【幕間.天族の子供】
昔から親に厳しく言われていた。自分たち天族は人間に正体が知られてはいけない、と。
はるか昔、人類と魔族は激しい争いをしていた。長きに渡ったそれは人類の勝利に終わった。魔族を率いていた悪魔のほとんどが滅ぼされ、この世は人類が支配したといっても過言ではない状態が今も続いている。
魔族と違い、天族は争いを好まない質だ。
だが、それを人類が完全に信用出来るとは限らない。人類は魔族との争いを経て、異種族への偏見を強めている。
無用な争いを生まないためにも、人類には存在を知られない方がいい。
というのが、幼いアンが父に教えられたこと。
人間全てが恐ろしいわけじゃないが、魔族との争いが終わった直後に同族同士で争いを始めるような者たちが、天族とだけは友好な関係を結べるなんていうのは夢物語でしかない——とは、母の談。
「そうなのかなぁ……」
呟いたアンの目線の先には、町がある。人間からすれば小さな町らしいが、同族の少ない天族からすれば、あの程度の規模でも羨ましい賑わいだった。
人類に正体を明かさないことを選んだ天族は、人目につかなさそうな場所でひっそりと暮らしていた。そのためかは分からないが、個体数があまり増えなかった。
アンが生まれるよりもずっと前は、同族全員で生活していたらしいが、今は時代も変わり、個々の意見を尊重して比較的自由に生きている。
集落を出ずに昔と変わらず生活している者や、旅に出た者、人間に扮して人間として暮らしている者など、様々だ。
ただ、どこで生活していようと「天族の存在を知られてはいけない」という掟は絶対、らしい。
破ったところで、誰かに即座にバレるわけでも制裁が下るわけでもないが、正体をバラせば一番危険なのは自分自身だ。好んでそんなことをする者は、あまりいないだろう。
「ここから見てる分だと、みんな良い人みたいに見えるけどなぁ」
うーん、と唸りながら首を傾げるアン。
彼女は家族と共に今も天族の集落で暮らしている。しかし周囲は大人ばかり。少し先に生まれた子たちは、「アンにはまだ早い」と言って遊び相手に入れてくれないことも多かった。
気軽に遊べる相手がほしいアンにとって、人間の町というのは理想そのものだった。
たくさんの同族が集い、子供もたくさんいて、一緒に遊んでいる。想像するだけで羨ましいし、見ているとその輪に混ざりたくなる。
「でも、ダメなんだよね……」
人には近付くな、という両親の言葉を思い出し、ガックリと肩を落とす。
両親の語る人間の恐ろしさというのが、人間と接触したことのないアンには理解出来なかった。
かといって約束を破る勇気はない。人間よりも、万が一バレた時に、怒り狂うであろう両親の方が遥かに恐いから。
行動を起こせない以上、人の町を見ていても空しい気持ちになるだけだ。そう感じ、そこから立ち去ろうと後ろを向いた時、ようやく気が付いた。
自分のすぐ近くまで、大きな魔物が迫って来ていたことに。
「え」
それ以上の言葉を発する間もなく、魔物の鋭い爪がアンの腕を切り裂いた。
一瞬、何をされたのか分からないくらい速い攻撃にアンが呆けていると、腕が一気に熱を持ち始める。
「あ、あああああああ!!」
焼けているんじゃないかと錯覚するくらいの熱さに襲われるのと同時に、鋭い痛みが走る。その痛みに耐えきれず、悲鳴を上げてその場にうずくまるアン。
手で傷をおさえても溢れ出てくる血を見て、恐怖で頭が真っ白になりかけたが、必死に思考を巡らせる。
子供とはいっても、アンは天族の中でも最高位——天使だ。魔物の襲撃に怯え竦んでいたら、同族の誇りを汚してしまう。
「『光属性魔法:ライティアル』!」
アンの放った攻撃は、魔物に直撃した。しかし若干怯んだ程度で、大したダメージは負っていないらしい。
自分が使える他の魔法は、今のものと威力は大差ない。奴に挑んだところで負けるだけなのは明らかだった。
人間の町の近くには滅多に強い魔物は出ないと聞いていたが、もちろん例外はある。その例外を考慮していなかったアンは、自分の愚かさを恨んだ。
しかし呑気に後悔している暇はない。勝てない相手に遭遇したら、逃げる以外の選択肢はない。
天族の体は頑丈なので、相当な怪我を負わない限りは命を落とすことはない。集落には治癒魔法を使える仲間もいるし、逃げ切ることが出来れば助かるだろう。
ただ、この魔物から無事逃げ切れる自信が、今のアンにはなかった。自分の魔法は相手を一瞬怯ませることくらいしか出来ない。一方、相手の一撃は相当重い。
