河港の街 後編06
『……は?』
唖然の表情を浮かべる男を見下ろし、しまったと思ったのでしょう。しんと静まり返った部屋で、しかし。月牙様は、怒りに震えた声を搾り出しました。
『……祈りと、信仰で保たれてきた存在が。ただの、象徴に成り下がったとしても。人々の抱いた感情や、大切にされてきた土地が、消えるわけでは、ありません。私は、あなた方の神を知りません。信仰もしません』
それでも。その神を信じたいと願った人々や、信仰を護るために生きた人々に対して、敬意を払う事の重要性は理解しているつもりだ。
青年の言葉には、冬の小川のように鋭利な怒りと寂しさが宿っておりました。しかし、この言葉は、ワタシを含む多くの皇国の民が、胸に抱く感覚そのもの。控え室で様子を伺っていた旅館の人々すら沈黙し、時計の音だけが響き始めた直後に。
『こ……っのアマ! こっちが下手に出てたら、調子に乗りやがって!』
男が激昂し、月牙様の腕を掴んで押し倒しました。普段の月牙様であれば、掴まれる前に男を跳ね除け、逆に組み伏せていたでしょう。
『何を……!』
しかし青年は、白々しく押し倒されました。ご令嬢は非力でなければならない。先に手を出したという事実を上書きして余りある行動を、敢えて相手に取らせたのでございましょう。
月牙様の演技──小動物の様な恐れの表情に、男が嗜虐心を露にし、控えにいるワタシ達が腰を浮かせる中。男の手が、明確に衣にかかった瞬間を狙って、分身神がワタシの肩を叩きました。
「お客様、失礼いたし……何をなさっているのでございますか!」
ワタシは即座に動きました。旅館の制服で、さも偶然入ってきたかのように装い声を上げ。周囲に密かに待機していた水琴亭の従業員たちが、大慌ての振りで部屋に雪崩れ込みます。
騒ぎを聞きつけ戻ってきた商人──こちらはあくまで常識的な男でした──が事態を確認し、ドラ息子の非行に平謝りするしかない状況に持ち込み、事態を収束。
怯える振りを続ける月牙様を、こちらも従業員の振りで廊下に連れ出したワタシは。
「月牙様、大丈夫でございますか……?」
さすがにあの様な展開に至るとは思っていなかったので、恐る恐る月牙様を見上げました。
「……帝国人の体格には、負けますからね。術式を使えない状態で完全に押さえられると、さすがに肝が冷えました」
嘆息しつつ襟元を正し、傾いた髪飾りを引き抜き。青年は、ご令嬢の演技を雑に打ち捨てました。
「あと一秒合図を出すのが遅れたら、胸板を晒す気まずさと恥で爆死する所でしたし。考えるのも恐ろしいですね」
「言ったではありませんか。中途半端なバレ方をする位なら、勝負下着を忍ばせ、堂々と見せ褌していくべきだと」
「恥の上塗りが過ぎる。断固拒否します」
顛末の見届けは時雨ちゃんに任せ、我々にあてがわれた部屋に戻ると。青年は、ずるずると寝椅子に崩れ落ちました。
「というか、やらかしました。やってしまいました。ついカッとなってしまって。報酬出ますかね、これ」
「全額かは分かりませんが、代役の役割は果たしたと思うでございます」
青年は頷きましたが、椅子から立ちあがろうとはしませんでした。あからさまに疲弊した様子を見て、ワタシは立ち上がります。
「髪。もう解いてしまいましょうか。上衣は脱いでいただいて結構でございますよ」
「……」
青年が無言で頷くのを確認し、櫛を片手に寝椅子の後ろ側へ。喧騒から切り離された離れ。髪留めやかんざしをひとつひとつ外していく間は、穏やかな時間が流れておりました。
「……昔。妹に、髪を結って欲しいと言われて。見よう見まねで編んでみたのですが、左右が非対称になってしまって」
ふと。外された髪飾りを見ていた月牙様が、ぽつぽつと言葉を紡ぎ始めました。
