第 〇 章 〝気附〟
唐突丈を気附。 唐突に 〝 〟 で候ことに(又は、「 〝 〟 に存ことに」)気がつく、 ということではない。
唐突ということに気がつくという丈のこと。他に就いて非知。気附の主体が誰であるかも知らず、主体が存すや否やも知らず、理言なき経験知※耳。 ※体験でしか理解できない知。例えば自転車に乗るコツなど。
主体も客体も、〝自ら〟ということも〝対象〟ということも、未だ〝ない〟とすれば、唐突が自らに因り、自らを以て、自らを〝脳裡〟に、〝とうとつに〟 あらわすと解釈し、唐突を気附の主体として措いて、「唐突が唐突自体に気づく」と解することも可である。
〝 〟 であるとか、 〝 〟 の状態にあるとか、 〝 〟 に居るとか、そういうことに、未だ気がついておらず、ただ、気がついたという丈でしかないということ。
唐突、ということは、突然、という意味ではなく、どうして、こうなったか(経緯)も、なぜ、こうなのか(由来)も、どういうことか(意味)も、それらをわかっていないということも、わかっておらず、どこにも収まっていない、いずこにも着地していない、 すらも遂げていないこと、である。地点がない。
上下左右前後も知り得ない、色彩のない、黒すらもない、暗くも明るくもない闇、(強いて言えば)透明な闇、むろん、銀の背景も持たない、喩えるならば、どこまでも無際限に透明な闇。
牽き裂かれるような、ただ、絶望、絶叫、狂亂。
次から次へと疑情が鬱勃する。と言っても、そういう気雰がある丈で、問いなどにはなっていない、と言う以前に、問い方すらもあり得ない、ただ、牽き裂かれる。
湧きいずる疑問符たちは、未だ諸考概になる遙か以前の、無空すらもない空絶の状態から、どうにか何かになろうと足掻き藻掻き、有機的化学変化から原初の生命へと遷移しようとする状態、かたちの設定仕様をなすιδέα(〝かたち〟のイデア)以前の状態であった。
もとを糺せば、思考も情緒も精神もインパルス(化学反応による電気的な発火現象)に過ぎないが。
自分たちが観ている、インパルスという現象が事実であるとすれば、の話だけども。
どこまでもめくりさぐっても、どこまでもつかむべきものがない。
これら喋繰ったことなんて、皆、後から考えて、苦しかったように感じている丈だ。きっとあの時は、ただもう、逃げたい、遁れたい、免れたい、救われたい、楽になりたい、只管それ丈だったであろう、とか。
何となく、『存在のないことの、根底からの不安、脳髄が爛れ混ざりそうな、ぐるぐる廻り続く眩暈が裂く、内臓ごと吐きそうな嘔吐の感覚、何も見えなくて、空気があるのかどうかすらも不安になる。あるかどうかもわからないと、空気を吸っていないような気がして、苦しくなる』、だったような感じがしている。
説明が欲しいのなら、そう考えるのは当然だ。人は助かりたいために為す、生き残りたいがために、理由などない、問う莫れ、そういう仕様しかないのだから、と。
真義も真実も、真理も理法もない。正義も本質も、正解も誤謬も、妥当も不当も、真も偽もない。一致も不一致もない。実際、そうだから。
ただ、助かりたい。願いがかなうならば、健やかなまま、無事でいたい。すべてはそのための儀礼装甲に過ぎない。だから、そこにιδέα(イデア)はなく、無意味な擦り合わせで刹那のみの、仮初めの架空の空漠がある丈。
全ては措定(又は仮定、仮に措く)にしかざれば、畢竟、〝未遂不收〟。何もかも中途、未着。ただ、現實が在る爾已。ただ、只管、〝在る〟爾已。無味乾燥。无空さえ干涸びて。空き地の雑草、捨てられた陶片にしかず。