ネムノ山路にて 01
イリスなる女人からの連絡を受け。我らがハスノハの街に向かった季節は、いよいよ陽射しも強くなり、野菜の彩りも豊かになってきた夏の頃でございました。
雨季を超えた畑の作物たちは、いきいきとその背を伸ばし。水田では、蒼穹と対をなす鮮やかな緑の稲達が、風を受けて波のようにさざめいておりました。
夏は忙しく、しかし祭り事も多い季節でしたから、人々は額の汗を拭いながらも、景色や食物の移ろいを楽しむのでございます。
さて。この年の夏は、我らが皇国にとって、大きな転換となる出来事があったのでございますが……何が起きたか、お分かりになるでしょうか。
ええ、正解です。この年に起きた歴史の転換点とは年号の変更。即ち、皇国の象徴たる──
「──皇姫が、お隠れになった?」
国政を担う武の王『源帝』と対をなす、信仰の王『皇姫』。若き皇族の女性から選ばれ、生涯を民への祈りに捧げる、清廉たる巫子王のお隠れ。
我々がその話を聞いた場所は、ハスノハの街に向かう途中で立ち寄った茶屋でございました。
茶屋の周りに用意された、飲食用の椅子。そこでたまたま相席になった男たちが、立札の知らせを教えてくれたのです。
「天結皇姫は、ご高齢であられたからな。次代皇姫には、天凪様が即位なさるとか」
「天凪様ってえと……源帝の……」
「第四妃の長女じゃないか? 今年で、えーっと、何歳になられたんだったか」
そんな男たちの会話に動揺しつつ、ワタシは思わず月牙様と時雨ちゃんを振り返りました。
お二人は箸を手に持ったまま、呆然と──しているかと思いきや。思いのほか落ち着いたご様子で、箸を動かしておりました。
「天凪様は、今年で二十三歳だったと思います。他の皇女は皆、ご結婚されているか、既に齢三十を超えています。皇姫に即位されるには、ご高齢でしょうね」
「社遣手の兄ちゃん、よく覚えてるな。社には、そういう話はよく入ってくるのか」
「神職関係者にとっては、重要な情報ですからね。どなたが即位されたとて、信仰が変わるという事はありませんが」
町人相手に『自分は社遣手ではなく巫師です』、などと口にする事もなく。月牙様は、淡々と蒲焼き丼を口に運びます。
風鈴が軽快に響き。川から運ばれた風が、茶屋のすだれを揺らす。そんな初夏の昼下がり。
それは、ありふれた日常の一幕でございましたが、人々はみな、どこかぎこちない表情を浮かべ。あるいは上の空で作業を行っては、大慌てで落とした荷を拾い上げておりました。
生活に必須の存在ではない。しかし、お気に入りの茶碗とか、髪飾りをなくしてしまったような。身近なものが消えてしまった喪失感に、町全体が包まれていたのです。
「まぁ、最近は、物騒な事件も増えてきたからなぁ。先代は、この国の災禍を己が身に封じなすったんだろう。新皇姫の代で、水源の加護が強まると良いなぁ」
町人が、そんな言葉を口にした直後。カランと箸が落ちる音が響きました。音がしたのはワタシの隣。月牙様でございました。
「……天結皇姫は、十五歳の即位から百四十年に渡り、信仰の加護を続けたお方です」
空になった丼に、拾い上げた箸を揃え。合掌した月牙様は、静かに目を伏せました。
「その御魂に、水源の加護と安らぎがあらん事を」
祈りの言葉から、黙祷に。周囲も月牙様と同様に、己の手を合わせました。天結皇姫の即位は、当時のワタシと同じ十五の頃。そこからお隠れになるまでの百余年、彼女は一国の信仰の要で在り続けました。
皇国の歴史において、皇族の方々は皆、常人よりも長く生きられる事が多く。皇姫は他の皇族よりも、更に長寿であられました。その長い生を、ひたすら祈りに捧げる皇姫の生き様に、民草が敬意を示すのは当然。
月牙様も、その在り方については例外ではなく──いえ。実利の為であれば、教義を歪める事も厭わない方でありながら、皇姫に向ける尊敬の念は、誰よりも真摯であったように思えました。
「……」
ですので。誰よりも深い祈りと、悲しみを捧げているように見える青年の横顔を見て、ワタシは立ち上がりました。