「また練習させてあげる、と。妹は言ってくれたのですが。翌日には、母が妹の髪を短く揃えてしまって。それ以降、髪結の練習は出来ずじまいでした。時雨の髪は、君も知っての通りの剛毛ですしね」
ワタシは、髪を解く手を止めました。
「月牙様には、妹御がおられるのでございますか?」
「腹違いなので、顔立ちはあまり似ていませんがね。無口ですがよく笑う、人懐こい子です。そろそろ、君と同じくらいの背丈になっているかもしれませんね」
「腹違い、というと……ご両親が再婚されたとか、そういう?」
「いいえ。兄と妹は同じ母親から。僕だけ、母親が違うのです」
青年の視線は、手元の花飾りに向かい続けていました。私が髪を解くのを再開すると、ぽつり、ぽつりとその言葉が紡がれていきます。
「僕の家は、古くから巫師を輩出してきた家柄です。家を切り盛りするために、長子には当然男児が望まれますが、巫師の才を持つ女児の誕生も、同じように望まれていたのです。ただ、両親は兄を産んで以降、なかなか子を成す事ができなかったので」
能力を基準に選んだ女に、自分を産ませた。自分に、本当の母親の行方は知らされていない。
それは、青年の生い立ちに強く影響を与えた出来事であり──当時の皇国の。一定以上の地位を持つ家柄の人々にとっては、あり触れた話でございました。
おや、顔を顰めていらっしゃいますね。不快に思われたでしょうか。ですが、ええ。私達が生きていたのは、そういう国だったのでございます。
「僕が男だと分かった瞬間の、親族の落胆と言ったらなかったそうですよ。『母上』にとっては最悪の事態だったでしょう。自分の子でも無いのに、息子と呼ばねばならない僕が、術の才を持ち。待ち望んでいた己の娘は、僕ほどの才能に恵まれなかったのですから」
容姿端麗、聡明叡智を体現する青年は。己を誇るでもなく、自嘲気味に鼻を鳴らし、そして天井を仰ぎました。
「僕は。この国の在り方が、好きではありません」
香炉の煙が薄くたなびき、宙に消えます。豪勢な細工を施した色玻璃の向こうでは、小鳥たちが花を啄んでおりました。
「だから、あの帝国人の言葉に反論できなかったのです。僕自身が、生まれ持った属性だけで全てを決められる事を、誰よりも疎んじて来たのだから」
でも。そうであったとしても。
かんざしの柄を強く握る青年の指先は、白くなっておりました。
「その在り方を嫌悪しながらも、信仰と責務を背負わんとしてきた人々の……妹や、師匠達の気持ちを。僕の感情も。信じるものの無い男のひと言で片付けられる事だけは、どうしても我慢ならなかったのです」
外で。小鳥たちが、花を落として飛び去っていきました。窓際に落ち、そのまま風にさらわれた桃色の花を見届けてから、ワタシは嘆息します。
「……あの男は、おビンタ一発で済んで幸運でございましたね」
全ての髪留めを外し、確認の為に櫛を通し。月牙様がいつも用いている髪紐を差し出します。青年が己の髪を結える間、ワタシは寝椅子の背にもたれながら、天井の蒔絵に視線を向けました。
「しかし、兄妹でございますか。ワタシに兄妹はおりませぬが、どのような感覚なのでございましょう」
「兄とは、距離がありましたが……妹はよく笑い、人を惹きつける子でしたからね。人前に出す時は、細心の注意を払っていましたよ。不遜な輩が絡んできた時も、しっかりちゃぶ台で迎撃、撃滅を行っておりました」
「だから何故ちゃぶ台」
「女児に不遜な誘いをする輩には、親やそれに類するものが、ちゃぶ台を返して対抗するものなのでしょう」
「合ってるけども!合ってはおりますけども、常日頃から持ち運ぶのはやっぱり違うでございます!」
「君が何を言っているのか、僕にはさっぱり」
