった。
「儼なる死よ、死の前には無すらもない。死すらもない。非じたいである死よ、眞究竟眞実義なる儼死ぞ」
たとえ、高い精神性を持つ者たちであっても、有餘依涅槃(呼吸など最低限必要な生理的欲求を残す)にあり、死への畏怖、苦しみを完全に免れることはできない。無餘依涅槃(生物的な死)には至らぬ限りは。
無意識下の大海から籠もれ上がる生存の大浪に囚われ、喪魂する。神威に護られたイユやアヴァたちも昏冥に封ぜられた。
ただ、イリューシュのみが不幸にも、かつて聖イヴァント山の絶壁に未だ石であった頃の聖剣を突き刺し攀じ登ったときのように、『龍肯の聖剣』を大地に刺して柄を握り、しがみつくよう踏み留まって歯を食い縛り、生きるに耐えられぬ絶望に顔を歪め、しかし、立ち、足を前に一歩、また一歩。振り向かず叫ぶ、
「イユ、アヴァ。眞咒をやってくれ。頼んだぜっ」
命を絞って氣を糺し、魂魄の奥の宇宙に届くほど絶叫するも虚し。他四人は喪魂していた。
しかし、イリューシュの魂の宇宙炸裂を受けた『龍肯の聖剣』は燦々と赫奕し、光爆を奔裂させる。龍の肯を以て非を無みし、非を非するものなく、非は肯んじられた。メタルハートはいよいよ絶非に奔る。自在に身も裂き砕き天翔躍り狂う狂瀾炸爛、大狂奔裂であった。何もかもが喪われ、絶空すらもない。すべてがぶっ飛ぶ。イリューシュは膝を屈す。だが、狂絶は却って平常へ還る。確固たる存在へ。聖剣のリアルな実在へ。
そう、聖剣は存在する。イリューシュもいる。滅び崩れかけながらゆらゆらゆっくり立ち上がった。虚な眼で見上げる。ジン・メタルハートが傲然と胸を逸らし、聳えて睥睨していた。その手には血まみれに死したアヴァの生首。
「ふふ、こいつには何万年も苦労させられた。遂に斃したわ、ぐふふふ」
尠し離れてイユが頭から血を流し、朦朧とした状態で倒れている。アガメムノンやリンレイが斃れ、屍のよう。
天地を焦がす怒りが噴火し、
「てめえっ、何てことをしやがるっ! ちくしょうっ、てめえっ!」
勝ち誇って爛々とギラつくメタルハートのまなざしは殺戮に燃えていた。
「喚くがよいわ、我を滅ぼす限り我は強くなる。理もなく、義もない。モノの凄絶が勝つ」
「けっ、俺だって、ケチな物質だぜ」と吐き棄て、剣を天に衝き裂叫、「ぅらっ」。
再び奇蹟が起きた。イリューシュの声が無意識最深層にまたも届いてアヴァやイユの眞咒がなくとも、すべての現実的な制約・制限を超えて炸裂し、非にも肯にもあらぬ未遂不收、究竟の絶対非=絶対肯なる平常が神雷霆のごとく墜ちてメタルハートを直撃する。
メタルハートが眞っ二つ。
「ぐゎあああああああああああああああああっ!」
イリューシュ本人すら予想しなかった結果に躬ら驚き、「何てこったあ」と呆れる。
しかし。
「う、何なんだ、てめえわッ!」と絶句する、イリューシュは信じ難い光景を見た。
「ふぬぬぬぬぬぬううぬっ」
裂けた肉が再び結合し、甦る。その兇暴はさらに増して見えた。斃す(非する)ほど、非の相乗によりメタルハートの否定性を増強させるのである。非の超絶であった。非が非を否みて非性を桁違いとする。
「ふわっはっはっはっ、肯定されれば増大し、否定されれば強剛になる。非にも肯にもあらぬとて、それまた非の究竟なり。さればこそ、もはや我が勝利しかあり得ず。非の勝利」
メタルハートはむんずとイリューシュを爪でつかみ、牽き裂く。「うぎゃあああ」
イリューシュの断末魔の叫び。
だが、その絶叫が朦朧としていたイユの意識を覺醒させ、彼女を此處に現存させた。
「いやああ、イリューシュ!」
悲痛な叫びで絶望に我が躬をも裂くかのようなイユ。だが、噴血の飛沫の柱を上げてイリューシュが牽き裂くる瞬、裂かれた身内から新たな狂爛熾眼の修羅が殻を脱ぐよう、さなぎを破る蝶のようにあらわれて哄笑、狂喜亂舞し、メタルハートを喰らい尽くし、狂ったよう咆哮して聖なる蒼穹に轟かせる。それは又、儼なる深淵、永遠の沈黙であった。
