河港の街 後編01
そして夕刻。水面が傾き始めた陽光に染まり始めた頃に、月牙様は目を覚まされました。
「おはようございます、月牙様」
「おはようの時間じゃ無いでしょう」
「ええ、まぁ。もうすぐ十七刻でございますね」
額を押さえながら身を起こし、青年は周囲を見回しました。
「時雨は?」
「買い物に行っているでございます。もうすぐ戻るかと」
「そう、ですか」
淡々と言葉を交わす間も、月牙様は目を合わせようとしません。笠を被ろうとしたのでしょうか。首の後ろに手をやり、笠が無い事に気付いた青年は、ぐいっと襟巻きを口元まで押し上げました。
「月牙様。あの」
「……」
しばしの沈黙。ワタシは、月牙様が自ら口を開くまで川を眺める事といたしました。我々が座した河川敷の上には大小様々な屋台が立ち並び、道ゆく人々に声を掛けております。
川のせせらぎ、人々の賑わい。頭上を照らす灯火と、地面から伝わる微かな冷気が、我々を包んでおりました。
「……僕の、上司に当たる者は。僕の技量のみを評価し、任務を命じたのですが。僕がこうして旅をする事に、大半の友人は反対していました」
ぽつり、ぽつりと。街灯の明かりが点く様を水面越しに眺めながら、青年は言葉を紡ぎました。
「巫師の位に守られているとは言え、あまり安全とは言えない旅路ですし……何より、僕の精神的な負担を心配する声が大きかった」
「……」
「同行を申し出る者もいました。でも、僕は、時雨以外の同行者を付けない事を、任務を受ける条件にしました」
男性巫師などという、ただでさえ身元を疑われる者が失態を犯せば、所属先の社が糾弾されかねない。
怪物対策も、清浄を司る社の領分と言えるとはいえ、異端の範囲。監視される事自体は承諾していた、と青年はうつむきました。
「……時雨ちゃんなら、良かったのでございますか?」
「時雨は、姉のようなものです。幼い頃から行動を共にしていましたから、知られて恥ずかしいとか、そういう事はないと思って。でも、さっきは、今までに無い程の怒りを感じてしまったのです」
「姉、でございますか」
そこ、妹じゃないのでございますね。と、突っ込みたかったのですが、青年の独白は止まらず。
「時雨に、心配をかけたくなかったのもあるのです。もう大人ですから。一人で動く事に、何も問題はないのだと。しかし、廃鉱町での僕は失敗ばかりで、時雨には、ひどく心配をかけてしまった。それに、時雨以外の周囲にも、僕が一人で動く事は懸念され、警戒されていたから、盗聴器なんてものが持たされていたわけで。つまり、『信用されていない』と言う事実を、再認識してしまって。それが、怒りの原因だったのでしょうか。しかし、それだけでは無かった気がするのです」
ワタシが無言で頷く間に、青年は伸ばしていた膝を少しずつ丸め、手のひらに爪を立てながら続けました。
「時雨に謝らないと、とは思っています。催眠術をかけたのも、僕の態度に動揺した上での行動でしょうし。以後、自分に与えられた監視任務に悩んでしまうだろうから。でも、何を口にすべきなのか、分からない」
この時の月牙様は。己の廃鉱町での失敗や、伴って抱いた感情を、処理しきれずにいたのでございましょう。怪物と相対した時や、お倒れになった時よりもずっと、困惑や幼さ、何より危うさが滲み出ておりました。
(……この御仁は。ワタシが思っていた程には、大人では無いのかもしれませんね)
以前から小さな違和感は感じておりましたが、この街にて確信いたしました。卓越した技術や話術が仮面となり、一見するだけでは気付く事ができなかった青年の素顔は。
(まるで、情緒の成長を置き去りにしてきたようではございませんか)
人々の心を掴む言葉を操る一方で、市井の子供達であれば、十数歳で体験し、理解するであろう己の感情を飲み込めずに困惑する。その在り方は、ワタシにはあまりに歪で、そして哀れにさえ感じられました。
