異国の機巧 04
先ほどまでの、イリス様への喧嘩腰はどこへやら。きょとんとする白鼻丸を抱き、部屋の隅に逃げた月牙様を、イリス様は見下ろしました。
「だって貴方、その子を制御できていないでしょう。ケモノの多くは、性成長を抑えれば必要な竜沁消費量も減る。攻撃性も抑えられるし、しつけの問題だけで済ませられるわ」
「しかし」
「貴方の血は、一般人とは竜沁量が段違いなのよ。だからその子も安定して成長できたのでしょうけど、このまま成獣に育てたら、貴方の血以外では必要な竜沁が確保できない個体になってしまうわ。最悪の場合、貴方以外の人間を傷付けて、殺処分にせざるを得なくなる。その子を処分するのは、流石にキツいでしょう?」
「……」
月牙様は、キュッと口を結んだまま……しかし、やや腕の力を緩めて、白鼻丸が顔を出すのを許しました。状況を理解しているのかいないのか、周囲を伺う白鼻丸に、イリス様は少し哀しげな視線を向けました。
「風生獣は、あくまで怪物なのよ。犬猫じゃない。在りのままの姿で、人と暮らす事はできないわ。どうしても、野生動物としての特性や、生存本能を制御する手段が必要になる。貴方が一番、分かっているでしょう」
「それは、理解しています。しかし……この国には、怪物を扱う技術者の育成機関がありません」
月牙様は、迷いを抱いている時特有の、たどたどしい口調で続けました。
「帝国のように、竜沁回路を正常に残したまま臓器を切除できるとは限りません。竜沁不全からの、衰弱死もあり得るでしょう。問題なく手術できるとすれば、鬼奴の者でしょうが……それでも衛生的な危険性はあるし、奥山に隠れ住む彼らに、そんな都合よく接触できるとは思えないのです」
つまり。白鼻丸の凶暴性を抑えるためには手術が必要ですが、その手術のせいで死んでしまう事があり得る。月牙様は、失敗を恐れて施術の判断に踏み切れなかったのです。
今でこそ、愛玩動物の去勢は当然に行うもの、という文化がございますけどもね。朔弥皇国は、畜産があまり盛んではなく。特に、怪物に該当し得る獣の飼育は、鬼奴の賎民が行うという認識でしたから、市井の獣医は僅かだったのでございます。
「……これは、後輩たちから聞いたのだけど」
イリス様は、うなじに手を当てながら言いました。
「この街から少し上流の、セキショウ集落ってところにね。鬼奴の怪物医がいるそうよ。この辺り、サギビってケモノを使った漁法があるんでしょう? その漁に使うケモノの、去勢手術も担当しているんですって」
月牙様は、弾かれたように顔を上げました。
「大社が落ち着くまで、時間がかかると思うし。やって貰えるかは別として、まず会いに行ってきたらどう? 勿論、機巧の整備が終わってからだけどね」
月牙様は、腕の中の白鼻丸を見下ろし。その背から尾にかけてをそっとひと撫ですると、地面に降ろしました。
「礼は、言っておきます」
「どういたしまして」
「白鼻丸、杏華から餌を貰いなさい。僕は夕飯の準備をしますから。杏華、餌やりが終わったら、手伝いに来なさい」
「承知でございます」
月牙様は白鼻丸の尻をぽんと叩き、踵を返します。澄まし顔ではありましたが、やや雰囲気が和らいだ様子の青年を見送り、ワタシは胸を撫で下ろしました。
「ところで、時雨」
「なにイリス」
部屋から月牙様が去り、足音が遠かった瞬間。イリス様は時雨ちゃんの前にしゃがみ、満面の笑みを浮かべると。
「あだっ」
その額に、額面指弾を発射いたしました。
「時雨。あなたが、彼にケモノの世話をさせようとした意図は分かるけどね。拾って来たのはあなたなんだから、ちゃんと面倒見なきゃダメよ……返事は」
「はぁい」
「よろしい」
時雨ちゃんが大人しく頷くのを見て、一件落着。ワタシは白鼻丸に餌を与えると、月牙様と共に厨房に立ちました。
蒸籠等の調理器具の他、異国風の食器類まで並んだ、豪勢な厨房に月牙様は興奮止まず。夕飯には焼売や野菜蒸し、魚の香草蒸しなど、様々な料理が並べられました。
普段、少ない調理器具で工夫している事への反動と、白鼻丸の件で光明が見えそうだという希望──すなわち月牙様の上機嫌も上乗せされたらしく。食後には、飾り切り果物を乗せた卵風鈴まで並ぶ始末でございました。
さて、食後はといえば。この街の名物、あちこちに乱立する温泉浴場に赴きました。
ハスノハの源泉は湯量が非常に多く、街のあちこちに公衆浴場が作られておりました。浴場のそばには居酒屋を始めとする店も立ち並び、満腹であっても視線が動いてしまうような、魅力的な町通りでございました。
浴場ごとに様々な効能、売り文句が喧伝されている中。我々が最初に選んだのは、男女別の仕切りを儲け、湯をややぬるめに設定した、異国人にも受け入れやすい浴場でございました。
湯を上がったら休憩室で集合、という事で月牙様と別れ、我々は真新しい脱衣所が設けられた女湯に入りました。
木製の浴室、やや洒落たタイル作りの浴槽はよく手入れが施され。ちょうちんの灯火で、水面は橙色に揺れておりました。他の浴場に比べて小さいせいか、我々の他に客はおらず。悠々自適の貸切状態でございました。
これは僥倖、一番湯を堪能せねばと身体を伸ばすワタシに、イリス様はふと訊ねられました。
「杏華さん。さっきから気になっていたのだけど、その足首の刺青は何?」
◇家畜種と野生種
「どんなに絆を深めたとしても、それが人間を加害しない理由にはならない」のが野生の獣。長い時間をかけて人間と共生関係に至った種と、同列に扱ってはならない。すべき処置は行い、その上で獣種に合った生息環境や餌を用意するのが好ましい。