「水源の恵み 風渡り雲を超え……」
口ずさむは子守唄。水源の加護が、皇姫の祈りが、風に乗り我が子に届きますようにと願う、祈りの唄でございます。己の内に流れる竜沁を巡らせ、肺に集め。己の歌に乗せて解き放つ。
月牙様と時雨ちゃんに絞られ、否、修行を付けていただいた事で、ワタシはまじない歌の技量を着実に伸ばしておりました。
まじない歌──術式歌に乗せたのは、悲しみの感情を和らげ、心を穏やかにする祈り。対象は声が届く範囲にいる、人間全員。
暁色の竜沁光は、茶屋にいた人々に等しく降り注ぎ。顔を上げた月牙様の頬にも触れて、雪のように弾けました。
「……驚いたね。嬢ちゃん、まじない歌の歌い手かい! 身なりが綺麗だし、社遣手といるもんで、気付かなかったよ。兄ちゃんの道案内かい」
「まぁ、似たようなものでございますね」
一目で芸人と分からない服装をしろ、と月牙様に指示されておりましたので、周囲もワタシが旅芸人とは気付いていなかったようでございます。
とはいえ、人通りの多い街道での旅芸人は、珍しい存在ではございません。町人は硬貨を取り出しながら、笑顔を浮かべました。
「三弦弾きの歌い手なら、年始にこの辺りにも回ってくるがね。ここまで質のいいまじない歌を聞いたのは初めてだ。そら」
「わっ、とと。毎度でございます!」
話していた町人を皮切りに、あちこちから投げ込まれたお捻りを空中でひょいひょいと掴み、あるいは咥えて受け取り。その動きでひと通りの笑いとお捻りを集めてから、ワタシは再び椅子に腰掛けました。
「君のまじない歌は、効果がだいぶ明瞭になりましたね。竜沁の効率については、まだ伸び代があるようですが」
月牙様は、表情ひとつ変えずに茶を口に含みました。
「目立つ真似をして、申し訳ございません」
「いえ。君本来の仕事をしただけですからね。この辺りは、芸人登録とやらも要らない区間でしょうし」
怒るような事はありません、と淡々と告げて、月牙様は立ち上がりました。
「このネムノ街道から少し逸れた山の中に、確認で立ち寄りたい地点があります。野営の準備がいるので、早めに立ちましょう」
「しょ、承知でございま……ンン?」
顔面めがけて、ずずいっと。視界を塞がれる形で押し付けられた竹皮の包みからは、握り飯と干魚が覗いておりました。
「月牙様、こちらは?」
「君の夕飯です。今日の調査では、少し帰りが遅くなるかもしれないので。僕と時雨の戻りが遅ければ、先に白鼻丸と食べていなさい」
「はい、承知でございます」
月牙様と時雨ちゃんは、野営の時はいつも、ワタシと白鼻丸を野営拠点に残して調査とやらに向かっていました。寂しさを覚える事はあれど、ワタシも賢しく成長した白鼻丸と遊ぶ事を覚え始めておりましたので、素直に頷いたのですが。
「……あと、これはまじない歌の礼です」
追加で渡された干し柿に、目を瞬かせました。きょとんとするワタシを放って、月牙様はさっさ荷をまとめて席を立ってしまい。礼を言う暇がございませんでした。
「杏華、歌うまくなったね。後で白鼻丸にも、ちゃんと聴かせてあげて。さっき、首の後ろでもぞもぞしてうるさかった」
「はは……そうするでございます」
荷に食料をしまい、ワタシは茶屋の席を立ちました。時雨ちゃんと共に歩き出し、少し先で待っていた月牙様に追い付いてから、三人並んで歩き出します。
確かにその日の夕刻。月牙様と時雨ちゃんが、野営地に戻ってくる事はなく。ワタシは、日に日に体重を増してきた白鼻丸を抱いて眠りに落ちたのでございました。
して、翌朝。目が覚めたワタシの目の前にドンと置かれておりましたのは──
「ふぎゃー⁈ 」
──その羽毛を血で汚した、野鳥の死骸でございました。
【途中でひと休み】
山から山へ、あちこち動き回っていれば喉が渇くし腹も空く。長距離の移動を必要とする調査の前には、コンビニや道の駅の場所を事前に押さえておく事が大切。トイレ? 山ならどうとでもなるので、良きにはからって欲しい。




