怪物使いの村 前編05
「よく育っとるな。風生獣は、山の民がよく相棒にするケモノじゃけん、扱いは心得ちゅうよ」
怪物医は白鼻丸を部屋の中央の机に置き、その身体を撫で始めました。
「今年生まれの当歳仔じゃな。性別はオス、筋肉量は十分。ずいぶんと、体内の竜沁回路が安定しちょる。こいつ、エサだけで育てたわけじゃあねえな……血の主はあんたか、兄ちゃん」
己の血を与えていただろう。指摘を受けて、月牙様はたじろぎました。
「なぜ分かったのです?」
怪物医はそれには応えず、鼻を鳴らして続けました。
「給血については、どこかで聞いたんか」
「え、ええと……異国の友人からです。ケモノの子は、しっかり食べさせていたとしても、成長に必要な竜沁が欠乏していたら、成体になる前に衰弱して死んでしまう。空気中の竜沁が薄い環境で育てる時は、血を与える必要があるのだと。それで……」
「友人に恵まれたな。だが、情報が足らん」
白鼻丸の口の中、腕の筋肉などを順繰りに調べながら、怪物医は続けました。
「血を与える量が多すぎたり、長く血を断ったりすると、怪鬼になる危険もある。怪物使いが世襲なのは、ケモノの身体が安定するかどうかが、与える血の質に大きく左右されるからなんよ。誰が主でもええってわけやない」
薬棚から取り出した、木製の小皿を三枚。その上に小さな針を乗せたものが、我々の方に差しだされました。
「少しで良い。ここに血を落とせ」
ワタシは戸惑いつつ、小皿を受け取りました。一人一枚、小皿を配ろうとしたのですが。
「時雨はやらない。ふたりだけやって」
時雨ちゃんはぷいとそっぽを向いてしまい。月牙様を見上げれば、時雨は問題ないとばかりに二枚の皿を取り上げました。指先を針で刺し、ぽたぽたと血を垂らす様子を見て、白鼻丸が興奮したように騒ぎ始めます。
「杏華、君も」
促され、ワタシも己の指先を針でチクリと刺しました。赤く丸まった血の玉が膨らみ、木皿の上にぽたりと滴ります。
「こちらでよろしいですか?」
「ああ」
怪物医は木皿を受け取り──その皿に指を付けると、ワタシの血をぺろりと舐め取ってしまいました。
ぎょっとする我々を差し置いて、怪物医は真剣な様子で頷きます。
「嬢ちゃん。あんた、こいつに懐かれてるじゃろ」
「ま、まあ……言う事は聞いてくれるでございます」
「あんたの血からは、山の木の実の味、春の花みたいな甘みが伝わる。雪が解けた小川、若葉のにおい……あんたはきっと、山の民の血を引いとるんじゃろ。風生獣とは、血の相性が良いと思うで」
口に水を含み、ベッとワタシの血を吐き出した怪物医は、続けて月牙様の血が入った小皿を手に取りました。近くでにおいを嗅ぎ、猫のように鼻にしわを寄せたかと思うと。
「……これは」
舐めた直後、口元を押さえてじっと黙り込みました。
「そ、そんなにまずかったですか……?」
「逆だ。甘い」
怪物医は、水差しを傾けながら続けました。
「あんた自身からは、菖蒲のような涼やかなにおいがする。だが、藤の花のような、強いにおいが上から被さって……それだけじゃねぇな。薬草酒みたいな複雑な味で、甘さに酔いそうになる。まるで、数十人分の血をまとめて舐めたみたいに」
透明な水が器に注がれ続け、ほんの少しだけ溢れました。器の水を口に含み、机にこぼれた雫を手で拭って、怪物医は長い溜息を着きました。
「あんた、ケモノに襲われやすいじゃろ」
月牙様は一瞬だけ言葉に詰まり。直後、己の腕に飛びついて傷を舐め始めた白鼻丸を見下ろし。
「見ての通りで……あだっ!」
白鼻丸を腕ごと持ち上げようとして、足元から襲撃してきた怪鳥のくちばしに悲鳴をあげました。
(言われてみれば……)
白鼻丸の母個体だったカマイタチ。鉱山町への道中で見かけたクビカジリ。あの恐ろしいタタリモッケに、懐いてはいるらしい白鼻丸。多くのケモノは、真っ先に月牙様を狙って攻撃を仕掛けていた事を思い出します。
(はて。しかし月牙様は、ワタシがケモノを寄せる体質だとおっしゃっていたような。月牙様の見立てが間違っていたのでしょうか)
首を傾げるワタシの前で、怪物医は月牙様を襲う怪鳥を掴み、隣の部屋に投げ込みました。
「ポイサラ、あっち行ってろ……あんた、玖蓮大社の高位巫師をやっとる言うたな」
「はい。そのような役目を務めさせていただいております」
「本当に、それだけかね」
無言。窓の外から吹き込んだ風が、生臭いケモノのにおいを乗せて、流れていきます。
「……」
月牙様が何も答えないのを見て、怪物医は嘆息しました。
「あんたの血は、並のケモノには強すぎる。麻薬みたいなもんじゃ。これ以上、その子をあんたが育てるのは無理じゃろう。懐いているかどうかは、関係ない」
月牙様の腕にしがみつき、ご機嫌で青年の指を舐め終わると、撫でろとばかりに掌に頭を押し付ける。そんな白鼻丸を見下ろし、怪物医は寂しそうに笑いました。
