怪物使いの村 中編07
水影を映した蓮の花が、静かな風に揺れました。
「エエト……失礼ですが、お会いした事がありましたでしょうか」
記憶力はそれなりに良い方との自負がありましたが、柔和そうな男性の顔には見覚えがなく。冷や汗がにじみかけた時、頼池様は微笑みました。
「覚えていなくても、無理はありませんよ。十年近く前の事ですから。あなたの養父……叢雲がね。君を連れて、ここに来たことがあったのです」
唐突に飛び出たのは、師父の名。何か硬いもので、胸を突かれたような気持ちがいたしました。胸の前で手を握るワタシには気付かず、頼池様は続けます。
「私が『何か特技はありますか』と聞いたら、君はこんこん、と手を耳の形にして、子ぎつねの真似をしてくれました。それが可愛らしくて」
「──頼池殿」
低い声が、頼池様を遮りました。
声の主は不機嫌そうに眉をひそめ、組んだ腕の上で指をトントンと動かしています。
「……これは失礼」
慇懃無礼どころか、傲岸不遜。普段の穏やかな振る舞いはどこに落としてきたのやら、氷柱のような目をした月牙様にそれでも微笑み、頼池様は続けます。
「不思議な縁もあるものだと、素直に感心していたのですよ。しかし、これ以上、貴方の機嫌を損ねるのは得策ではない。本題に戻ると致しましょうか」
双方。姿勢を正した『親子』は、互いの顔をまっすぐに見据えながら、淡々と言葉を紡ぎました。
「事前に連絡をいただいた案件は、三つでしたね」
「はい。まず、『風生獣』の使役飼育登録について。彼女が飼育登録をするに当たって、貴方からも正式な許諾と調整をお願いしたい」
「既に調整を始めていますよ。もし、貴方自身が飼育を続けたいと言い出したり、もっと強力な怪物の扱いを、その娘に一任したいと言い始めたなら、困ってしまったでしょうが……」
チラリとワタシを見、頼池様は微笑みました。
「風生獣は風を生み、成獣は傷をも癒す能力を持つといいます。傘下に置くに、適した怪物なのでしょう。あなたが気に入るものは珍しいですからね、無理に手離せとは言いません」
「……」
満面の笑みの頼池様に、無言で礼を返し。月牙様は続けました。
「ふたつめ。過去のサギビ討伐時の作業記録。付近の竜沁濃度計測図。それから、近隣の河川地図の写しをいただきたい」
「セキショウ集落の者たちに頼まれて、サギビの実態を調査するのが目的だそうですね。準備しておりますとも」
背後に控えていた巫子によって、手ぬぐいに包まれた本らしき荷物が、月牙様──ではなく、ワタシに差し出されました。
一瞬、「なぜ自分に?」と思いかけましたが、荷物持ちと判定されたのでしょう。素直に受け取れば、巫子は無言で頼池様の背後に引き下がっていきました。
重なる違和感の数々。じわじわと、月牙様が頼池様に会いたがらなかった理由を理解し始めたのですが、剣呑な会話は淡々と続き。
「私としては、実態の報告さえあれば十分なのです。何も貴方自らが解決に動かなくとも良いと、再三言っておりますでしょう」
頼池様の言葉に、月牙様はぴくりと片眉を上げました。
「事態に対応できる、適切な人材が派遣されている土地であれば、積極的な関与を行うつもりはありませんよ。しかし」
巫師の肩書を背負う以上、人々の希望は寄せられる。これまでの場合、宿や社など、対応しなければ自身の安全にも影響がある事例が多かったので、自身が動くべき状況であった。冷静に告げる青年に、頼池様は肩をすくめてみせました。
「市井の声を聞きたい、という貴方の意見も理解はできますがね。御身を危険に晒してまで、助ける必要はありません。セキショウ集落の鬼奴も──」
「セキショウの民には、対等な条件で協力を取り付けたのです」
風生獣の飼育許可と、サギビの実態調査。双方が納得できる手札を交換しただけだ、と。やや早口に言い切ろうとした青年の言葉に、被せるようにして。
「対等の立場に降りる必要など、無かったでしょう」
告げられた言葉に、月牙様は完全に閉口しました。
「……」
茶会の空気は、両端から力任せに引いた縫い糸の如し。張りに張り詰め一発触発。ここでワタシが口を出したら、事態の更なる混迷化は間違いなし。
再び汗がにじみかけた時、口を開いたのはイリス様でございました。
「頼池さん。大切なご子息を我らが学院にお預けいただき、また、技術検証にもご協力いただいている事。学院都市は、日頃より感謝しています」
やや訛りはあるものの、流暢に紡がれる朔弥語。柔和で優雅、しかし作り物のような微笑みに、頼池様も似たような表情を返します。