「そうでございますねぇ……ええと……」
ワタシとて、なるべく月牙様の邪魔にならぬよう努力はしておりましたが。淡々とした態度の裏で、凄まじい負担を強いていたのだと思うと、迫り上がる罪悪感が凄まじく。しばし言葉に詰まった後、ワタシはニコリといつも通りの笑みを浮かべました。
「月牙様、月牙様。ご安心下さいまし。時雨ちゃんには、ワタシからひと言、添えておくでございますよ!」
「……どのように?」
「月牙様が時雨ちゃんに怒ったのは、布団の下に隠した春画本を母親に見つけられる気まずさに似た動機でございます。心配される事、掃除する為に部屋に入る事自体は、許容されているのですよ──と」
「ざ……雑な例えやめなさいよ!というか僕、春画なぞ持ち歩いていません!」
さぁっと顔を赤らめ、思わず襟巻きから口元を出した月牙様に、ワタシはピシリと指を突き付けました。
「他のものでも、同じでございますよ。人には、どんなに親しい間柄であったとしても、踏み込まれたく無い、明らかにされたくない領分というものがございます」
青年が、何も言い返さない事を確認し。ワタシは言葉を続けました。
「月牙様の領分は、時雨ちゃんには大きく開かれていますが、それでも守りたい領分はあるのだ、という事を自覚した。ふとした事がきっかけで、抱えていた他の感情も溢れてしまった。それだけの話なのではありませんか?」
「それだけ、ですか」
「ええ。誰しもが持つ、当たり前の情動の発露でございましょう」
「……」
青年は再び沈黙しましたが、これはワタシの言葉を飲み込む為の思考時間だったようでございます。青年の瞬きが落ち着いてきたのを横目に確認し、ワタシはわざとらしく背伸びをしました。
「ま、汚ったねえ運河に沈みに行こうとするのを見れば、時雨ちゃんが過度に心配したのも分かるでございますね。おばかでございます」
「僕、別に潜水で死んだりしないですし。家出して見知らぬ男に付いて来た考えなしに言われるほど、馬鹿ではないです」
「それを言われると、弱いでございますねぇ」
けらけら笑いつつ、内心では胸を撫で下ろす。心理的な百面走を展開するワタシに対して、青年は言葉を続けました。
「……君の事も、いろいろ考えていたのです。身柄を預かったのだから、責任は持たねばと」
「その事でございますが。ワタシも成人ではございますから。極力ご負担にならぬよう、襟を正して行きたいと申しますか」
「そう。そうなのです。君は僕があれこれしなくても、普通に生きていけるだけの生活力はあるんですよね。僕の都合で芸人登録をさせませんでしたが、それは僕が君の行動縛ってますし。やっぱり僕が、余計な気を回してるだけなのかな?とか……そもそも、本人にこう言う話聞かせるのって……先達としては、普通に失格なのではとか……あれ? やはり僕、もうダメかもしれないですね? ちょっと川で頭冷やして」
「ダメでございます」
パッと立ちあがろうとした青年の外套を掴み捕獲。全力で己を地面に固定しつつ、ワタシは声を絞りました。
「ええい、これにて安堵、一件落着と感じたワタシの期待を返して下さいまし。思考が混乱したからといって、逃げるのは禁止でございます!」
「しかし、このまま話しても僕は適切な言葉を出せない気が」
「言語化もままならぬのに、上っ面の言葉を整えようとするから、混乱するのでございましょう。ワタシとの話は終わっておりません。良いから、そこにお座り下さいまし」
「……」
「いま逃げたら、時雨ちゃんに言いますよ」
目逸らし。からのストンと着地。互いに深呼吸で息を整えた後。ワタシは、改めて膝を揃えました。
「あのですね、月牙様」
♢一挙手一投足を監視されてるのって
どこまで見られてるのかって考えて疲れるし、楽しくないですよねぇ。