無意識下から湧く生存に囚われていた意識が明晰なる生命への魂として甦り、リンレイやアガメムノンたちの存在も朧ながらも現象し始める。
最初に眼に入った光景が喰らい尽くされようとしているメタルハートと、イリューシュに似た修羅の大咆哮であった。
「いったい、どうなってんだ? 何なんだ? あれは、あれはイリューシュか?」
その上にさらに信じられぬ光景が。イユは叫ぶ。
「あ、うそっ、ああっ!」
狂おしき修羅イリューシュが突然、
「ぅぐわあああっ、ああああああああああっ」
苦しみに叫ぶ。叫ぶ口の開きは口角に止まらず、耳までも、喉までも裂け、胴体をも眞っ二つに牽き裂けた。その牽き裂けたところから噴く血の噴水とともにメタルハートがイリューシュの躬を裂き破きあらわれる。その顔に悍ましい嘲りの笑みを泛べ。
「だめだ、メタルハートだ、あゝ、何ということか、無限に不滅か」
アガメムノンの絶望の声。
それを聞くメタルハートの激烈な哄笑、八つ手を顕現させ、円舞させる。
「ぐゎっははははっ、超絶っ、超絶っ、超々裂絶っ! 躬らを噛む蛇、無限環、我こそ眞究竟眞実義なる超絶非非非非なるぞや」
リンレイが蒼白となって、
「伏せろ、また來るぞ」
「ぅらあああっ」
メタルハートが喉も躬をも裂く大絶叫をした。
言語を絶する世界が再度、狂出する。
死は非非非非。絶を絶し、叛くに叛き、異に異なり、互(違)いに互(違)い、逆に逆する。
無すらも死絶す儼死へ、空をも絶する絶空を非し、非絶空。非絶空をも絶し、絶非絶空。それすらも非し、非絶非絶空。それをも絶し、絶非絶非絶空。
ただ、ただ、路傍の古き道祖神。風雪に蝕まれ毀たれ。
現実丈しかないという、無味乾燥。
現実とふ只唯惟爾焉。
無ではないことが無である。人は無を知らぬ。それが無を知ることである。
かたちなきといふかたちもなき。されば、今此れこの瞬。
過剰なる自由なる、狂裂自在、自由狂奔裂。
すなわち、刎頚の逆さ磔、孑然たる空き缶、無餘依なる涅槃、龍のごとくに偉いなる肯、あまりにも途方もない自在無礙、超絶超越なる齋く稜威き『死といふ儼』。
どれほど時が経ったか。
だが、その無味透明たる窮極極限の〝恐るべき荒野〟に一人だけ立つ。何千年も厳しい銀嶺で風に吹かれて切り裂けたきれのように。
双眸が煌々と耀いていた。肩で息をし。それでも、今ここにじぶんしかいないと覺り、時の経過とともに尠しずつ、おのが勝利を確信し、嘲笑う、
「ふふ、我が勝利なり」
だが、そのとき。
「お前の負けよ。ジン・メタルハート」
メタルハートは驚いて声の方を見る。
アヴァか? そんなバカな、あり得ん、……いや、アヴァに見えたが、イユだった。アヴァが重なっているかのようであった。光輝している。
「信じられん、貴様、生きていたか」
「あなたの勝ちよ、だから、あなたは今、負けたのよ」
せせら笑うメタルハート。
「何を言っている? 狂ったか。……ふ、ふふ、お前も愚か者だな。黙っていれば助かったものの」
「みんな助かるわ。お前の言葉は全て逆」
「何だと?」
「非の勝利は、畢竟、非の否定よ。否み拒み牽き裂く。自己破壊、破滅よ、非の破滅は肯定、生命の勝利」
「戯言を」
「そうかしら」
イユが神がかって微笑む。
メタルハートが異変に気がつく。
「こ、これは何だ? どういうことだ? 何だと? ばかな」
じっと手を見る。砂塵のように風に吹かれ崩れ散り逝く…………
その勢いは突如、速まり高まり、声を上げる遑もなく、空間に吸い込まれるかのように、収縮する宇宙のように、存在を喪った。
イユは平然としている。まるで、何かに憑かれているかのように。
厳かに言う。
「非の勝利は敗北の同義語。あなたは自らのその偉大な力で己を滅ぼした、ジン・メタルハートを滅ぼせる者は、ジン・メタルハートしかいない。その真理はいつの時代も繰り返される。
生命の超越のために。生命は身を牽き裂きながら天翔け躍る。
あなたはそもそも〝ない〟存在なのよ」
そして、崩れ倒れた。




