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第   一 章  じぶん発令、存在、そして、

 言葉ならぬ情、概念ならぬ感覚、それしかない。未だ明確な意識がなかった。混沌である。

 只管(ひたすら)に助かりたい、遁れたいと藻掻き足掻く動機は〝わたし〟よりも古く在る。〝わたし〟よりも真実である。しかし、その意識などというものは、数十億年の歴史の累積である無尽蔵の無意識層に操られる、ほんの表層部でしかない。

 日の眼を見ぬ深層にある無意識層の、深淵広大なる大海に比すれば、その上っ面に泛ぶ、一枚の小さな枯葉にしかず、波のまにまに翻弄され、主体性など1ミクロンもない。

 突如、天啓が訪れた。

 

  

 宙に泛ぶ黄金の天球儀のような(あや)の曼陀羅、ダイヤモンドの燦めきに囲繞され、イユ・イヒルメ(彝兪・彝日霎)という名が降りて来た時、気がつく。

 

  

 闇に差した最初の黎明は〝わたし〟だった。それは唐突に来る。次から次へと、何かが起こって、次第に擦り込まれ、徐々に〝かたち〟が起こり、意識が生まれ、さまざまな異なるかたちが生じ、馴染むうちに心が生まれ、沁みながら納得という心の状態で収まりがつく。諸々の考概を(つくる)。時差はない。〝ある〟が生まれるのも、同時進行だった。

 足掛かり、手掛かりになる〝ある〟に、必死にしがみつこうとし、断末摩の足掻き藻掻きのように我武者羅無我夢中必死一所懸命。それが〝わたし〟であった。

 

  

 忽然と、氷のような雪礫が頬を打つ。頬に当たる丈で雪だってわかるものだ。それで自分を明瞭に感じ、説明なくとも、存在を理解した気分になっている。

 それって、不思議だけど、不思議じゃない。意識というものが隕石のように衝突して来て、唐突にわかるものだ。

 頬丈ではない。腕も打つ。脚も打つ。何でこんな普段着なの? こんな極寒地で! おかしいよ。自分が今までどうしていたのか、ここがどこなのか、なぜ、いるのかも、わからない。

 ただ、泛び上がる想い、彝兪イユ、……

 イユ? 名前? わたしは、イユ。イヒルメ家の。

 碧い海潮を自在にさばくイヒルメ族の娘、海の女神アルテミ・イヒルメに仕える七千年来の一族、眞神族の一氏族で、二千七百年前に海を渡って日本に来て、東北の眞神郡に住んでいた、……はずだった。



 それなのに、凄まじい吹雪。なぜ、こんなところに? 眼も開けられない。正確に言えば、吹雪だと思われる、が妥当だろう。だが、間違いない。しかも、深い山奥のようだ。怖ろしい嶺が頭上に、見えないのに、その漆黒のシルエットが、とても近くに蔽い被さるように感じられる。

 進もうとする。



「あっ」

 足下が崩れ、墜ちそうになる。

 断崖! 何も見えないけど、もの凄い空間を感じる。

 途方もなく広い空間。



 大きな谷の断崖絶壁、もの凄い巌山の、非情な絶壁だろうか。怖い。

 何もできない。雪を踏んでいるけど、滑落するかも。怖いよ。待つしかない、きっと、夜が明けるから。そうすれば、わかるはず、きっと。



 夜が明ける? 本当にそうかしら? 証拠がない。でも、(こいねが)うしかないよ、祈るしかない。それしかできないよ。だって、何もわからないから。

 でも、祈って、どうなるかも、まったくわからない。

 あゝ、とにもかくにも、寒い、寒い、寒い。

 死んじゃうよ。手が悴んで動かない。身体が凍えて痛い。ガタガタ震えて歯が合わない。震えを止められない。

 あゝ、寒さを凌ぎたいよ。その思いしかない。それができれば、何も要らない。お願い。あゝ、本当にお願いします。



 暗鬱な哲学少女だった。友だちがいない、というよりは、友だちを求めずに、独りでいつも考えていた。古代ギリシャやニーチェやハイデガー。存在の意味。真実と本質。心の不安から逃れたくて、真理を求めていた。



 でも、そんなものは、もうぶっ飛んだ。充たされていなかったけれども、それは結局、充たされている者の安全な領域での遊戯だった。わたしはこの寒さから逃れたい。免れたい。救われたい、助かりたい。必死だった、凄まじいくらい必死だった。



 雪を掻く。穴だ、穴、穴! 掘った。入る。風を凌げた。ある程度だ。それ丈で暖かく感じる。でも、雪を掘ったせいで、手は痛い、完全に悴んで温度が戻らない。口の中に指先を突っ込んでも、ちっとも温まらない。

 こんなにも絶望的なことってあるの? どうにもならない、どこにも逃げられないよ。どうにもならなさ過ぎる。絶望した。

 最初は、涙が流れたが、涙も流れなくなった。もう夜は明けないんだわ、と諦める。諦めないと堪えられなかった。もう力尽きて、無気力になった方が楽だ。

 それでも、一秒が堪えられないほど長いのは、まだ希望が燃え尽きていないせいだろう。もしかしたら、夜が明けて、黎明が兆し始めるのではないか、と。長い苦しい時間。それもかなり経った頃、ようやく黎明を幽かに感じる。

 そして、次第に明るくなると、自分のいる、恐るべき場所がわかった。

 山の巌の断崖、垂直な絶壁の、中腹だ。ほとんど足場がなく、雪が積もっていつでも滑落しそうだった。



 遙か上も、蔽い被さるような、巌の壁になっていて、足下には深い深い峡谷、数千m下までまっしぐらであった。

 風を凌いで少し体温が戻ると、進むしかないと思った。どんな哲学もわたしを救ってはくれない、と。

 黎明が希望を取り戻させてくれた。少し幸せを感じる。光は希望だった。見えれば、少しの勇気も湧く。

 岩棚とも言えない、わずかな足場を辿って、暴風雪に吹き飛ばされそうになってしがみつき、積もった雪によって何度も足を取られ、あ、墜ちる、って何度も思った。

 とにもかくにも、そうしながら進む。足を上げたら、次は慎重に下す。一歩。次にもう一歩。進むしかない。

 疲れ果てて力が入らず、もうだめと思う頃、少し広い岩棚が見えた。

「あゝ、あそこまで行けば」

 どうにか希望が力を甦らせ、辿り着く。

 洞窟があった。あそこなら風がしのげる。その時、

「おい、おまえ」



 突然、声がして心臓が止まりそうになった。

 声は洞窟の中からする。穴の闇からあらわれた姿は、一人の少年だった。颯爽としている。自信に満ちていた。双眸が輝いている。

 風に靡く髪は獅子の鬣のようであった。

「おまえも、ここまで下って来たのか。俺は、この上から滑落して、偶然、この岩棚に落ちて助かった。

 彝龍衆イリューシュって言うんだ。あゝ、仲間がいて嬉しいよ。急にカラ元気でも出そうかなって気力が湧いてきたよ。

 いや、人間らしい気分が甦るなあ。さっきまでは、怯える小動物のようだったが。人間様だなんて言ったって、所詮は、そんなもんだ」

 


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