風を鳴らすモノ 後編01
怪物は人を喰らうモノ。人の弱さに付け込み、あらゆる手段で精気・生命を奪おうとする化外の象徴として、曖昧に語られる存在です。
ワタシが誦じていた建国奏歌に怪物討伐の物語は存在しましたが、『建国の英雄が、聖剣を手に雲から舞い降りた!』だとか、『清廉たる皇姫の威光に、怪物自らひれ伏した』みたいな内容が一般的でしたので。
「けほっ、げほっ! すいませ、水……っ!」
屋根裏から這い出てきて、ひたすらにむせる青年とはどうにも想像が一致せず。頭に疑問符が浮かぶばかりでございました。
「水でしたらこちらに」
「ありがとうございます。あと、手拭いを絞っていただけませんか。手が汚れていて」
「承知でございますよー」
涙目で水を煽り、煤けた頬を手拭で拭うと、青年は疲れた様子で腰を下ろしました。
我々の居場所は旅館の外。眼前では、屋根裏に焚かれた香の煙があちこちから宙に上り、かぐわしい薬草の様な、しかし目がヒリ付く刺激臭が辺りに漂っておりました。
「怪祓香が屋根裏に拡散するまでは、僕達も待機します」
赤く腫れた目に手拭いを当てつつ、青年は続けました。
「いや、しかし屋根裏の状態が悪い。顔を覆える布を用意した方が良さそうです。手配をお願いできますか」
「先ほど雑巾を頼まれた際に、掃除用品一式とあわせて用意いたしました。水は手洗い用と布類の洗浄用で分けましたから、良ければ手も洗って下さいまし。他に必要なものはございますか?」
「……。君、準備が良いですね。であれば、ひとまずは問題ありません。感謝します」
青年の手にたらいの水を掛けていると、ふいに背後の茂みがカサカサと揺れ始めました。
ワタシは肩を跳ねさせてしまったのですが、青年は落ち着き払った様子で茂みを見つめます。少しすれば、ふてぶてしい顔をした三毛猫が現れ。ワタシの足を無遠慮に踏み付けつつ、青年の足に擦り寄りました。
「おや。宿の飼い猫でしょうか?」
青年に甘える猫を見て、ワタシは肩をすくめました。
「看板猫のみーちゃんでございます。ワタシの枕元に定期的にやってくるのに、起きようとすると殴ってくる不届者でございますね」
「猫は気まぐれですからね」
手慣れた様子で猫を抱き上げると、青年は立ち上がりました。
「道理で。カマイタチ以外に、長尾猫の痕跡が多いと思ったんです」
「痕跡、でございますか?」
首を傾げたワタシを見て、青年は少し考えると、柱の近くに歩み寄りました。
「猫と同程度の大きさのケモノ──便宜上『中型ケモノ』と呼びますが、中型ケモノ類の害が疑われる時は、痕跡から種類を特定します。大きく分けて、床下や林縁などの地上を好む種と、屋根裏や樹上を好む種がいますが、今回のカマイタチは屋根裏を好む種です。ですので、このように」
青年は器用に猫を抱えたまま、旅館の柱に指を添わせました。青年が指差した先には、丸っこい泥汚れがいくつも並び、上に向かって伸びております。それが屋根裏に続く隙間まで伸びているのを確認し、青年は視線を戻しました。
「柱に付ける痕跡に、身体の特徴が現れます。カマイタチは身体が非常に軽く、また肉球が発達したケモノです。柱にほとんど爪痕を付けず、木材に肉球を押し付けるだけで登る事ができる。肉球型の泥汚れと、鋭い刃尾が付けた細い傷跡が同時にあれば、カマイタチの仕業と断定する事が可能です。しかしですね」
柱の足元のみに並ぶ、無数の爪痕に視線を移します。細い間隔で四本並んだ傷跡を示して、青年は微笑みました。
「こちらはカマイタチではなく、みーちゃんさんの爪研ぎ跡でしょう。長尾猫はカマイタチよりも体重が重く、爪を立てて登る習性もありますから、カマイタチの痕跡とはある程度区別する事ができます」
下ろされた長尾猫は、軽やかな足取りで厨房の方に向かって行きました。小鈴の音が遠ざかる様を見届けて、青年は嘆息しました。
「野良に慣れた猫を閉じ込めるのは難しいかもしれませんが、怪物が増えてくれば良い標的になってしまいます。それに、予定通りにオリ罠を使っていたら不便したでしょうから、本当は室内飼いをして欲しいところですね」
「罠、でございますか?」
青年は頷き、言葉を続けました。
「ケモノに正面から挑むやり方、戦闘には必ず危険が伴います。人間より身体能力に優れ、こちらを殺す気で掛かってくる相手に、面と向かって挑むのですからね。今回の囮や、燻出しのようなやり方は、かなり荒っぽいというか……他の方にはまず勧めないやり方です」
ケモノ用の罠を用いて、動きを封じてしまった方が確実。青年の言葉に、ワタシはちと首を傾げてしまいました。
「その為の神聖巫術ではないのですか? 怪物に対峙する為の祝福、竜神の加護。それらを用いた怪物退治の歌物語は数あれど、罠を使うという話は聞いた事がありません」
「一部の術は、対怪物に扱う事ができますが……巫師の技は、基本的に人とその生活圏を対象とした、守護と浄化の技術です。僕がどんなに頑張っても、怪物が平伏してくれる威力の威光は出せないので、歌物語の真似事はできません」
「ええと、つまり?」
「巫術は万能ではないし、物語とは脚色されるものなのですよ」
「それは確かに」
身も蓋もない正論でございます。ですが、ワタシは更なる疑問を投げかけました。
♢中型獣の特定方法
野菜や果物の食べ方、家屋の柱の登り方などから判別を行う。痕跡が出にくい場所では、黒マルチ(畑用ビニール)の周りに泥を撒き、足跡を残させる手法もある。
現代ではセンサーカメラという文明の利器があるため、カメラを仕掛けるのがいちばん確実。