命に別状のない傷だって、痛いものは痛い。今は腕だから我慢すれば走ることが出来るけど、もしも足を怪我したら。奴の目の前で転んだら。その爪や牙は容赦なく自分を襲うだろう。
そんな状況になれば体の頑丈さなんて、むしろマイナスでしかない。痛くてもなかなか死ねないなんて拷問でしかない。
最悪の未来を考えて、アンの体は恐怖で震えてしまった。その間に魔物はゆったりとした動きでこちらに近づいてくる。
逃げるなら今しかない。立って走らなきゃ。怖いなんて考えてる暇は、
<ギャアアアアオオオオオアアア!!>
魔物の断末魔と共に、その体が眩い光に包まれた。
いや、よく見ると光ではない。それは青白い電気の塊——雷属性の魔法だった。
「な、なに今の……?」
「大丈夫!?」
「は、はいっ!?」
後ろから突然聞こえてきた声に驚いて振り向くと、女の子がこちらに向かって走って来ていた。
それが人間であることは、すぐに分かった。
「あ、あなたが襲われてるのが遠くから見えて、危なかったから走りながら魔法うっちゃって……あの、当たってない? 大丈夫?」
「それは平気だけど……」
不自然なほど早口で説明口調な少女。
この子供がさっきの魔物を一撃で仕留めるほどの魔法を使えるなんて、信じがたかった。
外見年齢はアンとさほど変わらないように見えるが、人類と天族では寿命の差が大きく異なるため、外見年齢が同じ場合は人類の方が圧倒的に若い。
それに加えて、天族の中では子供とはいえ、天使である自分の魔法が全く効かなかった相手を、こんな田舎に住む人間の子供が倒してしまうなんて。
次々に想定外の事態に襲われて、アンの頭の中は大混乱だった。
そのせいで忘れていた腕の痛みが、突然よみがえる。
「いったぁ!」
「あっ! 大丈夫!? 動け……ないよね、お医者さん呼んでこようか?」
「い、いや、それは大丈夫。私のお家、この近くにあるから、そこで治療してもらう」
「そっか……じゃぁそこまで連れて行くよ」
「え!? い、いいわよ! 平気だから!」
「ダメだよ! こんな大怪我……途中で倒れちゃったらどうするの!?」
どうするのと言われても、倒れないのだが。
とはいえ、人間基準だと命の危険を感じるレベルの出血量なんだろう。天族の肉体の頑丈さを知らない人間相手に何を言っても無駄だ。
かといって、集落に人間を連れて行くなんてことしようものなら、両親に怒られるどころの話じゃない。一族総出で怒られてしまう。
「とりあえずこれ巻いて」
アンがこの場をどう切り抜けたものか考えている間に、少女は自分の服の裾を豪快に引きちぎり、傷のある場所に強く巻き付けた。一時的にではあるが、出血が止まる。
「乗って!」
「あ……うん」
集落に連れて行ってはダメ。分かっているはずなのに、アンは少女の勢いに負け、大人しくその背中に身を預けた。
アンをおんぶしたまま、そのまま歩き出す少女。
「あなたのお家はどっちの方向?」
「あっち」
正直に集落の方向を教えてしまったが、アンは途中でどうにかすればいいだろうと安易に考えた。
それよりも、初めて出会った人間と、恐ろしいと言われていたのに自分を助けてくれた人間と、話がしてみたくて仕方がなくなってしまっていた。
◇ ◇ ◇
「ところで、おぶわなくても大丈夫よ? 自分で歩けるから」
「ダメだよ、怪我してるのに無理したら」
「……私、実はすっごく体が丈夫で、これくらいの傷へっちゃらなの」
「そうなの? んー……それでもダメ。だってさっき、痛いって言ったでしょ」
「それは反射的に出ちゃっただけで……これくらい、痛さで言えばかすり傷程度よ」
「かすり傷でも、ちょっとでも痛いならダメ」
なんて頑固な人間だ——アンは諦めて体を預けることにした。
彼女だって、同じ背丈のアンを背負って歩くのは楽じゃないだろうに。相手の意見を無視してまでしんどい方を選ぶなんて、アンには理解出来なかった。
「……重くない?」
そう聞いておきながら、重くないわけがないと分かっていた。少女の足取りはしっかりしたものではなく、時折ふらついていたから。
「全然へいき!」
「……、そう」
それが嘘であるのはすぐに分かった。
人間はよく嘘をつく。それは何か利益を得るためだと父が言っていた。けどこの嘘が一体なんの利益を生むのかは、分からなかった。
どれだけ考えても分からないから、話題を変えることにした。
「それにしてもあなたの魔法、すごいわね。あんな魔物を一撃で倒しちゃうなんて」
「あ……魔法は、その、少し出来るから……」
その声音は、何故かやたら気まずそうだった。
