魔王様
月にうっすらと雲がかかる、薄暗い夜。風を切り、闇に覆われた大地を駆け抜ける一頭の馬。その背中には父親と息子が乗っていた。
父親は腕に抱きかかえた息子にちらと目をやり、訊ねた。
「坊や。どうして顔を隠しているんだ?」
息子は答えた。怯えたように、体と声を震わせて。
「お父さん……見えないの……? 魔王がそこにいるんだよ。ぼく、怖いよ……」
「魔王? これはただの霧だよ。だいたい、どうしてそれが魔王だってわかるんだ? 幽霊ならまだしも……」
「名乗ったからだよ……。魔王がぼくを誘惑してくるんだ……。面白い遊びとか、綺麗な服に花とか、女の子がどうのこうのって……でも、ぼく、はっきり断ったんだ……。だって嫌だもん、お父さんと離れるのは……。ん? お父さん、聞いてる……?」
「ほう、エッチな遊びですか」
「お父さん!?」
「ほほう、美人がそんなに」
「お父さん!?」
「衣装も豊富で」
「お父さん!」
「歌ってねんごろ、ねんねんごろり、にゃにゃにゃあ……」
「お父さん! ちょ、お父さん! ぼくの声、聞こえないの!? ねえ、お父さん!」
「お、おお、どうした、坊や」
「いや、魔王から何か言われてない?」
「い、いやぁ、別に。ただの枯れ葉のざわめきだよ」
「いや、ごまかそうとしてるんでしょ……。ねえ、まさか魔王の言うことを聞くつもりじゃないよね……って、どこ見てるの?」
「え、いやぁ、ただのエッチな枯れた柳の幹だよ」
「エッチな枯れた柳の幹って何!?」
「お父さんは木を女体に見立てるのが趣味なんだ。へへへ、たーくさんあるなぁ」
「それはそれで嫌だよ!」
「いやぁ、可愛らしい娘さんをお持ちですなぁ。へえ、うちの息子を婿に? ははぁ、それはとても光栄でございます。それで私も、はいはい、あ、福利厚生もちゃんとして、ええ、ええ、住まいも用意していただけるんですか! それはようございます。はいはい、ええ、私までお嫁さんをいただけるなんて。ええ、ちなみに一人だけ? ええ、そうですねぇ、あれだけの美女を見せられたとなると、やはり一人に絞るというのは大変難しく……」
「お父さん! もう本格的に交渉に入ってるよね!?」
「はいはい、ええ、あ、そんなお店もあるんですねぇ。料金設定は、ああ、それなら、ええ、毎週行けそうですね、ええ、はははははは! 魔王様ったら、また口がお上手で、はははははははははははは!」
「お父さん! 魔王と懇意にしないでよ! ぼく、嫌だよ!」
「こらこら、息子よ。じたばたするな。決定権は父にあるんだ。魔王様のもとに、一緒に行こう」
「嫌だってば! 放して! 放してよ!」
「こ、こら、暴れたら危な、あああぁ!」
「……はぁはぁ、いたたた、ああ、馬が逃げちゃった。あ、向こうに宿が見えるよ、お父さん……。ねえ、お父さん?」
「あ、あ、あぁぁ……魔王の誘惑になど……乗るものか……」
「そ、そうだよ、お父さん。やっとわかってくれたんだね……」
「ええ、はい、もちろんです。ちなみに、おお、天国にはそんなサービスもあるんですね。ふふふふふふ」
「別陣営と交渉を……ん、ねえ、お父さん? お父さん? お父さーん!」
宿の手前で落馬した親子。父親は天を見上げて幻想に喘ぎ、息子に抱かれて息を引き取ったのだった。