青年は肩をすくめると、淡々と手拭いで顔を拭い始めました。
「月牙様、月牙様。最近気付き始めたのですが、この件については意図的にボケていらっしゃいますよね」
「何のことやら」
髪を解き、化粧を落とし。性根の悪い笑みを浮かべる月牙様は、どこかすっきりとした表情をしておられました。まぁ、服はそのままだったのでございますけども。
──しばらくすれは、顛末を見届けた時雨ちゃんが部屋に戻り。
「ふたりとも、よく頑張りました。時雨褒め褒めアタック」
寝椅子の上に飛び乗ると、ワタシと月牙様の頭をひと撫で。旅館の服装は窮屈だとばかりに、こちらもすぐ着替えを始めました。
「後払い分の報酬は、ちゃんと全額支払うって。あと、エヴァディから連絡。お前の稼いだ金で、すき焼き行こうぜ!って」
「おごり前提なのは気に食わないですが、まぁ良いでしょう。この後、肉を食すべきなのは間違いないのですから」
と、いうわけで。それぞれが着替え、依頼主に挨拶と謝罪を行い。報酬を受け取った我々は、エバさんと合流しすき焼き屋に向かいました。
男女同数の状況で、普段ほどワタシや時雨ちゃんに合わせる必要が無かったからでしょう。月牙様は、次々と運ばれる肉を驚異的な速度で消費し。エバさんから無限に注がれる酒も飲み干し注ぎ返し、という不毛な戦いを繰り広げ。
「飲みすぎました。先に寝ます」
「ホラ言わんこっちゃないでございます!」
二日酔い確定の顔で、ふらふらと寝室に戻って行かれました。
「全く、警戒心があるんだか無いんだかでございますね」
「前に一回潰されてからは、こっそり解毒術式回してる事が多かったから。今回は、わざと酔ったんだと思う」
「逆に、それ以外では酔っていなかったのでございますか?」
「まぁ、酔う加減はいじってたと思う」
「はぁ……」
さて。ワタシと時雨ちゃんはというと、肉はほどほどに甘味が食べたいという話になり、帰路で購入した柑橘餅やら、焼き菓子やらで密かなお茶会を繰り広げていたのでございますが。
「お客様。お伝話が繋がっておりますよ」
と。宿の方に呼び立てられまして。酔い潰れた月牙様をお出しするわけにもいかず、ワタシはほとんど使った事のない伝話の受話器を、恐る恐る取りに行ったのでございます。
「え、エエト。もしもし? 月牙様は、いま、でんわに出られなくて」
そこまで言葉を発したところ、相手は少し間を置いて。
『もしかして、杏華さんかしら』
少し低めの、女性の声でお答えになりました。
「は、はい。その通りでございます」
『月牙さんから聞いているわ。ちょうど、あなたの機巧の調整をしたくてね。デューラーが、ハスノハの街で落ち合うつもりで移動してるって、月牙さんに伝えてくれる?』
聞き覚えのある街の名に、ワタシは目を瞬かせました。
「ハスノハというと、大社がある観光地の……」
『そ。よろしくね。一週間後には着けるように、なんとか調整するから』
女性は異国人なのでしょう。明瞭にハキハキとお話になるものの、その言葉にはやや訛りがありました。
「承知いたしました。あ、エエト。すみません。でゅーらさん。お名前、改めてお聞きしても?」
『──イリスよ。イリス・デューラー』
女性は、異国語に慣れぬワタシが聞き取りやすいように。ゆっくりと言葉を紡ぎました。
『イウロ帝国、学院都市チチェリットの博位学徒で、あなた達が扱う機巧の製作者。どうぞよろしくね、杏華さん』
◇酒宴の席
いまだにひと時代前の飲み方をしている理系蛮族は多い。突然、港で100m走をすると言い出し海に落ちたり、下半身の服を忘れて集落を横断して帰った猛者などもいる。捕まらなくてよかったな。というか飲み方気をつけような。