「どうしてそんなに自信がなさそうなの? 褒めてるのよ?」
「……私の魔法、人を怖がらせちゃうことが多いから」
「へえ……?」
別に自分が攻撃されるわけでもないのに、すごい魔法を見せられて怖がるなんて、人間はやっぱり理解出来ないと感じた。
それと同時に、使いたくなかったんであろう魔法を使ってまで魔物を倒してくれた彼女は、両親が言うような恐ろしい人間とは思えなかった。
「あ、そういえばあなたのお名前は?」
「えっと……、……アン」
正体を明かせない以上、偽名を使うべきなのか考えたが、アンは素直に答えることにした。
「あなたは?」
「私はアイリ・フォーニ」
「アイリ」
「私たち、同い年ぐらいだよね? 仲良くしてくれたら嬉しいなぁ」
顔こそ見えないものの、言葉通り嬉しそうな彼女の声を聞いて、アンも少し嬉しくなった。
小さな背中におぶわれ、素直に指示した道を進むこと数十分。その間に、色々な話をした。
アンは出来るだけ自分のことを知られないようにするのと、単純な興味から、アイリに一方的に質問をした。
町ではどんな風に過ごしているのか。友達とはどんな遊びをするのか。家族とはどういう関係なのか。
それらの質問に対し、アイリは時折気まずそうに言葉を詰まらせていた。
ただ、友達の話をする時だけは楽しそうに、オサナナジミという関係性の男の子の話をしてくれた。とても優しくて、自分にはもったいないくらいの親友だと言う声は明るくて、アンは羨ましく感じた。
「アイリはその子と本当に仲が良いのね」
「うん! 今度、アンも一緒に遊ぼうよ。ニコロは優しいから、きっとすぐ仲良くなれるよ」
「ねえ、町ではどんな風にして遊ぶの?」
彼女と話すのが楽しかったアンは、その道中、掟のことがすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
◇ ◇ ◇
アイリへの次の質問を考えている内に、集落が見えてきた。そこでアンは今更ながらに焦り始める。
どうしよう、流石に人間を集落の中にまで入れるのはダメだ。しかしなんて言えばこの背中からおろしてもらえるだろうか。
「あ、あの——」
「彼女はお友達かい?」
アンの言葉を遮るように聞こえてきたのは、アイリのものではなく、アンのよく知る低い声。アンの父のものだった。
顔を上げると、険しい顔をした父。その隣には、不安げな表情をした母の姿もあった。
恐らく転移魔法を使ったのだろう二人は、気が付いたらアンたちの前——集落の入り口を守るように立っていた。
「お、お父さん、あのね」
「……」
とにかく何か言い訳をしようとして口を開いたアンは、父の視線が自分ではなくアイリの方に向いていることに気が付いた。その視線が鋭く恐ろしいものに思えたアンは、慌てて言葉を続ける。そして言い訳ではなく、本当のことを告げた。
「この子は私を助けてくれて……私が油断して魔物に襲われて怪我しちゃったから、途中でなにかあったら心配だからって、ここまで送ってくれて……」
その声は自然と震えてしまった。
実際怪我もしているし、両親はこの話を信じてくれるだろう。
しかし、人間に天族やその集落の存在を知られるのはいけないこと――そう耳が痛くなるほど教えてきた両親が、心の底では人間をどう思っているのか、アンは知らない。
もしも両親が人間を憎んでいるとしたら、アイリがどんな目に遭わされるか分からない。
勝手なことをした自分が怒られるのは仕方ないが、もし天族と接触したことが原因で彼女に何かされたらと思うと、そっちの方が遥かに怖かった。
「君は……、……人の子か?」
「え? は、はい」
父の問いかけに、アイリは不思議そうに頷いた。
背に生えている翼を隠してしまえば、天使の見た目は人間とほぼ変わらない。そもそも人間に天族の存在はバレていないのだから、アイリはアンたちが他種族だなんて思いもしないはず。
人間かどうかなんて当たり前なことを問われて、不思議だったんだろう。
「そうか……アンの腕の手当ては、君がしてくれたのかい?」
「はい。あ、でも手当てってほどじゃないので……すぐにお医者さんのところに連れて行ってあげてください。きっとすごく痛いと思うので」
「分かった」
父の目配せを受けた母は、少女の背からおろされたアンの体を抱き上げ、何を言う間もなく転移魔法を使った。
彼女は何も悪くないから何もしないでほしい、そうお願いするつもりだったアンは、突然その場から強制移動されたことにパニックになる。