「彼は非常に優秀な学徒の一人ですが、我々の技術では、彼の能力になかなか追い付かず。担当技師としても、非常に申し訳なく思っております」
「とんでもない。彼の義眼は非常に高性能な、最新技術の粋と伺っております。息子が関心を持ち、導入に積極的な姿勢を見せた理由も、理解しているつもりです」
「ええ。高い能力を有しながら、未知の技術、不慣れな習慣も積極的に取り入れようとする。それが、彼が優秀たる所以だと、教授陣も申しておりました」
月牙様をちらりと見やり。イリス様は、その金眼を鋭く細めました。
「実地調査において、地位通りに振る舞う事は、時に学術の妨げとなる。学院都市では、そのように学徒に教えるのです。彼は、我々の教えの通りに振る舞い、必要な情報を集めただけの事でしょう」
──ご指摘はどうか、ご子息ではなく我々『学院』に。
イリス様の言葉。その真意を理解するには、時間がかかりました。しかし、要約すれば以下の通り。
『国外の学院に身柄ごと丸投げしてた癖に、要所だけ親顔すんなタコ』
……我々が飲んでいたのは茶ではなく、皮肉とイヤミの煮汁だったのでございましょうか。月牙様が市井の人々に向ける営業笑顔が可愛く見えるような、高度な腹芸の応酬を目の当たりにいたしました。
「これは手厳しい」
「手厳しい? 申し訳なく思う気持ちでいっぱいで、意図が分かりかねますが……今後とも良き関係を続けられれば、きっと本国の教授たちも喜びます」
ふふふ、ははは。乾いた笑みが、湿気た夏の風にさらわれて流れました。その後も淡々と続く事務処理の間に、複雑な意味を内包した言葉が飛び交っては空気をトゲまみれにしていくのです。
──もう帰りたい。皆で浴場に行って、泡葡萄水でほてりを冷まして。白鼻丸を抱いて寝たい。
などと。思考が現実逃避を始めかけた頃、頼池様が姿勢を正しました。
「……では、サギビの実態調査については一任します。それから、貴方に依頼されていた、もう一つの案件ですが」
月牙様が、無言で身を乗り出しました。
うんざりした表情から一転、その面持ちには真剣な色がにじんでおりましたが、しかし。
「この件については、サギビの対応が落ち着いた後で話すのが好ましいでしょう。まずは、現場に集中してきて下さい」
「……」
渋面、三倍増し。
『分かりました、では』と短く告げて、月牙様はさっさと席を立ってしまわれました。一礼したイリス様も、後に続き。
「杏華、行こう」
澄まし顔の時雨ちゃんに裾を引かれて、ワタシも慌てて頼池様に会釈をし、踵を返したのですが。
「待ちなさい」
呼び止められ、入り口のそばで振り返りました。
「息子と仲良くしてくれている事、感謝しています。偶然の出会いだとしても、彼にとって君は重要な存在なのでしょう」
「左様で……」
「しかしね。彼には、身分相応の責任がある。立場を忘れるような振る舞い、間違いがあってはなりません。ゆめゆめ、忘れないように」
ワタシの距離感は、身分不相応である。頼池様がおっしゃりたかったのは、そのような意図でございましょう。
久しぶりの、立場相応の扱い。そして、眼前の人物の気分一つで、自分はぷちりと潰される羽虫だと再認識してすくみ上がった、その瞬間。
「頼池」
時雨ちゃんが、唸るような低音を発しました。
「さっきから、子供たちに意地悪しすぎ。ちょっと静かにするべき」
時雨ちゃんは相変わらずの澄まし顔。しかし、その蓮池のような瞳は爛々と輝き、正面に座る男を見据えておりました。
「大変申し訳ございません」
頼池様は、即座に首を垂れました。
「若者たちがあまりに仲睦まじくしているものだから、少し嫉妬してしまいまして」
「……。行こ、杏華」
鼻を鳴らし、時雨ちゃんは踵を返しました。
ワタシも後に続いたものの、扉を閉めるまで、己に向けられた視線をずっと感じておりました。
さてさて。拠点に戻り、皆で集まる談話室。頼池様から受け取った地図を広げ、ワタシには読み解けない竜沁の地図を重ねて唸り。
諸々の議論を重ねた結果。イリス様が持ち出してきたのは、可愛らしい小鳥の模型──その生々しい感覚とやらで月牙様を翻弄した、分身神用の外装機巧でございました。
「川沿いを調べると言っても、ねぇ。歩いて行くには遠いじゃない。まずは、この子でちょっくら飛んできなさいよ」
◇肥金
水鳥、特にカワウのフンから作られる肥料で得られる金銭は、繁殖地近隣に住まう人々に重宝されていた。現代では肥料としての需要はないものの、糞から得られるDNA情報からカワウの採食歴を調べる分析法が編み出されている。