「こいつは、まだ若いけえの。去勢して、身体の成長を制御するのと同時にやりゃあ、血の主の変更ができるだろう。給血を急に止めたらあかん。徐々にあんたから与える頻度を減らして、嬢ちゃんの血に変えていくんじゃ」
「……あの。こいつを飼い始めたのは、僕なのです。杏華は、こいつの面倒を見る義務はなくて」
「俺は、ケモノを怪鬼にするのは好かん。お前がやれんのなら、わしが間引いたろうか」
生半可なことをすると、殺すしかなくなるぞ。怪物医の警告に月牙様は肩を揺らし、下唇を噛みました。
「……そいつはおそらく、親よりも大柄に育つ。隠して旅をするには、限界があるじゃろ? ケモノを堂々と連れて歩けるのは、鬼奴の人間だけ。それも、鬼奴人の組合免状を持っている奴だけじゃ」
この国では、純血の朔弥人は、ケモノ使いになる事はできない。国の制度もそうだが、自分たち鬼奴の民が許さないから。そう前置いた上で、怪物医は続けました。
「ケモノは朔弥人に嫌われるけどな、風生獣は例外じゃ。風を生むっちゅうことで、祝福の芸に使う民がおる。連中に話を通して、免状を発行できれば、嬢ちゃんが連れていてもとやかく言われんじゃろう。知り合いに頼んで、嬢ちゃんの分の飼育許可を作っちゃる」
白鼻丸を御す手段を得て、飼育許可を得て、堂々と連れて歩けるように手配をしてくれる。その条件は、願ったりかなったりでございました。出会ったばかりの男からの提案に、ワタシは。
「どうして、そこまでしてくれるのでございますか?」
まず、素直な疑問をぶつけました。怪物医はワタシの顔を見つめると、入れ墨の入った顔を、笑顔に染めました。
「どういう経緯かは知らんが。そいつが大切に育てられてきたのは……あんたらに懐いているのは、見れば分かるけえの」
ただ、それだけだ。そう告げる怪物医の言葉には、静かな説得力がありました。
薄汚れ、決して快適ではない小屋の中。その男の肩に差し込む光は、陽だまりのように暖かく見えました。
「杏華」
対する月牙様は、ケモノの子を腕の中に抱えたまま、ワタシを見下ろしました。
「君が、こいつの面倒を見る義務は、本来ありません。時雨が拾って来たとしても、飼い始めたのは僕ですから。面倒が見れなくなったからと言って、君に押し付けるのが不適切な事は、十分理解しています。だから、もし嫌であれば……正直に、断ってもらって構わないのですよ」
友人の伝手を頼れば、預け先を探す事はできるから。明るく言う月牙様の手は、白鼻丸を大事そうに抱えておりました。
はじめは、面倒が見れないなら処分すると仰っていたくせに。うつむいた顔に、自然と笑みが浮かびました。
「……白鼻丸。こちらへ」
ワタシは、白鼻丸に両手を伸ばしました。白鼻丸は月牙様の胸に頭を一度だけこすり付け、ぴょいとワタシの胸に飛び込みます。
別に、特別な動きではございません。このケモノは月牙様にエサを貰って満足すると、ワタシの膝に移動して、身を丸めていたのです。いつもなら「現金な奴め」と言って笑う青年の表情は、硬くこわばっておりました。
「この子は、ワタシにとっても大切な旅の輩。今さら置いて行くつもりはございませんよ」
しなやかなケモノの背を撫でれば、するりと尾が巻き付いてきました。初めて見た時は、刃のような尾が怖くてたまらなかったのですが、尻を叩き返す余裕すらございました。慣れとは不思議なものです。
「ただ……急に血を与えろと言われても良く分からないですし。堂々と連れ歩くのであれば、心得のようなものは教えていただきたいと言いますか」
「安心せえ。最低限は教えちゃる」
ワタシのためらいがちな要望に、怪物医は片目をつむって応えました。
「去勢手術に必要な薬草と、そいつに付ける首輪や証書の手配が必要じゃ。数日貰うが、構わんか」
「もちろん。感謝します」
怪物医に月牙様は深々と頭を下げ、最上位の礼を返しました。
そして事前に聞いていた、手術代の相場額を取り出し。少し考えて、三倍の値段にしてから怪物医に差し出しました。手術以外の部分、登録の手続きに必要な金額が分からなかった為でしょう。
しかし、怪物医は半分以上を月牙様に返し、肩をすくめました。
「余計な分は要らん。俺もな、あんたらに頼みたいことがあるんよ」
「と、言いますと」
怪物医の表情に、真剣な物を感じたのでしょう。姿勢を正した月牙様でしたが、しかし。
「なー、おっちゃ。話終わったけ? お茶淹れたんよ」
ぴょこりと飛び出してきた少年、ペッチャくんによって会話は遮られました。
◇野生動物への手術
野生動物への首輪装着、皮下へのロガー装着などの為に、麻酔をかけたその場で手術を行う事がある。野外での処置になる為、機材を背負って山を登る。