「お、お母さん、あの子はどうなるの!? 人の町に近づいてた私が悪いの! 油断して魔物に襲われた私が悪いの! お願い! ひどいことしないで!!」
「なに変な心配してるの? ちゃんとお父さんが町の近くまで送り届けるに決まってるでしょ」
あっけらかんとした感じで答える母は、とても嘘をついているようには見えない。
「ほ、ほんと? 私たちのこと見ちゃったから、なにか罰とかない? 殺さない?」
「物騒なこと言うんじゃありません。自分たちの正体がバレたからって、命を奪うような事するわけないでしょ」
「よかったぁ……」
「そんな事を本気で心配してたの? 馬鹿ね……悪意を持ってこちらに近付いてきたならともかく、あの子はあなたを助けてくれたんでしょう?」
激しく頷いたアンを見て微笑みつつ、母は「でも、そうね」と言葉を続けた。
「罰というわけじゃないけれど、掟として、あなたに関する記憶は魔法で消すことになるわ」
「えっ……」
「あの子はこの集落の位置を知ってしまった。子供だし、悪意なくそれを誰かに話してしまう可能性が無いとは言い切れないし、それが別の悪意のある人間の耳に入ってしまうかもしれないでしょう」
だから集落の近くを訪れた人間、天族の存在を知ってしまった人間には記憶消去の魔法をかける。それも昔から守られてきた掟の一つらしい。
一瞬、怪我が治ったらアイリと遊べるかも、なんて考えていたアンからすれば、それはショックなことだった。
だが、彼女への被害がそれだけで済むのならよかったと思うべきなんだろう。
「……それにしても、あんなに小さな体であなたをここまでおぶって来てくれたなんて、良い子ね」
「そう……そうなの! 助けてくれて、ずっと心配してくれて、いっぱいお話ししてくれたの!」
「ああいう人間ばかりだったら、私たちも共存の道を選べるんだけどね」
「他の人間は違うの……?」
アンの問いかけに、母はなんともいえない表情をした。
天族の中でも多少の考えの違いが存在するが、人間は数が多いからなのか、元よりそういう性質なのか、その幅が極端らしい。
今まで集落に迷い込んできた人間たちは、天族を魔族だと勘違いして攻撃を仕掛けてきたり、ロクな人はいなかった——と、前に誰かが言っていた。
まあ天族の存在を知らない人類からすれば、天族と魔族の違いなんて分からないだろうし、それは仕方ないことじゃないかとアンは思ったのだが。
「……あっ、私、お礼言うの忘れちゃった……」
「あら。でもきっと、お父さんがアンの代わりに、あの子に何かお返しをしてくれると思うわよ」
「お返しって?」
アンが聞くと、母は少し迷うような間の後、答えた。
「随分前のことなんだけどね、私たちも、あの子みたいに優しい人間に出会ったことがあるの。その時も記憶は消すことになっちゃったんだけど……お礼に、彼の願いを一つだけ叶えたのよ」
「お願いって?」
「私たちの魔法を少しでいいから教えてほしいって。あの時、人間は魔族と色々大変な時期だったから……あの魔法が何かの役に立っていればいいんだけど」
どこか遠い目をする母は、その人間のことを思い出しているのか、その大変だったという時代のことを思い出しているのか。
しかし今のアンには、その見知らぬ人間よりも、アイリのことの方が遥かに重要だ。
「ねえねえ、それならあの子のお願いも、お父さんが叶えてくれるの?」
「もちろん。大事なあなたを助けてくれたんだから、きっと盛大にお返ししてくれるはずよ。まあ、私たちに出来る事は限られてるけど」
「そしたらあの子は喜んでくれる?」
「ええ、きっと喜んでくれると思うわ」
「そっか! よかったぁ」
「それより、さっさとその怪我を治してもらいにいくわよ」
歩き出した母に、何度もアイリを無事に返してくれるのは本当かを確認しては、ついに「しつこい」と怒られてしまったアンは、大人しく黙ることにした。
「……ねえ、お母さんは、人間が嫌い?」
「うーん……人によるわね。同じ天族でだって、好き嫌いがあるんだから」
「そっかぁ……私はあの子のこと、好きになっちゃった」
「見た目はあなたと同じくらいだったものね。ここには、アンよりもお姉さんお兄さんが多いから」
「……一緒に遊びたかったなぁ……」
アンの治療が終わった時、既にアイリは父に送り届けられた後で、記憶もなくなって、もう会うことは叶わないだろう。それを考えるとすごく寂しい。
だからせめて、家族やみんなに伝えたい。
彼女がどんな風に自分を助けてくれたか、彼女がどんな風に接してくれたか。
人間は怖いもの——その考えが、誰かの中から少しでも薄まることを願って。
終わり




